頼りない裸電球の光が、男女の肌を朧げに浮き上がらせているワンルーム。
女は、シングルベッドに寝そべる男の胸に頬を寄せ、狭いベッドから落ちないようぴったりくっついている。
そんな彼女の髪を、男は左手の指を埋めるように
「どうしても……付いてきてくれないのか」
「当たり前よ。財閥御曹司のあんたとスリのあたしじゃ、それこそ住む世界が違いすぎるってもんでしょ」
「何を言う。同じ世界に生まれた者同士だろう。生まれた家が違うだけで」
「あんたの家は大きすぎたのよ。それこそ世界がもう一個、家の中に作れちゃうくらいに」
「だからダメなんだ……今の財閥は親類縁者のコネ重用ばかりで発想力に乏しい。もっと外部から優秀な人間を登用しないと、葉室財閥に未来はない」
「あたしに、発想力なんかありませんよ?」
「大丈夫、君には優しさがある」
「はあっ!?」
「悪漢を追い払い、怪我の手当をしてくれて、こうして一晩中温めてくれた。俺が誰かも知らない癖に」
「こんなのただの気まぐれよ……。誰だって身綺麗な子猫が野犬に襲われてたら、かわいそうだなぁーって助けたくなるでしょう? それと同じ」
「俺はならん。その子猫が、懐いてでもいない限りな」
「猫は気まぐれよ。同じ助けられたでも、その時の気分で懐いたり懐かなかったりする」
「君は今、懐きたくない気分なのか?」
「首輪を付けたオスには、付いていきたくない気分ね」
「俺に首輪なんて付いてない」
「付いてるじゃない。左手に」
「これは……葉室家ではよくある政略結婚だ。今の妻も、愛情があって私と結婚したわけではない」
「あっそ。ならあたしと一緒ね。血統書付きの猫ちゃんがどんなもんか、暇つぶしがてら助けてあげただけ。愛情なんて欠片もないわ」
「妬いてるのか?」
「生意気言ってんじゃないわよ。暇つぶしだって、言ってんでしょ」
「どうせ暇つぶしなら、さっきのアレも教えてほしいところだな」
「あ~、無理無理。教えてできるもんでもないらしいし……って」
「どうした?」
「いえ……あんたなら、ひょっとするとひょっとするかもね」
* * *
瞑想のようにしばし目を閉じていた久右衛門さんは、カッと両眼を見開いた。
静かに立ち上がると部屋の全員を見渡し、地の底から響くような低音で一言発する。
「
その瞬間、視界の端から突然黒い
私だけじゃない……みひろもママもジルコも、コレクタのみんなも。目を覚ましたPB、野村先生、八雲さん亜由美さんまで!
部屋にいる全員が、久右衛門さんから発せられるドス黒いプレッシャーに圧し潰され、身動き取れなくなってしまう!
どうして……どうして久右衛門さんが、
みひろとママは
葉室財閥総帥という、トップクラスのプレッシャーを持つ久右衛門さんが紡ぎ出した
そう……この私室こそ、久右衛門さんが支配する
独裁者を前に民衆は彫像となって固まり、誰もが命令でしか動く事ができない。
「来い」
久右衛門さんは自席を離れ、ジルコの首根っこをひっつかんだ。
自分より身長の高いジルコを斜めに引きずって歩くと、みひろが座ってた椅子に足で蹴って座らせる。
「……んっ、がっ!」
「お前のコインだ。受け取れ」
呻き声を上げるジルコの前で、久右衛門さんは懐から金貨を取り出し指で弾いた。
コイントスは空中で方向を変え、ジルコの右手グローブの中に滑りこんでいく。
「んんっ……あがああっ!」
刹那、ドンとお腹に響く衝撃波が走り、コレクタ五人が揃って身を捩り苦しみだした。
夏美さん、リーラちゃん、ミセリさん、ママ、そしてジルコが、万能薬精製の衝動を受け、動かないはずの身体をくねらせ、声にならない悲鳴を上げている。
アジールで倒れたままのみひろの上で、光の集約が始まっていく!
「素晴らしい……やはりこの力、何が何でも解明せねばならぬ!」
五人が苦しむ五角形の中央、光の集約に歩み寄った久右衛門さんは、その奇跡を間近で観察し恍惚とした表情を浮かべている。
その足元で孫娘が、身体を起こそうと必死にもがいていても、一顧だにせず。
それでもみひろは、必死に説得の言葉を捻り出す。
「母親の脳を娘に移植し、万能薬で復活させようだなんて……お祖父さま! それは人として、やってはいけない事じゃないですか!?」
「葉室家の相続に関わらんお前には、一生かかっても分かるまい」
「違います……相続問題じゃない。これはお祖父さまの未練……若かりし頃の大切な思い出が、お祖父さまを禁忌の所業に突き動かしているのですっ!」
ここで初めて、久右衛門さんはみひろを見下ろした。
驚喜の発露著しい、夢見る若者のような煌めく瞳で。
「葉室財閥は、常識では測りしれぬ不可視の
時間が経つにつれ
「ジルコ……」
目の前の椅子に座るジルコに這いつくばって近付くと、その手を取って光に伸ばす。
「があああっ! あいみ……お前なにしてんだ……よっ!」
「私が……アンタの腕を支えるから、金爪! 久右衛門さんに向けて撃って、早く!」
「こんなんじゃ狙い定まんねーよ! みひろに当たっちまうぞ!?」
久右衛門さんは、光る万能薬に両手を翳し、その収束を待ち構えている。
その足元でみひろは、どうにか上半身だけ起こして、私に視線を送っていた。
「いいから撃って!」
「だああっ! もうどーなったって知らねーぞ!」
ジルコが金爪を撃つ直前、私は手の中の<プロビデンスアイ>を弾いた。
コインはものすごい勢いでみひろの右目に吸い込まれていき――と同時に、ジルコの震える指先から、二つの金爪が放たれる。
みひろは、久右衛門さんの和装にしがみついた。
射角、スピード、空気抵抗……<
「ぐわあっ!」
突然みひろに引っ張られた久右衛門さんは、万能薬を掴みつつもバランスを崩し――ジルコの金爪が後頭部にクリーンヒット。もんどりうって倒れたところ、更に跳弾がヒットする。
その瞬間、
「藍海!」
「みひろっ!」
腰砕けのまま、みひろが手を伸ばす。その後ろに、護身用スタンガンを手にした久右衛門さんが迫っている。
咄嗟に駆け出すも……距離がありすぎる! 今、再び
「
広い部屋を埋め尽くすほどの黒モヤが、瞬時に立ち込める。
走っていた私は、足がもつれ前方に転んでしまう。慌てて立ち上がろうとするも、動かな――くないっ!?
顔を上げると、邪悪な笑みを浮かべた久右衛門さんが後ろからみひろの肩に手を置き、反対の手にスタンガンを持ったまま固まっている。
なにが……いったい何が起きてるの!?
部屋に充満する黒モヤは、久右衛門さんが放ったオーラかと思っていたが、どうやら彼の背後から出ているようだ。
そこにはベッドで寝ていたはずの依子さんが上半身を起こし、黒いオーラを全身に纏わせて、こちらに真っすぐ右手を向けていた。
この
理解が追いついた瞬間、黒いモヤが霧散する。それと同時に、依子さんもベッドに倒れ込んだ。
ありがとうお祖母ちゃん……このチャンス、絶対無駄にしない!
隙だらけの久右衛門さんの手から万能薬をスリ取ると、右手のスタンガンもスッて和服の背中に叩きつける。
すれ違いざま、みひろの手を引っ張って依子さんの元に向かう。ミセリさんの席を通り過ぎる時、ついでにロープを斬っておく。
「お祖母ちゃん!」
「ママッ!」
二人で依子さんに駆け寄ると、みひろが真っ先に抱きついた。
みひろの鳴き声の隙間に、蚊の鳴くような声が聞こえる。
「それは、いらないよ……」
「お母さま……お母さまっ!」
急に力が抜けたように、みひろにもたれかかる依子さん。
その表情に生気はなく、どんどん青ざめていく。
「しっかり……しっかりして下さい! おかあさまっ!」
私は手の中の万能薬を握りしめ依子さんを見つめるも――すぐに踵を返し、部屋の入口に走った。
亜由美さんと一緒に見守ってくれてた八雲さんに、直接万能薬を手渡す。
「これ、今すぐ飲んで下さい。早く!」
依子さんが倒れた事で、
スタンガンで倒れたはずの久右衛門さん、五人のPBも立ち上がり、ゾンビのような足取りでこちらに向かってくる。
私は八雲さんの背中を押し、部屋から退出させた。
「許さん……許さんぞ八雲。万能薬を飲む事だけは、断じてゆるさんっ!」
スタンガンを喰らっても尚、身体を痙攣させながら、執念を見せる久右衛門さん。
周りのPB五人も、ボロボロになりながら迫ってくる……この人数で一斉に来られたら、さすがに厳しい――!
と思った瞬間、隣で銃声が響くと、ズタズタ防弾チョッキのPBがその場に崩れ落ちる。
「申し訳ありません、久右衛門さま。ここを通すわけにはまいりません!」
「伊織さん!」
拳銃を構えた探偵助手は、次々とゴム弾を発砲しPB五人を寄せ付けない。
「八雲さまには、指一本触れさせません!」
「亜由美さんも!?」
八雲さんと一緒に逃げてた亜由美さんも戻ってきて、スカートのポケットからナイフを取り出し構えた。
他のコレクタのみんなは、万能薬精製の副作用のせいか椅子に座ったままぐったりしている。
それでもミセリさんだけは、疲れた身体に鞭打って、みんなの椅子を周りロープを解いてくれていた。
「やれ」
短い指令を受けたPB四人が、一斉に襲ってくる!
伊織さんが銃を撃ち、亜由美さんがナイフで応戦し、私が武装をスって投げ飛ばす。
泥沼の混戦となったところで、背後から明朗な声が響く。
「おやめください、お祖父さま!」
振り返ったそこには、長髪を髷で結ったイケメン――八雲さんが、無菌ヘルメットを小脇に抱え堂々と立っていた。
「八雲……お前、まさか」
「万能薬を飲みました。お祖父さまの欲しいものは、もうここにはありません」
「なんてことを……」
青い顔した久右衛門さんは、背後を振り返り野村先生に叫ぶ。
「依子は……春子の容態はどうなのだ!?」
野村先生は心臓マッサージの手を止め顔を上げると、首を小さく横に振る。
「そんな……確かにさっき、生き返ったはずなのに」
久右衛門さんは両膝から崩れ落ちると、悲痛な面持ちで項垂れた。
その姿を見たPBたちは戦闘を止め、主人の周りに集まる。
これで決着……そう思った瞬間、地獄の底から響くような低音ボイスが聞こえてくる。
「まだだ。もう一度……いや、何度だって繰り返せばいい! まだみひろがいる。素体さえあれば春子は何度でも蘇る!」
「お祖父さま。死者に鞭打つ行為は、おやめ下さい」
目の覚めるような、ハイトーン。
大きな紫目を赤く腫らしたみひろは、哀れむような視線を祖父に向ける。
「万能薬に固執するお祖父さまの真の目的は、あり得た二人の未来を取り戻す事――でも春子お婆さまは、それをはっきりと拒絶されたのです!」
「……」
久右衛門さんは絶句し、それ以上何も喋れなくなってしまう。
自らが任命した氏立探偵に、自らの想いを推理されてしまったために。
「お祖父さまはかつての恋人・春子お婆さまと、人生をやり直したかった。万能薬を使って、悠久の時を超え」
哀れな祖父を、みひろは憐憫の目をもって見下ろしている。
「それって、どういう事なの?」
みひろは人差し指を立てる仕草を見せるも、黙ってその指を引っ込めた。
片膝を付く久右衛門さんに歩み寄ると、慈愛の瞳で見つめながら話し始めた。
万能薬を巡る祖父の思惑……久右衛門さんの想いの全てを。
* * *