ある冬の昼前。ウィンデル集落の各所で、短く生え揃う草の先端がいまだ薄い氷に白んでいた時のこと。日差しでようやく温かくなり始めた中、ラヴェンナの魔女小屋から普段と違う質量の煙が膨らんでは空へ上っていた。
煙突の下には薪が敷かれて真っ赤に燃やされており、今回はそこへ大釜が載っていた。中では緑色のドロドロとした液体が泡を立てており、長い木へらが差し込まれている。それは黒いローブに身を包んだ魔女によって、両手でゆっくりと腰から力を込めるようにかきまぜられていた。
「よいしょ……よいしょっ……」
ラヴェンナは以前にも似たような物を何度も大釜で作ったことがあった。それは修道院に届けられる傷薬、あるいはポーションのようなものだ。季節によって素材となるハーブなどは異なるものの、大体の完成品はお馴染みの緑色で小瓶に詰められて納品される。
しかし今回は様子が違った。色や匂い、効能こそ大きく逸脱はしないものの、薬をかき混ぜる木へらの動きが明らかに鈍いのだ。足腰に込められた力も秋までと比べれば並大抵のものではなく、製薬自体が冬の大作業となっていた。
「ふう……あとは、これを……」
へらを持ち上げればドロリとした深緑の塊が滴り落ちる。
何故この季節に作る薬がこうでなければならないのかは、今まさに、カーテンの向かいで窓にひっついた結露が示した通りであった。この時期は日によっては氷が張るくらいまで冷え込むため、万が一にポーションそのものが凍らないよう別の材料を入れて作る必要があったのだ。
作られた薬はすべてガラスの瓶に詰められる。しかし凍った水は僅かながらに膨張し、これを内側から破壊してしまうことがある。魔女であるラヴェンナは、長年の経験と知識から道理をよく理解して季節に合わせた素材を選ぶ。
暖炉の傍にはカラの薬瓶の詰まった木箱が既に用意されていた。いずれも細長い形状のものではなく、ジャムを入れるかのようにどっしりとした広さのものが選ばれていた。ラヴェンナは大釜を火から外すと蓋をして野外へ置き、その中身が冷めるまでを厨房にて過ごす。昼ご飯だ。
切り込みを入れたパンへ、薄く切ったベーコンと半月にスライスしたタマネギを油で炒めた具材を挟み、塩胡椒とチーズをふりかける。それを椅子に腰掛けて食べている間にも時間は過ぎて……そのまま、午前が終わった。
(んん、なかなかよくできたわね)
(葉物野菜が恋しくなるけど、こればっかりは仕方ないわ……)
(……さて、そろそろ良い頃合いかしら。さっさと詰めて街に行かないと)
食後、ラヴェンナは外に置いた大釜の蓋を開け、ふたたび腰を使いながらへらでしっかりとかき混ぜた。熱の引いたそれは、先程よりも力を込めて回さなければうんともすんとも言わなかった。やがて彼女は全体がちょうどよい温度に落ち着いたのを確認すると、再度釜を家へ引っ込め、ゼリーに負けず劣らずの緑色の薬液をレードルで掬う。
手の平で掴むに丁度良い瓶を取り、粘性の高い薬がこぼれないよう丁寧に詰め込んでから蓋をする。太陽がまた少し傾いた。そしてついに箱がポーション瓶でいっぱいになった頃、黒魔女は若干慌てながらも額の汗を拭う。
「なんとかできたわね……日が落ちる前に届けましょう。そうだ、ロクサーヌ」
箱をきちんと閉じて外へと出し、箒片手に隣の魔女小屋まで顔を見せに行く。今日の白魔女は、揺れ椅子に腰掛けたまま古い農業書を読んでいた。ラヴェンナが名前を呼ぶと彼女は視線だけで反応する。
「ロクサーヌ。街に行ってくるんだけど、用事はある?」
「そうですね……ああ、そこの本を返してきていただければ」
「これ?」
「はい。ちょうど昨日読み終えたものですので」
表紙には「いろいろな缶詰辞典」と記されていた。好奇心がそそられるようなタイトルだったが、今のラヴェンナはとにかく時間が惜しかった。荷物をまとめ箒に跨り、届けなければならないものと共に午後の寒空へ飛び上がった。
◆ ◆ ◆
つんと刺すような寒気の中を黒魔女は箒で突き抜けていた。今回の移動にあたって魔女は、秋とはところどころが違った装いでこの寒さへ対策していた。
(空の上は寒いわね)
(長居は無用よ。でも、急ぎすぎて凍え死なないようにもしなきゃ)
(速く飛ぼうとすると、その分だけ顔に風が当たるものよ……)
箒を握る手は厚手の手袋によって保護され、道中の寒さで指先が使い物にならなくなる事態を未然に防いでいた。首元から鼻までも筒状の布地で覆われ、これもまた風よけの役割を果たしている。冬用のローブ、そして黒と白のチェック柄に編み込まれたマフラーで守られた魔女は、想像よりも快適に外を移動できた。
それでもこの冷たさから逃れようと、ラヴェンナは目を細めて寒気と戦いながらストーンヘイヴンの街へ一直線に飛んだ。やがて修道院の建物を見つけると、追尾魔法をかけていた納品用の木箱と共にゆっくり着地を決め、幾分かは暖かい地上の世界へ戻ってきたのだった。
門前のベルを鳴らせば、茶髪の修道女、アイリスが扉から出てくる。振る舞いは最初こそ普段と変わらないように窺えたが、すぐさま、身体の前でさっと両手を合わせてはかさついた肌を擦り合わせていた。
「遅くなってごめんなさい。頼まれた物を持ってきたわよ」
「魔女様、ありがとうございます。では中身を確認しますね」
「中で待ってても良い?」
「もちろんです。どうぞ、魔女様もお入り下さい」
アイリスがポーション瓶の個数を数える間、ラヴェンナは久しぶりの修道院で少しばかり休憩することにした。暖炉の効いた広場に立ち入れば、そこでは年少の子供たちが声を上げながら元気に駆け回っている。
その中の一人が黒魔女の姿に気付くと、彼らはすぐにラヴェンナを取り囲んで距離を詰めてきた。まだ幼い子は身体をぴったりと寄せるとハグを求め、それに倣って他の子供もペタペタと触ってくる。
「魔女様!」
「ほんものだー!」
「おばさん!」
「ママ!」
「あのねぇ……」
しかしまあ、慣れたものである。悪い気もしない。
ラヴェンナはベテラン保母の如く子供らを相手する。時には担いで持ち上げ、時には魔法で少しだけ浮かせ、時には背負って屋内を回った。そんな風に過ごしているとアイリスが戻ってくる。
「ラヴェンナ様、確認が終わりました! 問題ありません!」
「分かったわ。じゃあそろそろ……ほら、もういい加減降りなさい」
「えーっ」
「もう帰っちゃうの?」
「いまきたばっか!」
「あーこら、よしよし……」
子供たちをなだめていると玄関の扉が開き、リュックサックを背負ったアレンが姿を現した。どうやら先程まで外で「仕事体験」をしていたようだった。彼はラヴェンナの姿に気付くと口をあんぐりと開けて立ち止まる。
「え……ラヴェンナ、さん?」
「あらアレン。仕事帰り?」
「えっと、そんなところです――」
「お仕事おつかれさま。そうだ、せっかくだし……」
ラヴェンナはアレンにリュックを下ろさせると、先程子供たちにしてあげたように彼を優しく抱きしめた。たちまち、純情な少年の顔は真っ赤に染まる!
「あわわわわ……」
「……はい、これで全員ね? じゃあ私はもう出るから。アレンはまた今度ね」
用事を終えた黒魔女は鼻歌交じりで去っていく。
残された少年は、暖かな室内にもかかわらず奥歯をがたがた震わせていた。
それからはロクサーヌから頼まれた用事を消化するため、街の図書館まで足を運んだ。以前来た時は誰も居なかったが、今日は何人もの市民たちが読書を楽しんでいる様子だった。いっぽう、中には段差へ腰掛けて寛ぐ者もいる。
というのも、この場所はずっと暖かく過ごしやすいのだ。
熱源を探すのはわけない。部屋の中心に鎮座する本棚ゴーレムの「ビブロス」が、身体にあるいくつもの隙間から排熱を行っていた。
「む、幻想の大魔女。今日は何用ぞ」
「今日は私じゃなくて、他の人の代理で来たわ。ロクサーヌからの返本よ」
そう言って、ラヴェンナは持ってきた本を台座の上へ乗せる。
すると忠実な司書は全身の本棚をポコポコと蠢かせ、器用にその本を収納してから納得したような唸り声を上げる。どうやら、承認されたようだった。
「たしかに、受け取った」
「……ずいぶんと人が多いのね。もしかして、冬はいつもそうなの?」
「うむ。もちろん、寝転ぶために来る者もいるが、悪くはない。ふとした気まぐれで手に取った本が、その者の生涯を変え、凄まじい貢献を為すこともある」
「ふーん。まあ私も、誰もいないよりは少し賑やかな方が好きね」
それからは別れの挨拶を軽く交わし、ラヴェンナは図書館を出た。
用事は終わった。あとは帰っても良かったが……その前に一つ、街にまで来たなら寄っておきたい場所があった。
「さて、あれはどうなってるかしらね……」
白い息を吐きながら向かうこと少し。
向かった先は――アルラウネの姉妹が経営する種苗店だった。確か、秋の中頃から「温室」が新しく増設されたのだった。ラヴェンナはその調子を見るために二重扉を通り抜けて店内へ入る。
中は非常に心地よかった。暖炉では薪が多く燃え、煉瓦の中で炎が立ち上っている。受付にいた赤い花弁の「姉」は黒魔女に気付くとすぐに声を上げた。
「魔女様! いらっしゃい!」
「こんにちは、グロリア。あれからどう?」
「それがね、すっごいの! あっちにリリィもいるから行ってあげて」
「?」
鉢ごと車椅子に乗って、グロリアはラヴェンナを温室へすぐに案内した。
「……わぁっ」
以前はガラス張りの部屋と暖炉が見えるだけだったが、いくつもの植物で満たされたこの空間は、さながら貴族が絵画のコレクションを一つの場所へと収めたように贅沢な印象を与えていた。暖かい春、あるいは夏を思わせる気候の下には暑さを好む植物たちが集められ、観葉植物からハーブ、色とりどりの花々が景色に多様性と彩りを添えている。
それだけでも素晴らしい場所だったが……
温室の一角でリリィが手を振っていた。そこへ向かってみると、今が冬だとは思えないものを見つけることになる。直方体状のプランターに植えられていた、トマトとキュウリがそれぞれ実をつけていたのだ――さすがに発色は夏には劣るが、それでも信じられない光景だ!
「これ……本っ当に凄いわね。想像以上よ」
「ラヴェンナもそう思う? 私もまさかここまでうまくいくとは思わなかった。薪を燃やす数は増えるけれど、それでコレが手に入るならあまりに安いわ……」
白い花弁の妹、リリィは、蔓の先に実った赤い果実を指で撫でながら恍惚とした顔でそう呟いた。ラヴェンナが周りを見れば、他にもジャガイモ、レタス、ピーマンなどが植えられてすくすく育ち、しまいにはオレンジ、レモン、バナナといった果実樹までもが確認できた……
たいへんなことになった。ラヴェンナはすぐにこれをロクサーヌに知らせようとした。リリィはそれを察知したのか、帰る前に引き留めて手土産を渡す。
「せっかくだから、これも持っていってあげて」
リリィは身体からツタを伸ばし、トマトの実を四個、レタスの葉を十枚ちぎって紙袋にまとめてからラヴェンナへ手渡した。
「いいの? まだ数も少ないでしょうに」
「あなたとロクサーヌは特別よ。姉さんを育ててくれたお礼も、まだ返せたとは思ってないもの……」
「……そう。じゃあ、ありがたく貰っておくわ。ロクサーヌにも伝えるわね」
「帰りは気をつけてね。店の外はちゃんと冬だから!」
リリィ、グロリアと別れたラヴェンナは満面の笑みで店を出る。
すると風が吹いた。冷たい一撃を顔面に食らった魔女は縮み上がった。
◆ ◆ ◆
帰宅後……日が暮れ始めた頃、ラヴェンナはロクサーヌの家の戸を叩いた。
「お帰りなさい、ラヴェンナ様」
「グロリアとリリィにも会ってきたわ。それで、コレなんだけど」
ラヴェンナは、頂き物が詰まった紙袋をロクサーヌに披露する。
彼女は中を覗いて――やがて全てを理解すると、目を見開いて顎を外す。
「はっ……!?」
「凄いことになってたわ……」
「そんな、こんなことができるんだったら、もう! なんでも! なんでも育てられるってことですよ! 世界中の植物が、いつ、どんな場所でも!」
ロクサーヌは大興奮だ。彼女はいつになく声を大きくし、それがどれ程の偉業であるか、しばらくの間ずっと語り続けたのだった……