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第十四話:人間らしく

 堂主が帰ったのち、僕が目を覚ましたという報告を受けて主治医と話すことになった。治療内容と現状の回復度、そこから逆算した残りの入院日数に至るまで。話を聞く限りどうやら回復傾向にはあるらしく、あと数日あれば退院はできるであろうということだった。


「……とは言ってもね」


 ──けれど僕が気がかりなのはそんな話ではなくて、こまねのことだ。彼女は見舞いに来てくれるだろうか。来てくれたところで、また泣いてしまうのではないだろうか。話にもならず、話が進まず、この関係が平行線で停滞してしまうのではないか。そんなことを考えていたら、珍しく一睡もできなかった。上体だけを起こしたまま漠然と外を眺めていた。


 とはいえ、そんな杞憂もしょせんは杞憂に終わったらしい。受付の看護婦が僕の部屋にやってきて「お見舞いですよ」と告げてきたのは、ちょうど朝食後の暇な時間だった。


「先生、おはようございます。こまねです」


「おはよう。……来てくれたんですね。ありがとうございます」


「いえ。復帰されましたし、お話できるほうが嬉しいですから」


 思いの外、自然な笑顔で──いや、平静を取り繕っているのだろうか、少なからずぎこちなさを感じながらも、こまねはいつもの姿でベッドの傍らにある椅子へと腰掛ける。近くで見ると、柔らかい日射しに照らされて、目元が薄っすらと赤くなっているような気がした。


「その……昨日は失礼しました。取り乱してしまって……」


「こまねが何をしても大抵のことじゃ怒らないよ。僕はね」


「……そうおっしゃっていただけるのなら、ありがたいです」


 言葉だけはそう告げながら、表情はまったく変わらずに硬いままだった。膝の上に置いた手を強く握りしめて、わざとらしく小さな溜息を吐いている。やはり彼女のなかではまだ払拭できていないのだろう。今日ここに来たのは、その清算をするため──かもしれない。


 そんなこまねの気分を晴らしてやろう、と、僕は思いつきの話題を投げかけてみる。彼女に負担をかけない話がしたかったから、気の逸れるような空気に変えられればいいが。


「ところで、こまねに訊きたいのだけれど……僕って人間嫌いに見えるかい?」


「えっ……? にっ、人間嫌い、ですか……? 先生が?」


「えぇ、堂主にも言われたので。僕と数日ほど一緒にいて、こまねはどう感じました?」


 我ながら少し意地悪な質問だなと思った。豆鉄砲を食ったような顔をしている彼女に視線を向けながら、それでもどこか、いつもと近い困り顔をしているのが見れて嬉しくなる。


 こまねは視線を右往左往させつつ言葉を選んでいるのか、珍しく顔をしかめて悩んでいるようだった。それから意を決して僕へ視線を合わせると、よく通る声で告げてくる。


「とはいえ、先生……こまねには優しい、ですよね? あと、子供にも」


「まぁ。子供もこまねも純粋だからね」


「でも、加賀美や宗教勧誘の人間さんと話す時、物凄く不快そうでしたよ」


「そりゃあ不快にもなるでしょう、あんな人間は。君だって同じだろう?」


「……こまねは先生みたいに『人間らしく澄まし顔』なんて言いませんけどね?」


 少しだけ得意げな目つきで彼女はそう言い放つ。非常に聞き覚えのある言葉だった。

 思わず苦笑してしまうのをごまかしもせず、そうだね、と軽く返事をする。


「あの場所にいなかったのによく聞こえてたね。猫又だけあって耳はいいのかしらん」


「聞くつもりはなかったのですが、聞いてしまいました。黙っていたのは申し訳ないです」


「……いや、構わないよ。こまねが謝る必要はまったくないからね」


 ──『皆様どうも、人間らしく(・・・)澄まし顔。学問も文化も半ば虚栄だ』。

 こまねと町の酒屋に行った際、店先で休んでいた時に僕がふと呟いた言葉だ。あの時は体調不良で疲れていたから、とはいえ、この思想が昔からなかったわけではない。きちんと向き合ってみれば、僕は相応に人間嫌いだ。普段はさほど表に出していないだけであって。


「先生がそうなったのは……昔から、なのですか?」


「昔から、というか……学生時代には既にそうだったよ。遡れば五年前だね」


「また昔話、ですか? いいですよ。こまねが聞いてあげますから」


 ゆっくりと身を乗り出して僕の手を握りながら、彼女は優しい声音で笑った。白い髪が視界の端で揺れて、その穏やかさが今はありがたい。直に伝わる人肌の温かさも悪くなかった。


 こんなこと、こまねに話してもいいのだろうか。純粋な少女に、僕の思想なぞを伝えていいのだろうか。決して人に話しても理解されないことは自分がいちばん分かっている。だからこそ、こまねに言うのは躊躇われた。同時に、話だけなら聞いてくれそうな気もした。


「……いいんですか、話しても。不快に思うかもしれませんよ」


「構いません。先生のことなら、なんでもいいんです。抱え込んでほしくないんです」


 珠のように澄んだ瞳が僕を見据える。握る手の温かさが増していく。この優しさが、無意識的に彼女の求めている居場所(・・・)のためだとしても、それでも嬉しかった。こまねがどれだけ優しいかは、数日と一緒にいただけでもよく分かる。この優しさはきっと、偽りではない。


 小さく深呼吸をして、僕は透き通った少女の瞳から窓硝子の向こうに視線を移した。


「なんというか──現代の人間というのは、ほとんどが『自分たち人間は最高等の知性を持っている』と驕っているように見えるんです。学者や文化人は特にね。薄っすら透けているそれが気に食わなくて、一度、それを文壇に叩きつけたことがあった。大学時代の話です」


「大学、って……初耳ですよっ。先生、どこの大学なんて行ってたんですか?」


「帝国大学の文学科です。もう辞めましたが」


「えっ……えっ……? もったいないじゃないですか、そんなの。なぜ……?」


「一部の教授や学者や生徒が好かなかった。要は一緒にされたくなかったんです」


 理由はいま話した通りですね、と付け加える。強いて言うならば家業が倒れたことが決定打だったものの、それは結局、中退が早まるか遅くなるかの違いでしかないのだろう。


 こまねはしばらく押し黙ると、小さく目蓋を閉じてから、その煙るように長い睫毛を覗かせた。「嫌いな人と一緒にされるのは嫌ですよね」と、同乗するように呟く。決して否定をしないその優しさは、下手をしたら彼女に依存してしまいそうな、そんな怖さがあった。


「じゃあ、先生は──先生の思う人間らしさって、なんですか?」


「……右に倣えではなく、在るが儘(まま)でいること。もちろん我儘とは違うけどね。言い換えれば、通俗や常識に対して盲目的に従うのではなく、確固たる芯を持って動くこと」


「……かなり大事なことのような気がします。大半の人間さんはそうじゃないんですね?」


「意外とこれが難しいような気もするよ。もともと右に倣えの民族性だからね」


 だから、と続ける。「せめて自分くらいは、どう言われようと好きなように動くよ」


 我儘だ傲慢だと批難されたこともあった。自宅に大量の文句を書き綴った手紙が届いたこともあった。当時から分かりきっていることだが、僕は文壇の多くから現に顰蹙(ひんしゅく)を買っている。往来で同業にすれ違えば気晴らしに殴られるくらいはおかしくないだろう。


「こまねはあやかし育ちなので、人間さんを完全に分かっているわけではありません。でも──流されて生きるよりも、自分をしっかり持っている先生のほうが、かっこいいですよ」


 繋いだ手を繋ぎ直しながら、彼女はやや上目に僕を見ていた。決して揺らがない、清々しいほどに透き通った瞳。贔屓かもしれない。けれどもきっと、こまねは贔屓など言わないという確信があった。告げる言葉のすべてが誰よりも純粋で、子供のように優しいから。


「……ありがとうございます。面と向かってそう言ってもらったのは初めてです」


 手のひらが温かい。胸の内も、ほのかに淡みを帯びている気がした。優しい笑みを浮かべたまま小さく瞬きするその姿が可愛らしくて、また恩ができてしまったな、と、人知れず苦笑する。彼女にはここに来てから助けられてばかりだ。僕はまだ、何もできていないのに。


 そう胸の中で呟いた刹那、こまねの浮かべている笑みが、ふっと暗いものになった。


「こまねは先生みたいに強い芯はありません。万が一にでも丑三堂を出るとしたら、すぐに路頭に迷ってしまうだろうくらいには、何も持ってないんです。すべて堂主のおかげです」


「そんなことはないよ。こまねは優秀だ。堂主はそう言っていたし、僕もそう思っている」


「……でも、わたしは先生のこと、守りきれませんでした。約束したのに、です」


 ──また。まただ。またこの言葉だ。震えた声と、揺らぐ瞳と、痛々しい表情。握ってくれた手に力が籠もっていくのを感じる。けれどもきっと、彼女はそれに気付いていないのだろう。また何かを続けようと唇が動くよりも早く、僕はこまねの手を引いて抱き寄せた。


「お願いですから……もう謝らないでください。こまねは何も悪くないんですよ」


 少女の身体は想像以上に軽かった。抱き寄せたはずなのに、一瞬でも拍子抜けしてしまうくらいには重さを感じなかった。けれど腕で包みこんだ中には、確かな温かさがある。


 呆気にとられている彼女へと言い聞かせるように強く抱きしめた。そうでもしなければ、その面持ちが痛々しくて、僕のほうが辛くなってしまうから。非のない少女が自分自身を糾弾している姿など、誰も見たくないのだ。こまねに望んでいるのはそんなことじゃない。


「僕があの場所でまともに動けたのは、君のおかげなんだよ。それだけで充分なんです。負傷したのは僕が未熟だったからで、こまねの能力が低いわけじゃない。……分かってほしい」


 無言のまま、彼女は頷きもしなかった。抱きしめ返した腕も弱々しくて、けれど確かに力が籠もっている。きっと悔しいのだろう。僕の言葉を信じきれていないのだろう。自分がこまねの立場であっても、恐らくそうだったかもしれない。引け目は簡単には消えないのだ。


「実は、堂主から聞いた。君の生い立ちのことをね。だから、君がどんなふうに思っていて、どうありたいと願っているかも、少しだけど分かったよ。君は無意識かもしれないけれど」


「っ、その……黙っている、つもりは……」


「別に構わないよ。僕だって、こまねに訊かれなければ昔話をするつもりはなかった。でも、こまねが聞いてくれたから、少しだけ楽になれた。だから、今度は僕がそうしたいんだ」


 小柄な少女の肩に手を添えて、胸元へ顔を埋めているのをゆっくりと起こす。我慢して声を出さずにいただけなのだろう、目元は赤く泣き腫らしていた。気付けば襟の部分が涙で湿っている。目を細めながら手の甲で眦を拭う彼女は、さながら年頃の子供のように見えた。


「君にしてもらったことを返したい──というのは我儘かな。相方として、僕はこまねと一緒にいる限り力になりたいと思っている。君だけに負担はかけられないでしょう」


「……わたしのことなんて、いいんです。先生にはっ、迷惑、かけたくないので……」


「迷惑じゃない。僕がこまねに与えてもらっているものが多すぎるんだ。だから少しでも返したい。隣にいてくれるだけで助かっているんだよ。これだけは本当に分かってほしい」


 彼女の瞳を見据えながら、一語一句まで噛み締めて告げる。これは僕の本音だ。こまねにだからこそ伝えたい、そうして受け入れてほしい事実だ。過去の境遇がトラウマになっているのなら、結局できるのは、そこに自信と存在意義を満たしてあげることなのだろう。


 ──けれど、そんな僕の想いとは裏腹に、彼女は気まずそうな顔をして目を背けてしまった。裏切られたわけではない、否定されたわけではないと分かりきっていても、まるで意中の相手に拒絶されたかのような胸の痛みが、一瞬にして心臓の奥深くまで走っていく。


「……先生のお気持ちはありがたい、です。でも……」


「まだ、整理がつかないかな」


「……申し訳ないです。その時が来たらお話します」


 かすれた声で喉を震わせながら、せめてもと頭を下げるこまねに対して、僕はただ頷くことしかできなかった。けれど、今はそれでも構わないのかもしれない。しょせん、まだ数日の付き合いなのだ。時間はいくらでもある。堂主が言ったように、彼女が抱えている心の傷もいつかは癒えるはず、なのならば──ひとまず現状は隣に立ち続けるだけ、だろう。


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