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第十五話:柳葉嘉中

 あの日からどこか、こまねは僕に対してよそよそしくなったような気がした。記憶は何度も消えているはずなのに、日を経ても態度が変わることはなかった。きっと例の手帳に記した出来事を読み返しているからだろう。あまり気に病んでほしくないとはいえ、彼女の性格を考えると難しそうだ。しかし僕が手を上げた以上、いずれは僕が解決すべき問題ではある。


「……これだけ気の沈む静養も初めてだね」


 無事に退院を果たして数日。最近はこまねと行ったあの純喫茶で時間を潰すことが増えた。変わったことといえば、二人でではなく、一人で──という点だろうか。僕の身体とこまねの精神を危惧した堂主の業務命令なのだが、今はその本人が依頼を一任している。とはいえ余計な心配をさせぬよう、彼女には『放浪』とだけ告げてここを発ったらしいが。


「──さて、次はどこに行こうかしらん」


 最後の珈琲を飲み干して席を立とうとした瞬間、傍を通りかかった女給が控えめに声をかけてくる。……流石に毎日長く席を占領していると、店員からも良い顔はされなさそうだ。こまねがいる店に戻るのも、正直なところ気まずい雰囲気があって嫌なのだが……。


「あの、お客様……最近は一人でいらしてますよね。こまねさんはご一緒でないのですか?」


「こまね、は……そうですね、店にいます。僕が気晴らしに出ているだけですので」


 女給は納得したように頷くが、どこか不安げな面持ちでそのまま会計まで済ませてくれた。しかし書店だけでなく純喫茶の店員にまで名前を知られているあたり、本当に彼女はここ書店街のなかでも顔が広いのだろう。あの人懐っこくて甲斐甲斐しい性格なら尚更だ。


「またいらしてくださいませ」


 女給の挨拶に小さく頷きながら、次はどこをどう回って暇を潰そうかと考える。書店街の往来を抜けてポツポツと自動車の走る大通りに出たあとは、軒の庇がやけに降りている八百屋の前などを適当に通り過ぎたりなどした。鮮やかな野菜と果物の色が眩しく見えた。


 適当な路地に入るとまた雰囲気が一変して、さらに裏小路まで行くと、これはまた閑散としすぎてよくない。空っぽの心に詰め込むものは考えねばならないね、と思った。引き返した先のビルディング、その下で煙草を吸っているベレー帽姿の青年を横目に往来へと戻る。


「──熱っ……!」


 これは手の甲に煙草の先端を押し付けられたかと悟った瞬間、咄嗟に身を引いて男の顔を見る。今まで気にしていなかったぶん、余計に面倒なことになったな、と溜息を吐いた。


「久方ぶりだなぁ、おい。没落華族の綺月様ならどこかで死んでるかと思ったが」


「……裏小路まで付きまといかな。もう少し愛想のいい再会にしようよ、おバカさん」


 おかげさまで誰だか分からなかったね、と軽く笑いながら居住まいを正す。それが気に食わなかったのか、彼は苛立ったように下駄を鳴らしながら丸い目でこちらを睨みつけてきた。本人は凄んでいるつもりだろうが、全体的に顔かたちが子供らしくて怖くはないのだ。


「しかし、おバカさんと呼ぶのも久しいね……。なんだか懐かしい気分だ」


 ──柳葉(やなぎば)嘉中(かちゅう)。ほぼ腐れ縁のような一つ上の作家仲間で、付けた渾名はバカ。僕のことを例の一件で蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っているのに、僕の作品だけは読んでくれるただのファンだ。最近はめっきり顔を合わせていなかったが、どうでもいい友人という立ち位置は変わらない。


 彼は目元に覗く茶髪でわざとらしく瞳を隠しながら、背伸びしいしいこちらを睨む。


「なぁにがおバカさんだテメェ。大学中退したくせに偉そうな口ぶりしやがって」


「現役の帝大生さんは凄いね。ご覧の通り今の僕は……そうだね、半・高等遊民かな。おかげさまで衣食住は足りているから、今の仕事を抜きにすればいずれは文学に傾倒できる」


「……お前、実家の両親だけ故郷に帰らせて、自分は一人で遊ぶつもりか?」


「まさか。給料日が来たらすぐに向こうに送るつもりだよ。現状は無一文でね──というか、遊んでいるとは人聞きの悪い。これでも化生に殺されかけた身なんだ。優しくしておくれ」


 何をやっているんだと引き気味な顔をされたが、敢えて無視したまま話を進める。久方ぶりに見かけたとはいえ、わざわざ僕をつけてくるということは理由あってのことだろう。


「で、バカ。本題はなに? 僕へのストーキングと生存確認じゃないよね」


「……最近、お前があやかしの少女と一緒にいるという噂を聞いたんだが、本当か?」


「なんだ、そんなことか。本当だよ。仕事仲間だけどね」


「種族は? 綺月がわざわざ人付き合いをするなんざ子供くらいのもんだろ。年齢は?」


「……どうして君がそんなことを気にするわけ? そんなに物好きだっけ、嘉中」


 図星を突かれたのか、露骨に苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらを見つめてくる。そうして照れ隠しみたく帽子の位置を直しながら、弁明らしく早口でまくしたててきた。


「人付き合いもロクにしたがらねぇやつがあやかしと一緒にいるのが変だってんだよ! というかここ数年のテメェはずっと引きこもって原稿書いてたろうが! えぇ!?」


「実家が倒れたから作家業も控えて外に出ざるを得なくなったけどね。因みにあやかしの彼女はほぼ同期のいい子だよ。仕事もできて、僕の悩みにもしっかり乗ってくれるほどには」


「はぁー……あの綺月に目下(もっか)女性の影あり、か……。おもしれぇが気に食わねぇな……」


「……推理作家の悪いところが出てるよ、バカ。探偵気取りは構わないけれど、どっちにしろ、それが本音でしょ、君。もしや彼女の顔でも拝もうと思った? 単なる相方だけどね」


「ちげぇ! 勘違いすんなよ気取り屋が……! 別に気になっても羨ましくもねぇ!」


 腰の抜けた拳をかわしながら、「若いねぇ」と笑ってからかう。こういうところも子供だ。嘉中の色恋沙汰には興味こそないが、本人がやりたいのならやればいいのにとは思う。


 ひとしきり息を切らした彼は忌々しそうに溜息を吐くと、いきなり懐から十銭を取り出して僕へ投げつけてきた。目を丸くしながら受け取ると、嘉中は去り際に吐き捨てていく。


「テメェの私生活はどうでもいいが新作くらいは書けよ。それでチャラにしてやる」


「なんだい、それ。珈琲代が浮いたのは助かるけど……おーい、無視されても困るよ」


 追いかけるのも面倒で、どうせ追ったところで大した話もしないのだから、僕はそのまま嘉中の背中を見送った。彼が路地を折れたところで手のひらに仕舞った十銭を眺める。どうせなら軽く何か買って帰ろうか──そんなことを思っていると、軽い足音が聞こえてきた。


 誰なのかを認めた瞬間、少し気まずくなって冗談交じりの問いかけをしてしまう。


「……こまねまで来てたんだ。君も付きまといかい?」


「いえ、その……お買い物の途中で見かけたので。後を追ったら、あの方と話されていて」


「そう、お疲れ様。今から帰ろうと思っていたところだよ。行こう」


 一歩を踏み出して裏路地を後にする。僕のやや後ろを控えるように歩く彼女は、傍目に見ても少し距離がある気がした。だんだんと大きくなってきた往来の喧騒を聞きながら、この無言をごまかす方法を頭の中で探している。すると、いきなりこまねが隣に並んできた。


「先生とあの方、お友達なんですよね?」


「そうだね。作家仲間だよ。嘉中は推理作家だ」


「話し方的に、お付き合いは長いんですか?」


「まぁね。高等学校の頃から五年近く」


「そうですか……親しい話し方でしたもんね」


 ……なぜだろうか。少し落胆されているような気がする。


 上目でこちらを一瞥してくる彼女にやや気圧されつつ、僕は依然として平静を装いながら書店街の通りに戻った。こまねがこうして態度を変えるというのも、ここ数日で見れば傾向のない話だ。そもそも僕の交友関係など、彼女には関係がなさそうだが……。


「もしかして、嘉中のことが羨ましいのかい」


「へっ……? えっ、いやっ、そこまでは……言ってないです、よ?」


「あれ、そうだったの。すみません、早合点してしまって」


 僕の考えすぎだったか、と胸中で結論付けてから、やがて見えてきた丑三堂の店内に入る。相変わらず昼間というのに店を開いていないのはどうかと思うが、そのぶん夜は夜で一般の客も来るらしいのだから変なものだ。ひとまず畳の小上がりに腰を預けて一息つく。


「先生、こまねは自室でちょっと作業してますね」


「分かった。僕は適当に本でも読んでるよ」


「はい。お昼時くらいになったら降りてきます」


 案の定、彼女はそれだけ言って部屋を後にする。耳を澄ますと階段を登る音も聞こえた。部屋に自分だけ残されるのが嫌なわけではないが、こまねの性格を考えると物寂しい気持ちになる。彼女としては恐らくまだ気まずいのだろう。こればかりはどうしようもない。


「……友達、ねぇ」


 正直、彼女が落胆した理由が分からないわけではない。これも憶測の域を出ないが──なんとなく察しはついていた。けれど、それを自分自身で仮説立てるのが気恥ずかしいだけで。


 こまねの交友関係がどこまで広いかは分からない。が、現時点で彼女といちばん親しいのは恐らく堂主を抜いて僕だ。同時に、僕の数少ない交友関係の中でいちばん親しいのも彼女だ。自分よりも親しく話す相手がいる、というのは、こまねにとって重荷になるのだろう。


「関係性ひとつにしても、そこに自分の居場所を見つけてしまう……のかな」


 自分が相手にとっていちばんの存在でいてほしい。彼女にとってそれは、頼られるとか信頼されるとか、そういう認識で処理されているのだろう。ただ、心のどこかでもう一段階上の関係性を欲している。それが友人関係だったり身内だったりするのかもしれない。


「……仕事仲間、というだけでは彼女のなかで限界があるのだろうね、きっと」


 ともすれば、嘉中に対してこまねがあのような反応を見せたのも自然なことだ。しばらく彼とも会わないだろうが、会わないのと存在を忘れるのとではまた別の話になる。これに対して今の僕ができるのは──もう少しあの子のことを知るくらいしか、思いつかなかった。


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