人を知る、というのは、つくづく自分にとって縁遠いものだと感じた。もともと人間嫌いな性格であるし、それを態度で表している以上は近寄ってくる相手など限られている。その中から自分で相手をふるいに掛けるのだから、交友関係など両手の指で収まっていた。
「……ツケが回ってきた、と言うのかな、これは」
正直なことを言うと、こまねは僕にとって数少ない例外だった。あやかし育ちという境遇もあるのだろうが、なにより過去に対して共感できる部分が少なからずあった。似た者同士だから嫌いになれない、というのが本音だ。その上、なにより今は色々と恩がある。
「人付き合いの指南書でもあれば良いのだけれど」
──畳の小上がりに本を閉じながら、店の前に椅子を出して文字通りの看板娘をやっている彼女に視線を向ける。午前零時に差し掛かった丑三堂は、まさに深夜営業の真っ最中だった。何気にこうやって店番をするのは初めてだが、意外にもやってくる客はいる。
「坊っちゃん、これ一冊もらえるか」
「ん……これなら三銭ですかね。どうもおやすみなさい」
「あい、お疲れ。嬢ちゃんも早く休みな」
「お買い上げありがとうございましたっ。また来てくださいねぇ」
深夜ということもあり、どこか気の抜けたようなこまねの声を聞きながら、ふと往来に出て客足を確かめる。他の店はどこも閉めているとはいえ、流石に来店の波も過ぎたようだ。これまでに来た客はおよそ十数人。うち半分は棚を眺めるだけで終わってしまったが。
「……これだけ来れば、今日はもう充分かなっていう気がしますねぇ」
「十時から始まって、何時まで営業しているんだっけ。一時くらいまでですか?」
「はい、まぁ。いつも堂主やこまねの気分次第です。気紛れですよ」
小さく笑いながら、彼女は椅子の上で軽く伸びをする。店内から照る硝子灯の色が煌々と軒先に映っていて、地面に落ちた二人ぶんの影だけが揺らいでいた。尾が二本、化かすように揺れる。森閑とした書店街にはもう誰の姿も見えない。それがどこか異質に思えてきた。
「仕事だから仕方がないけれど、昼夜逆転の営業は少し堪えるね。眠くなってしまう」
「……いいですよ、先生はお休みなさっても。こまねも後で適当に切り上げます」
「そんなことはできないよ。ただでさえ僕のせいで何日も店を開けられなかったんだから」
例の件について、自分にも少なからず罪悪感はあった。それをなんとか挽回しなければいけない──と思いながら、小上がりに置いておいた本をもとの棚に戻す。ここの仕入れも堂主の趣味なのだろう、流行りの小説に著名人から個人が書いた随筆なんかも置いてあった。
「さて、と……よいしょっ」
そのまま呆然と本棚を眺めていると、おもむろにこまねは立ち上がって店内に椅子を仕舞い込む。やはりもう店を閉めるのだろうか、と思っているうちに、ふと話しかけられた。
「先生、その……明日、お時間ありますよね?」
「時間はあるけど。何か頼みごとかい」
「……その、こまねと一緒に出かけてほしいんです」
なるほど、と頷く僕とは対称的に、彼女はどこか硬い面持ちだった。さっきまでの柔らかな雰囲気に薄い霜が張ったような空気を感じながら、「いいですよ」と返事する。けれどこまねはそれに反応しないまま、小さな深呼吸と瞬きをしてから、切り出すように告げた。
「──先生に、お話したいことがあるんです」
◇
翌日の昼、鉄道に乗ってこまねに連れられたのは、東京のほとんど端のほうだった。田舎の農村と町のちょうど境目という印象で、少し歩いたところには森と小さな山が続いている。駅前の商店や二階建ての事務所などを横目に見ながら、山のほうに歩いていった。
「……あの、ここって何の場所かな。僕は知らない場所なのだけれど」
「そう、ですね……。もう少し行ったところでご説明します」
いつものように和洋折衷の女給式のメイド服に身を包んでいるこまねは、やはりどこを歩いても少し浮いていた。それが農村へと続く舗装の曖昧な道の上だというなら尚更だ。
しばし考え込むように俯いていた彼女はまた顔を上げると、少しだけ空模様の悪い曇天を見上げながら困ったように微笑む。誰に見せるでもなく、ただ自然とそうなったみたいに。僕もつられて空を見上げていると、いきなり手を引っ張られて歩みを引き止められた。
「おっと……。いきなりどうしたんですか」
「先生、ここです。お野菜の無人販売所」
「……販売所、だね。それがどうしたんだい」
そこは確かに無人販売所だった。簡素な屋根と棚があって、料金箱と新鮮そうな野菜が値札とともに売られている。このきゅうりなんか漬物にしたら美味しそうだが──どうやら同じことを考えていたのか、こまねは必死に頭を振ってから神妙な顔つきで僕を見た。
「あっ、あの……! 幻滅しないで、とは言えませんが……こまねのお話、聞いてくれますか? ずっと考えていたんです。でも、なかなかお話する勇気が出ないままで……」
──幻滅。その一言で、彼女が何を話そうとしているのか思い至った。きっと本人は僕がこの件をまだ知らないと思っているのだろう。そして、僕がどう思っているのかも、きっと。
「……しないよ、幻滅。僕は何も否定しないから、安心してほしい」
だから、限りなく優しい返事を努めながらそっと先を促す。これはこまね自身の勇気だ。こまね自身が過去に向き合おうとしている一瞬間だ。僕はそこに手を出してはならない。
その言葉を聞いて少し楽になったのか、彼女は小さく頷いてから話し始めた。
「……こまね、ここで盗みを働いたことがあるんです。まだ堂主に引き取られる前」
どんな表情をすればいいのか、一瞬だけ悩む。既に彼から教えてもらったことだ。僕が忘れられるものなど何一つないはずなのに──それほど彼女らしからぬ行動だったのだ。
「こまねの故郷は、この近くの山林です。でも、訳あって山を降りました。食い扶持がないので、餓死する選択肢もありましたが、生きるためには仕方なく盗むしかなかったんです。……でも、そこを堂主に見つかって、色々あって、結果的に引き取ってもらいました」
褒められたことではないですが、と、申し訳なさげに彼女は顔を伏せる。
「あやかし……というか、化生の世界も弱肉強食です。基本的には群れというものがあって、そのなかで暮らしていくのが常ですが……一度そこから外れてしまうと酷いものです」
「……自分が生きるためにやったことでしょう。周囲から見て正当か不当かじゃあないと思いますよ。自分がその時にどう思ったか。僕だったら迷わず、そうしていたかなと」
──少なくとも僕は、こまねのことを批難しません。
紛うことなき本音だった。彼女に伝えたいと思っていたことを、今、こうして伝えられた。その安堵が小さな含み笑いになって、やがて弾けた泡沫のように放たれていく。それにつられたのか、こまねもわずかにだけ口角を上げながら「ありがとうございます」と呟いた。
「自分のことにあまり気負わなくていいんだよ。果ては希死念慮で自殺未遂とか、僕みたいになるからね。未だに兄を亡くしたことに引け目はあるけれど、君はそこまでじゃない」
「でも、先生と比べるなんて──」
そこまで発したところで、こまねはふと耳を立てながら周囲を見回した。それを訝しんだのも一瞬、僕たちが歩いてきた駅の方向から騒ぐような声が聞こえてくる。困惑らしく彼女が首を傾げたその直後、遠くからでも聞き取れるくらいの声量で何かを叫ぶのが分かった。
「──彼奴(あいつ)だ! あの猫又が昨夜の犯人に決まっとる!」