「わぁ……良いにおい!シチューですか?」
「っ!あっ、おかえりなさい萌さん。僕も帰ってきたばかりなのでまだ出来てないんです。もう少し待っててくださいね」
「ただいま……ってそんな!忙しい中わざわざ無理して夕飯作ってくださらなくていいと言ったのに!」
「僕がしたいんですよ。料理をしていると考え事とか頭の中が整理できるので。」
確かにさっき私に気がつくまでの昇さんの顔はとても真剣だったけど……一体何をそんなに考えていたのだろうと気になってしまった。
でもきっと彼のことだから、仕事のことで私の想像を絶する数の考え事があるのだろう。
「……あ、シチューならちょうど良かったかもです。私実は今日、帰りにパンを買ってきたんですよ」
「本当ですか、ありがとうございます!それは楽しみです。」
テーブルの上に皿や麦茶とともに買ってきたパンをセッティングしていると、しばらくして昇さんがサラダとシチューを持ってきてくれた。
テーブルの上はいつものようにレストランみたいに本格的になった。
仕事から帰宅していつもこうだと、本当に贅沢な気分になるし、疲れも癒される。
「おぉ……いろいろと買ってきてくれたんですね。」
「同僚の方がオススメのパン屋さんらしくて、一緒に寄ってみたんです。チョイスは完全に私の好みなので昇さんに合うかは分からないんですけど……」
「へぇ……あ、萌さんはチョココロネが好きなんですね?」
途端に恥ずかしくなってしまい、苦笑いする。
「えっとまぁ……はい。子供の頃、たまに母にねだっていたんです。なんだか思い出して食べたくなってしまって……へへ。」
「そうですか、そういえば僕はあまり食べたことないですね」
「ごめんなさい。昇さんの好みがわからなかったから。」
「あ、いえそういう意味ではなく。萌さんの好きな物を共有できるのは嬉しいですよ」
優しく微笑まれ、ドキドキしてしまった。
いつまでたっても私はこんなふうにいちいちウブなままなのだろうか。
「でっ、でもこれは甘いからデザートか明日の朝食ですね!あと揚げドーナツとクリームパンも好きで買ってきちゃったけどこれも甘いですね。なので今はこの、クロワッサンとコロッケコッペパンかなぁ。」
早口でそう言うと、昇さんは不思議そうな顔をしてコッペパンを手に取った。
「私も初めて食べますけど、どうやらそこのパン屋さんの日替わりらしくて。今週はコロッケみたいです」
「へえ。美味しそうです!いただきます」
昇さんのシチューも、パン屋さんのパンもとても美味しくて、私たちは感想を言い合いながら、甘いパンまで結局ほとんど食べてしまっていた。
楽しくて幸せな時間だと心から感じている自分に驚いた。
「そういえば、新しい職場はどうでしたか?」
「それが、本当にびっくりするほど良くて!皆さんとても良い方々だし環境も素敵で……背中を押してくれた昇さんと、それから昇さんのお父様には感謝しかないです。改めてありがとうございます」
「それはよかったです!ホッとしました。今日一日、そのことばかり考えていましたから」
「えっ、そうだったんですか?」
「そりゃあもちろん。今朝の萌さん、とても緊張されていてなんだか暗かったし…心配してましたよ。」
……そんなに私のことを気にかけてくれていたんだ!と胸が熱くなる。
「ご、ご心配おかけしてすみません。でももう大丈夫です!新しい職場で楽しくやれそうですから!」
「それは本当に嬉しいです。
……今日は僕からも嬉しい報告があります。」
「え?なんですか?」
昇さんはカバンの中からファイルを取りだし、私の方に向けてテーブルの上に置いた。
それが目に入った瞬間、私は一瞬固まってしまった。
「っっ!!こっ、これって!え、えぇ?!」
なぜならそれは、証人欄に母の字で母の名前が書いてある、婚姻届だったからだ。
「ど、どうしてこれを?!」
「言ったじゃないですか。僕は諦めないって。」
「そうですけど、あんな頑固な母を一体こんな短期間でどうやってっ…」
「ただ誠意を見せただけですよ。」
母は昔からとても頑固で意志の強い人だ。1度決めたことは最後まで必ずやり遂げるような尊敬できる面もあり、憧れもあるのだが、その強さにはたまにこちら引いてしまうこともしばしばある。
だからこそ、あの母の意見をどうやって覆したのか、全く想像ができない。
けれど、なにはともあれこれで無事正式に結婚ができる。
「今週末、これを一緒に提出しに行きましょう」
「はい」
ここからが本当の、新しい人生のスタートかもしれない。