東京の空港に到着し、迎えに来ていた昇の姿を見つけた瞬間、無意識に体が動いていた。
小走りで近づくにつれ、気がついた昇の顔がパッと明るくなる。
「おかえりなさい萌さん」
「昇さんっ、ただいっ」
人目もはばからず、突然抱き締められた。
少し懐かしい、いつもの昇の香りが広がる。
「会いたかったです……」
「わ、私もです……」
そう呟きながら抱き締め返そうとしたが、周りの人間たちが明らかにこちらを見ていて、まるで微笑ましい場面を見ているかのようにニヤニヤとした表情ですれ違っていく人たちもいた。
だから咄嗟に昇と距離をとり、照れ隠しに笑った。
すると昇はニコニコしながら萌の荷物を当たり前のように取り、萌の背後に視線を移した。
「妻がお世話になりました。」
「いいえ。こちらこそ。」
そ、そうだった……
王谷さんがいたんだった……
一気に気まずくなるが、王谷も昇と同じように爽やかな微笑みを携えている。
しかしなんとなく昇と王谷のこの表情の裏には、見えない何かが滾っているようにも見えた。
「お、王谷さん…今回は本当に迷惑かけてすみませんでした。」
「いえいえー。とりあえずは問題なくスムーズに仕事できたわけだし、良かったじゃん。」
萌は正直、王谷が何を考えているのか全く掴めなくなっていた。
あんなことをしてあんな告白をしておきながら、あの後結局、本当に何事も無かったかのようにいつも通りの王谷だったのだ。
まるで本当に忘れているかのようで、もしかして酒に酔っていただけだったのかもしれないと思ったし、正直自分も酔っていたから記憶が曖昧で、実際にあったことではないような気もしてきていた。
だから萌も、いつも通りにしていた。
次の日も、脚本に使う場所をいくつか周り、写真や動画を撮ったりメモを取ったりしながら少し仕事を進め、予定通りもう一泊して帰ってきた。
王谷があまりにも普通の態度すぎて、例の出来事をほぼ忘れて過ごしていたくらいだ。
だから萌は決めた。
なんにも無かったことにしようと。
「じゃあ本條さん、明日は休日だからゆっくり休んで。また月曜に仕事の話をしよう。お疲れ様。」
「はい。お疲れ様です。ありがとうございました。」
王谷は最後、昇のほうに軽くお辞儀をして去っていった。
珍しく昇の運転で家に到着すると、さっそくチコが駆けてくる。
お土産を並べたり荷物の整理をしたりしていると、昇はテキパキと萌の衣類を洗濯したり身の回りの世話をしだした。
「お風呂入れてあるので入ったらいかがですか?メールでリクエストされていたグラタン作っておくので。」
「あっ、ありがとうございますわざわざ!ていうか……今日昇さんまでお仕事休むことなかったと思いますけど……」
「どうしてですか?奥さんのお迎えに行くのは当然だと思いますけど。」
至極当たり前な顔をして言われてしまった。
「さっき空港で、萌さんも会いたかったと言ってくれて嬉しかったな〜」
「もぉっ、恥ずかしいから言わないでくださいっ」
昇は上機嫌な感じでずっとニコニコしている。
照れ隠しに涼しい顔に努めるが、内心はやはり嬉しかった。
わざわざ自分のために休みまでとって迎えに来てくれたなんて、あの言葉通り本当に自分のことを愛してくれているのだと実感した。
それなのに私は……
「いや……忘れるって決めたじゃん…」
そう。なんにもなかった。
ただ出張に行って仕事して2泊して帰ってきただけ。
そしてまたいつもと同じ日常が繰り返されていくだけ。
王谷さんも昇さんも、私も、みんな…。
風呂の水面を掻き混ぜながら、自分を落ち着かせるためにフーと深呼吸する。
昇が入れてくれていた、萌の好きなラベンダーの入浴剤の香りに包まれ、徐々に心身リラックスしてきた。
このときはまだ、そんなふうに考えていた。
この後ますます思いもよらないことが起こっていくとは知らずに……。