少し手が空いたので化粧品検定のテキストを眺めていたら、ドアの向こうから物音が聞こえてきた。暗記用の赤シートを挟んで本を閉じ、様子を確認するため近づいていく。ドアを開けた向こうにいたのは、大きめの菓子折りと小さい菓子折りを持った菊野さんだった。
「ありがとう、有谷さん」
「いえ、大丈夫ですよ」
返事をしつつ、菓子折り達を確認する。この包装紙は、本社から少し歩いた場所にある洋菓子店のものではなかろうか。以前貰って食べたお菓子がとても美味しかったから、印象に残っている。
「また差し入れを持って来て下さったんですか?」
「差し入れと……贈り物をね」
「贈り物、ですか」
おくりもの。一体誰へ……もしかして、まさか。思考が先走ってどきどきと胸が鳴り始めたが、続けられた名前を聞いて、頭から冷や水を浴びたような心地になった……なって、しまった。
「うん。真中にね」
「……真中さん、に」
「あ、こっちは皆の分だから分けて食べて。ああ……いたいた、真中」
菊野さんは私に大きい方の菓子折りを手渡し、そのまま振り向く事無く真中さんの方へと向かっていった。遠ざかっていく背中が滲んできたので、ぎゅっと目を瞑って振り切るように首を振る。一瞬でも、もしかして……なんて思った自分が恥ずかしい。
「どういう風の吹き回し?」
「先日入院したって聞いたからな。お見舞いだよ」
「貴方からお見舞いを貰う理由なんて無いけど?」
「そう言うな。同期のよしみだ」
「今は部署も役職も違うのに?」
「同期だという事実は変わらないだろう」
「それは、そうだけど……」
「多いなら、妹さんと一緒に食べると良い。ほら」
菊野さんは、半ば押し付けるようにして真中さんへ菓子折りを手渡した。困ったような表情の真中さんと目が合うが、上手い言葉が出てこない。
「貰えるものは貰っておいたら良いだろう。そら、俺達もご相伴に預かろうじゃないか」
一部始終を眺めていた課長が、肩を震わせながら楽しそうに言った。そして、私が持っていた菓子折りを手に取り、豪快に包装を破って中の箱を出していく。
「ああ、このシュークリームか」
「懐かしいねぇ」
「お二人ともご存じなんですか?」
「うん。本社を出て右側に歩いていった先に洋菓子店があるだろう? そこの看板お菓子だよ」
「ああ、そのお店なら知っています。チーズ饅頭とかカステラとかも売ってましたよね」
「あったね。それらも食べた事はあるが……このシュークリームは、残業残業残業で死んだ魚のような目をしていた我々に先輩方がよく恵んで下さったものなんだ。だから思い入れもひとしおでね」
「そうですか……」
死んだ魚のような目をした課長なんて一ミリも想像がつかないが、残業続きで大変だった時期があったという話は知っている。きっと、その時に食べたのだろう。
「うーん、このふわふわのホイップクリームが口内に染み渡る……」
「白いホイップを抜けた先にあるカスタードが……」
浸っている二人から視線を外し、席に戻って私も自分の分を食べる事にした。うん、確かに……ホイップとカスタードが絶妙に混ざって、甘くて美味しい。
「この前、真中さんが私と羽柴さんを労って渡して下さったのは、このお店のチーズ饅頭でしたよね?」
「ええ。あれも美味しかったでしょ?」
「美味しかったです。今週末人と会う約束があるので、手土産にしようかなと」
「あら、どなた?」
「高校からの友人です。ゴールデンウィーク以来なので楽しみにしていて」
「……それってどんな人?」
上から声が降ってきたので、そちらの方へ視線を向けた。いたのは菊野さんだったのだけれども、いつになく不安そうな表情に見える。
「面倒見が良くて頼れるお姉さんって感じの子です。高校の時も大学の時も何かと助けてくれて」
「つまり、女の子?」
「そうですよ。私の友人は基本女子だけですし」
「基本って事は、男子もいなくはない?」
「ゼミやクラスが一緒とかで、他の人達よりは話していた男子もいますし連絡先知ってる人もいますけど……でも、友人と言う程では」
「そうか……それなら、まぁ……大丈夫か……」
「菊野さん?」
「ああ、大丈夫、ありがとう。いきなりごめんね」
「いえ……」
会話の途中から、明らかに彼の表情が明るくなった。不安が晴れたらしいのは喜ばしいが……そもそも、今の話のどこに不安を感じる要素があったのだろう。
「あの、一つ聞いて良い?」
「何ですか?」
首を捻りつつシュークリームの続きを食べていると、真中さんから声を掛けられた。どことなく、驚いているような困惑しているような、そんな感じの表情である。
「有谷さんと菊野君って連絡先交換とか、社外で連絡取るとかって、した事ある?」
「してないですよ。そんな、私みたいな新米が恐れ多い」
「貴女からはしなくても、向こうからは?」
「無いです」
「社内チャットでやり取りしたとかは」
「この前のスクリーンの件と小柴さんの件で事務連絡は頂きましたけど……」
用もないのにこちらから連絡先を尋ねるなんて烏滸がましいし、向こうもそんな事をする理由が無いだろう。まぁ、仮に知っていたとしても、多分色々考えて込んでしまって連絡なんて出来っこないだろうが。
「……何だ、そこからなのね」
「真中さん?」
「いえ、大丈夫よ。気にしないで」
「……分かりました」
釈然としないが、大丈夫ならそれ以上突っ込むのも憚られる。何か重要な話ならば、機会が来たら教えてくれるだろう。
気にしていても仕方ないので、シュークリームに集中する事にした。