「じゃあ、東光印刷さんは化粧品専門という訳ではないのですね」
「そうなんです。元々はお菓子や玩具等のパッケージ印刷が中心でした。今は減りましたが、昔から懇意にしている企業からは依頼を頂く事があるので作ってはおりますよ。ありがたい事です」
「という事は、今はうちみたいな化粧品関係が多いのですか?」
「そうですね。キクノ様の商品が一番多いですけど、他メーカーの方々からもお声を掛けて頂く機会が増えました」
私の質問に全部答えてもらっても待っているという同行者がまだ現れないので、世間話のついでに東光印刷自体の事を尋ねてみた。家族経営の小規模企業だという話だが、最近は受注が増えてきたので少しずつ事業を拡大しているとの事だ。
「ご家族で経営されている、という事は東光さんのお父さまかお母さまが作られた会社なのですか?」
「作ったのは祖父ですね。父が引き継いで、母と私が手伝っています」
「長く続いてらっしゃる会社なのですね。他に従業員はいらっしゃらないのですか?」
「以前は祖母も業務に関わっていましたが、今は三人だけです」
「……それは大変ですね」
「でも、最近デジタルデータの処理が出来る従業員が新しく加わってくれたので、大分楽になりました。以前は私しか出来なかったので、どうしてもこなせる作業量に限界があって。少しでも手が空いたら作業するようにはしていたのですけれど、それでも顧客の皆様をお待たせする事が多くて心苦しくて……父に相談したら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのか、言ってくれていたら早く人を入れたのに、と怒られてしまいました」
「そうだったんですね」
その言葉に、ほっとした。彼女に気づかれないように、そっと長く息を吐く。
以前、北方さんのチームが新しく什器を作ろうとしていた際、仕様も決まり生産体制も整ったので、いざ店頭分を量産する……という段階で、社長が待ったを掛けた事があったのだ。何が彼の癪に障ったのか詳細は聞いていないが、ほぼ全て一からやり直しになり、東光さんに大分迷惑を掛けてしまったと北方さんが難しい顔をしていた。その割に、社長が噛んだ方の什器は反応がいまいちだったようだが……私がネットで口コミを調べた限りでは。
「私達も、なるべくご迷惑やご負担を掛けないように気を付けます。東光さんも、何かあればすぐに仰って下さい」
「お気遣いありがとうございます。でも、キクノ様が自信を持って世に送り出そうとしている商品なのですから、妥協を許せないのは当たり前の事ですよ」
「そう、ですか?」
「ええ。キクノさんは入稿締め切りまでに余裕を持ってデータを入稿して下さいますし、こちらからの連絡に早めに応答して下さるので、それだけでも大分助かっておりますし……出来得る限りご要望には応じますので、そちらも何かあればすぐにお伝え下さいね」
「……ありがとうございます」
可愛い感じの美人さんで、見た目は正に大和撫子と言った感じのおしとやかな女性なのだが。話していると、言葉の端々にかなりの意識の高さを感じる。自分達はプロであるという自負があって、仕事に誇りを持っているという事なのだろう。それ自体は凄い事だし良い事なのだろうと思うのだが……何となく、無理をしていないだろうかと思って、心配になってしまう。
「あの」
「またそんな事を言って。この前も無理が祟って体調を崩していたと言うのに、まだ言うのか」
私の声をかき消すように、不機嫌そうな低い声が聞こえてきた。声がした方を振り返ってみると、ベストとジャケットをかっちり着込んだ男性が立っている。年は菊野さんと同じくらいに見えるが、背格好はもう一回り大きく見える……鍛えているのだろうか。
「そこら中探したぞ。どうしてこんな端の方にいるんだ、陽葵。待ち合わせは向こうのゲートの入口だったじゃないか」
「和磨さん」
「まぁ良い、もう用は終わった。さっさと帰るぞ」
和磨と呼ばれたガタイの良い男性は、そう言って遠慮なく東光さんの腕を掴んだ。力が強くて痛かったのか、東光さんの顔が一瞬だけ歪む。
「申し訳ありません。私が引き留めてしまったんです。東光さんは何も悪くないので、どうか手を離して頂けませんか」
「見ない顔だな。お前は誰だ?」
「……今年入社した、キクノコーポレーションの有谷と申します」
「何だ、キクノのとこの社員か」
「……はい」
どうにか眉間に皺を寄せないように、しかめっ面にならないように意識しつつ返事をする。人に挨拶する前に自分が挨拶しろって、学生時代に習わなかったのだろうか。ビジネスマナー以前の問題である。
「こういう場に新人を寄越すなんてな。人手が足りてない、会社が回ってないと言っているようなものじゃないか」
「本日は私の上司が共に参加しております。後学のために会場を自由に回って良いと許可を得ましたので、勉強のため各社のブースを順に訪問させて頂いていたところです」
「訪問していた? 席に座って陽葵を捕まえてお喋りして、油を売っていただけじゃないか。全く、社のレベルが知れるな」
「……」
ぐらぐらと腹の中が煮えてくるが、どうにか爆発させないよう抑え込む。東光さんを引き留めたのは私なので、そこには何も文句を言えないが……どうしてそんな言い方をされないといけないのか。しかし、下手に反論してトラブルになってもいけないので、黙って唇を噛み締める。私が黙ったのが愉快だったのか、男の口角がにやりと上がった。平常心、平常心。
「和磨さん、流石に言葉が過ぎるわ」
「陽葵」
早くこの場を立ち去らないと、流石に堪忍袋の緒が切れそうだ。そう思ったので、ここらで失礼しますというのをどう伝えようか考えていたら、救世主の声が聞こえてきた。
「元はと言えば私の方から声を掛けたし、彼女が各社を回っていたのは横にある荷物からも分かるでしょう。私と世間話をしていたのも、彼女が予め準備していた質問に全て答えてしまったからだし……そもそも、如何なライバルである同業他社だからと言って、そんな風に突っかかった言い方するなんて失礼よ」
「……ふん」
東光さんの最も過ぎる指摘に臍を曲げたらしい和磨とやらは、舌打ちしながら背中を向けこの場を去っていった。東光さんも立ち上がったので、私も一緒に立ち上がる。すると、東光さんは私の方を向いて深々と頭を下げてくれた。
「申し訳ありません。気分を害するような真似をしてしまって」
「大丈夫ですよ。東光さんは何も悪くありませんから、どうか頭を上げて下さい」
「……ありがとうございます」
ゆるゆると、彼女の頭が上がる。目が合った所で、気になった事を聞いてみた。
「さっきの男性が、最近入ったという従業員の方ですか?」
「いいえ。うちの取引先の一つである、プランタン化粧品の社員です」
「ああ、プランタンさんでしたか」
その名前も聞いた事がある。キクノと同じようにスキンケア化粧品を中心に作っていて、かつ会社の規模が似ているのでキクノと良く比較される会社だ。そう言えば、向こうの次期社長と言われている社長令息も、菊野さんと同じくらいの年齢じゃなかったか。
「それでは、私は失礼致しますね。今日はお話出来て楽しかったです」
「こちらこそ、お付き合い頂いてありがとうございました。またお会い出来たら嬉しいです」
お辞儀をして、そう告げる。東光さんの頬に赤みが差して、柔らかく微笑んだ。
「ええ、是非」
彼女はそう返事をしてくれた後で、彼が立ち去った方へと歩いて行く。その背中を、見えなくなるまで見送った。