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貴方をもっと知りたい(8)

「もうそろそろ時間ね」

 真中さんのその言葉を聞いて、部屋の中の時計を確認する。確かに、訪問先との約束を考えるともうそろそろ出発した方が良いだろう。

「有谷さんは出掛ける準備して。羽柴さん、後は宜しくお願いします。外出中のようですので、課長にもお伝え頂ければ」

「うん、分かった。いってらっしゃい」

「行って参ります」

 作業の手を止めてそう言ってくれた羽柴さんへ、真中さんが返事する。準備が出来た旨を伝え、二人で一緒に駐車場へと向かった。

「今日は東光印刷さんへ、今度のリニューアル品のパッケージについての打ち合わせですよね」

「ええ。試作品が出来たって連絡が来たから確認にね。通常なら郵送してもらうんだけど、やっぱり直接話せた方が色々早いから」

「対面の方が効率良い事って結構ありますよね。口調とか雰囲気とか、声のトーンとかが分かりやすいので、情報量が多い分より正確に物事や状況を捉えやすいですし」

「そうね。画面越しだと伝えづらいニュアンスって結構あるから、可能な限りは出向いた方が良いと思うわ。今は私や羽柴さんに付いてきてもらっているけど、いずれは貴女一人でも行ってもらうからそのつもりでね」

「……分かりました」

「いつもと違って返事が小さいわね」

「分かりました!」

 正直他社訪問は緊張するので気が進まないが、真中さんの言う事は一理ある。顔が見えない電話や顔も声も分からないメールだと、相手の機微に気づきにくい事も多いし、勘違いやすれ違いも起きやすい印象だ。それでトラブルが起こって業務が頓挫したら、まさに大事である。

(東光印刷って事は、陽葵さんいらっしゃるのかな)

 真中さんの運転に揺られながら、先日会った彼女の顔を思い浮かべる。同時に浮かんできたふてぶてしい男の顔は努めて意識の隅に追いやり、おっとりした微笑みと柔らかい声の記憶を辿っていった。


  ***


「こんにちは。キクノコーポレーション企画課の真中です」

「企画課新人の有谷です!」

「有谷さんは初めましてですね。私が、東光印刷の社長をしています東光陽太郎と申します」

「宜しくお願い致します!」

「ええ、こちらこそ。では、立ち話も何ですのでこちらにお座り下さい」

 私達を出迎えてくれたのは、物腰も表情も柔らかそうな男性だった。東光印刷の社長という事は、この人が陽葵さんのお父さんか。

「こちらが、入稿頂いたデータを印刷して制作したパッケージになります」

「流石東光さんですね。細かい模様も文字も綺麗に印刷して下さって、ありがたい限りです」

「発色の方は如何でしょうか。出来る限りの調整は致しましたが、パステルカラーですのでどうしても完全再現というには難しく」

「だいぶイメージには近いですが、やはり少々くすむ印象ですね。もう少し調整させて頂いて、改めて印刷用データをお送りしても宜しいでしょうか?」

「それでも大丈夫ですが……もしお時間あるのでしたら、この場で調整させて頂いた方が早いかもしれませんね。今日は担当の手が空いておりますので対応させて頂きますよ。少々お待ち下さい」

 そう言って少し離れた社長は、スマホの電源を入れて電話を掛け始めた。陽葵、と聞こえてきたので、何となく胸が逸る。

「お待たせ致しました……あら」

「先日ぶりです!」

 現れた担当者は、予想通り陽葵さんだった。私達の反応を見て、社長さんと真中さんが揃って目を丸くする。

「いつの間に会っていたの?」

「この前の展示会です! 私が困っていたら、陽葵さんが助けて下さって!」

「困っていたのを助けた?」

「有谷さんが外国の方に道を聞かれていたんです。それで、返答に困ってらっしゃるようだったので、僭越ながらお声がけさせて頂きました」

「その節はありがとうございました」

 改めてお礼を言い、頭を下げる。真中さんも、陽葵さんへ軽く会釈して口を開いた。

「弊社の社員がお世話になりました。ありがとうございます」

「いえいえ。その後お話させて頂いたのですけど、とても熱心なご様子で……私も頑張らねばと気合が入りました」

「そうでしたか。まだ新人ですのでこれからという部分は多いですが、やる気は十二分にある社員ですのでね。またお話させて頂く機会があるかもしれません」

「ええ、その際は是非。では、データの調整をという事ですので、一旦事務所の方へとお越し頂いても宜しいですか?」

「分かりました」

「分かりました!」

 陽葵さんの先導に付いて行く。社長さんは他の作業をするとの事だったので、一旦分かれた。


  ***


「調整上手くいって良かったですね」

「そうね。後は、量産段階でトラブルがなければ大丈夫かしら」

「試作品を作るのと本格的に量産していくのでは、やっぱり勝手が違うんですね」

「別物よ。一つ二つだけならどうにかなっても、何十、何百って単位になると出てくる問題も多いから」

「そうなんですね」

 試験室レベルの実験では問題にならない発熱反応でも、工場生産規模になると爆発の危険があるから対策が欠かせない……この前の展示会で聞いた話だ。工程は同じでも規模の違いで気を付ける事が違うというのは、どこの世界にもあるものらしい。

「でも、東光さんはそういうギャップが少ない印象ね。だからこそ社長が気に入っているのでしょうけれど」

 社長という言葉で、先日の菊野さんの言葉を思い出した。陽葵さんとは、父さんが東光を重用しだしてからの付き合いだと言っていた。つまり、キクノ商品のパッケージや什器の製作の大半が東光印刷なのは、社長の意向という事だ。

「……社長って、どんな人なんですか?」

 私が知っているのは、入社式で挨拶をしていた姿くらい。後は、他の社員の方々から聞いた話ばかりで、現状直接知る機会は無いに等しい。もう少し色々知る事が出来れば、菊野さんと一緒にいる上で助けになる事があるかもしれないとは思うのだけども。

「一言で言うなら……昭和の熱血ワンマン社長」

 そう語る真中さんの声は、どことなく低かった。良い意味でそう表現している訳ではないのだろう。

「キクノが自分の手腕でここまで成功したっていう自負があるからなのでしょうね。俺の言う通りやっていれば成功出来る、俺の意見が正しい、俺が決めれば間違いない……そういう風に考えて、そういう風に動くタイプ。流石に、株式会社だし従業員数それなりの会社だから全部が全部通る訳では無いけれど、近い状況ではある。あの時もそうだった」

 あの時もそうだった。あの時……菊野さんが突如企画課から財務部に移動し、代わりの人員が入ってきて大変な目に遭った、その時の事だろう。確か、その時の補充人員を選定したのは社長だった筈。

「でも、有能な部分があるのは確かなのよね。それこそ、東光印刷を見つけてきたのとか」

「東光印刷にパッケージを発注し始めたのは社長なんでしたっけ」

「そうよ。当時受注減で苦境に立たされていた東光印刷に、こんな良い会社が勿体ない、是非我が社の商品のパッケージ製作を任せたいって言って発注するようになったらしいわ。その後持ち直した東光印刷を見て、随分ご満悦だったみたい」

「そうですか……」

 あの菊野さんの父親だから……と言ったら贔屓目になるんだろうが、だから悪い人ではないのだろうと言うのが私の認識だった。それ自体は、合っているのかもしれない。

「もうすぐ会社に着くわ。準備は大丈夫?」

「大丈夫です」

 膝の上に置いていた鞄を抱き締め直し、返事をする。車窓から見えた夕日が、地面に長い影を作っていた。

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