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貴方をもっと知りたい(10)

「すみません、恥ずかしい所をお見せしてしまって」

 ドリンクバーから戻ってきた菊野さんに、謝罪して頭を下げる。バレて怖い思いをするのは嫌だから内緒にしててくれ、と言ったのはこちらなのに、縋るような真似をしてしまった。

「そんな事ないよ。頼ってもらえてるようで、俺は嬉しかったけれど」

 いつになく上機嫌の菊野さんが、グラス片手に答えてくれた。飲み物自体はジンジャーエールなんだけど、彼が持っていると何となく高級な飲み物に見えるのは何でだろう。

「貴方の隣にいるなら、もっとしっかりしてて格好いい、自立した女性にならなきゃって思って自分なりに頑張ってるつもりなんですけど……真中さんみたいな」

「有谷さんの努力を否定するつもりはないけど、そこまで無理しなくても大丈夫だよ? 何なら、もっと甘えてくれても良いのにって思っているくらいだし。それが許される間柄になれたんだから」

「それじゃどんどん駄目な人間になってしまいそうで……」

「甘やかして駄目になって俺無しじゃもういられなくなってしまったって言うなら、正直それでも構わないと言うか、むしろそのくらいでも全然問題ないんだけどね」

「……え」

「でも、まぁ、それは有谷さんの本意ではないんだろうから、そこまでは求めないよ。安心して?」

「はい……」

 何か、今、ものすごく怖い事を言われたような。そう思ったが、蒸し返すのも何となく恐ろしいので、曖昧に返事して誤魔化しておいた。

「それにしても、有谷さんの中では真中ってそんなイメージなんだね」

「イメージも何も、実際にそうじゃないですか」

「ああ、まぁ、確かにチームリーダーやってるしリスク回避の鬼だし、優秀な人材なのは確かだと思うよ。思うんだけど、俺は同期だからさ……頼りなくて慌てふためいてる真中も幾度となく見てきたから、そこまで? って思っちゃって」

「同い年の同期から見た真中さんと、後輩で部下の私から見た真中さんでは、違う部分もあるとは思いますよ」

「それはそうだろうね。正直、真中が羨ましくて仕方ない」

「羨ましい、ですか?」

 意外な言葉が聞こえてきたので、思わず聞き返してしまった。グラスの中身を半分くらい飲み干した菊野さんは、ちょっと拗ねたような表情で私の事を見つめながら口を開く。この人のこんな表情、初めて見た。

「うん。可愛い恋人が、自分以外の人間に絶大な信頼と尊敬を向けて頼りにしてて、ああなりたいって憧れてる訳だろ。羨ましくならない方がどうかしてる」 

「そういうもので……え、うええ!!???」

 更に予想外な言葉が聞こえてきて、狼狽える気持ちが口からも飛び出した。恋人、自分以外の人間に信頼と尊敬を向けて頼りにしてる、憧れてる……それは確かに事実なのだけど、そんな、ストレートな表現を異性から向けられた事なんてないので、どうしたら良いか分からない。

「あの時やっぱり粘って企画課に残ってたら、君の直属の上司とかチームメイトになれたのかなとか、正直ちょっと考えたからね。今更言っても仕方ないし、恰好悪いからそういうの言わないようにしてたけど」

「そんな、菊野さんはいつだって格好いいですよ! 頼りになるし、尊敬してます! 私だって貴方が好きです!」

 勢いでそこまで告げ、これまた勢いで頬杖をついていた彼の右手を掴んだ。菊野さんの頬がじわじわと赤くなっていって、彼の視線がテーブルに向く。

「…………菊野さんは、課長と真中さんの関係ご存じですか?」

 気まずい空気で溢れて、それでも握った手を離したくなくて。お互い黙ったまま手を握り合っていたけれど、流石に居た堪れなくなってきたので何とか話題を捻り出した。菊野さんは、面食らったような表情でこちらを見ている。握った手はそのままにしてくれているのが、純粋に嬉しかった。

「関係? とうとう真中が観念したの?」

「違います。相変わらずの両片想いぶりを企画課内で繰り広げてます」

「ああ、まだそうなのか……俺達の方が早くくっついちゃったね」

「そうですね」

 笑う場面ではないと思うが、菊野さんが笑っているのでつられて笑う。その間に、互い違いに指を組まれて握り直されたので、こちらからもぎゅっと握り返した。

「何だかんだお似合いだとは思うんだけどね、あの二人。だから、まぁ、良いんじゃないかと思うけど、正直に言うなら面白くはないな」

「え? どういう事ですか?」

 流石に、この流れでひょっとして彼、本当は……なんて疑うほどひねくれてはいない。いないが、それならそれで、どうしてそう思うのかさっぱり見当がつかない。そんな訳で尋ねてみると、彼の目が分かりやすく泳いだ。

「……別に、有谷さん口が軽いとか、そういう心配をしている訳では無いんだけど。一応、今から話す話は、二人には言わないって約束してもらっても良いかな?」

「良いですよ」

 藪をつついて蛇を出す趣味は無い。元々、この手の話題や会話の内容を、本人達に言うつもりは一ミリも無かった。

「両親が両親だからさ、俺が小さい頃から頼りにしていたのは両親よりも大和の方で……俺の中での大和って、何ていうか兄貴みたいな存在なんだよね」

「……そうなんですね」

 あの課長が? という声を辛うじて飲み込み返事をした。私達がそれぞれ真中さんへ抱いている印象が違うように、課長へ抱いている印象も違う事は十分あり得るだろう。そもそも、関わってきた期間が違うのだから印象が違って当たり前という話だ。

「で、真中の方は、同い年で同期で、実力も似たような感じで……だから、まぁ、俺と同じというか、同格みたいな存在でさ」

 片や頼れるお兄さん、片や自分と同じレベルの同格の存在。やっぱり、菊野さん真中さんの実力は認めているのだ。

「俺が企画課にいた頃はそこまで差はなかっただろうけど、今現在大和が頼りにしているのは、間違いなく直属の部下である真中の方だろう? 加えて、真中を構ってる姿は有谷さんも見ただろうし」

「何回目か数えるのを放棄したくらいには見ましたね」

「そんなのがさ、何と言うか、羨ましいと言うか……俺よりも真中の方が大和に頼られてるのかって思ったとか、言うなれば、あの、兄貴取られた弟みたいな気分になったというか……ともかく、そういう感じ。だから、面白くないって事」

 顔を赤くしたままで、私の手をぎゅっぎゅっと握りながら。絞り出すように告げられたのは、ある意味とてもありふれたよくある理由。

(……可愛いな)

 目の前で照れている彼を見て、何のためらいもなくそう思った。そして、時折感じていた胸の奥のもやもやが、少しだけ晴れていったような心地がする。一部分でも彼の事を知れて嬉しくて、自分の口角が上がって口が緩んでいくのが分かった。


  ***


「ここで良かったかな?」

「大丈夫です。わざわざありがとうございます」

「良いよ良いよ。後ろ開けて荷物取るから、先に降りててくれる?」

「分かりました」

 今日の予定を全て終えたので、菊野さんがマンションまで私を送ってくれる事になった。良いのだろうかと迷っていたら、帰り道の途中だから大丈夫だと言われたので甘えてみる事にしたのだ。菊野さんの表情がどことなく嬉しそうなので、勇気を出してみて良かった。

「今日は俺の方の趣味に付き合ってもらったからさ、今度は有谷さんの趣味に付き合うよ」

「良いんですか?」

「彼女の好きな物や好きな事は知りたいものじゃない?」

「……そうですね」

 好きな人の好きな物、好きな事。知りたかったから、今日の買い物に同行させてもらったのだ。彼も同じだと言ってくれるなら、それは、凄く嬉しい。

「それじゃ、また明日からお互い頑張ろうね」

「はい! 今日はありがとうございました!」

 めいっぱいの感謝を込めて、彼の目を見つめながらお礼を言う。荷物を渡してくれた菊野さんは、一瞬だけ動きを止めた。しかし、すぐに動き出して、私の方へもう一歩分近づいてくる。どうしたのだろうかと思って顔を上げたのと、額に柔らかい物が触れたのは、ほぼ同時だった。

「こっちこそありがとう。じゃあ、またね」

「はい……」

 返事している間に、菊野さんは車に乗って帰っていった。荷物を左腕で抱えつつ、右手をゆるゆると額へ持っていく。

(い、いま、額、つまり……!)

 額に触れたものの正体に思い至って、暫くの間その場から動けないままでいた。

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