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貴方の、会社の、ためになるなら(2)

「おはようございまーす……ん?」

 挨拶しながら企画課の部屋に入ったのだが、いつもなら返ってくる皆の声が聞こえて来ない。どうしたのだろうかと思って室内を確認してみると、課長や真中さん、羽柴さんを始めとした企画課の面々が難しい顔でパソコンの画面を眺めている所だった。どうしたのか気になったので、ささっと荷物を置いて私も輪に加わる。

「おはようございます。皆さん揃ってどうしたんですか?」

「ああ、有谷君か。そうだな……百聞は一見に如かず、という事で君にも見てもらうか」

 課長はそう言うと、パソコンの画面を指差した。指の先、画面に表示されているのは一通のメールのようだが……何気なく差出人を見て、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「菊野栄治って……確か社長ですよね?」

「その通り。社長様直々から、各部署の部長と課長への熱いメッセージだ」

 読んで良いとの事なので、本文を読み進めていく。ええと……今期の業績が予想よりも良くない、各自反省してもっと努力しろ、社員なのだから常に会社を最優先に考えて休みの日も研鑽を積んで云々……これ、今の時代だと立派なパワハラ案件にならないだろうか。正直、私は休みの日もドラッグストアにスキンケア品を見に行ったり展示会に行ったり雑誌読んだりネットサーフィンしたりで、仕事に関わる事を色々やっているが……それはあくまで、私が好きでやっているだけに過ぎない。強制して全員にやらせる事ではない筈だ。

「送信先が部長と課長に留まっているのは秘書の機転だろうな。送り主にしては文章が丁寧だから、文章校正もしてそうだな……今度労っておこう」

「……もしかして、私みたいな新人にも送られてくる可能性があったんですか?」

「去年売り上げが横ばいだった時は全社員に送られてきたな。そのせいで、若手が数人落ち込んでいたからフォローに回った記憶がある」

「その時もこんな感じの文面だったんですか?」

「もっと酷かったぞ。保存してあるから、見てみるか?」

「え、遠慮します……」

 目の前のメールも、口調は丁寧だが文章の端々に怒りの感情が滲んでいるのが良く分かる。それよりも酷かったという事は、多分もっと感情的な文章であったという事だろう。そんな、読む前から気が滅入りそうなメールを好んで読む趣味は無い。

「情報共有はしておいた方が良いと思ったから皆にも見せたが、その程度の認識で大丈夫だ。皆は、いつも通り真面目に確実に目の前の仕事をしてくれたら良い」

 課長がそう言うと同時に、始業時間を告げる放送が流れた。各々移動し始めたので、私も自分の机に戻る。置いたままだった自分の鞄をロッカーに仕舞った後、今日の業務を開始した。


 ***


「ああ、俺のところにも来ていたな」

「菊野さんにもですか?」

 一瞬驚いてしまったが、菊野さんは財務部の部長だ。各部署の部長と課長に宛てたというならば、菊野さんにも送られていて当然の話である。

「うん。去年もその前も似たような事をやっていたから、またか……って正直思ったけれどね」

 隣を歩く菊野さんが、呆れたように溜め息をついて肩を竦めた。彼も課長と同じで、堪えてはいないらしい。

「去年は全社員に似たようなメールが送られたって聞きました。またかって言いたくなる程なら、社長はそれ以外にも同類のメールを複数送ってらっしゃったんですか?」

「みたいね。まぁ、俺は小さい頃からあの人を見てるから、それもあるかもしれないけど」

「……そうですか」

 父親の事を、あの人呼び。私は、自分の親をそういう風に形容した事も、形容されたのを聞いた事もなかったので……何となく重苦しい心地になる。

「有谷さんは気にしないで良いよ。まだまだ覚える事の方が多いだろうし、今は目の前の事をしっかりやってもらう方が良い。そもそも、あの人の言う事よりは真中や大和の話の方が余程建設的だ。そっちを参考にした方が良いと思うよ」

「分かりました」

 結局、今の私に出来るのはそのくらいだ。変に背伸びして取り返しのつかない事態になるよりは、堅実にこつこつ出来る事を増やしていきながら足元を固めていく方が良いのだろう。

「そう言えば、目的のCDショップはまだ先なのかな?」

「はい。次の信号を右に曲がって、もう少し行った場所です」

「そうか。ありがとう」

 いつも行っているCDショップは、駅から少し離れている。けれど、大型店で他の店舗よりも品揃えが良いので、欲しいCDがある時は毎回そこに行っていた。本の販売や併設のカフェもあるので、ゆっくり過ごせるだろう。

 そんなこんなで会話しつつ歩き進め、無事ショップに到着した。CDコーナーに向かい、まずは新譜の台を見る。

「あった?」

「こっちにはなさそうです。通常の売場にはあると思うので、そっちに行ってみても良いですか?」

「もちろん」

 了承を得られたので、そのまま通路を真っ直ぐ進んでいった。ずらりと並んでいる棚のエリア表示を確認しながら、目的のアーティストの棚を確認する。最新CD……良かった、欲しかった初回盤Aタイプが残っている。

「ありました」

「どれ?」

「このCDです」

 彼に向かってCDを掲げると、菊野さんは興味深げにジャケットを眺め始めた。その後、棚に並んでいる別のCDもチェックし始める。

「AタイプとかBタイプとかあるみたいだけど、何が違うの?」

「メインのシングル曲は同じなんですけど、カップリング曲が違うんです」

「カップリング曲……ああ、タイトルの曲と別に収録されている曲の事?」

「そうです。私はAタイプ収録の曲の方が好みだったので、そっちが良いなと思ってまして」

「あれ、Aタイプにも二種類あるのかな? 初回盤と通常版ってあるね?」

「初回限定版と通常版ですね。基本中身は同じなんですけど、特典が違いまして」

「特典? 何が入っているの?」

「握手会の参加券とかライブの抽選応募券とか色々あるんですけど……今回の場合だと、初回盤には別バージョンのMVが収録されているDVDディスクが一緒なんです。それが見たかったので、初回盤の方を探していて」

「なるほど……世の中にはまだまだ知らない事が多いな……」

 私の話を聞いた菊野さんは、そう言って神妙な顔つきになった。確かに、今まであまり音楽を聴いてこなかった人とかCDを買って来なかった人にとっては知らない話だろう。

 いつだって私を気遣ってくれて、私を助けてくれて頼もしい彼にも知らない事がある。考えてみれば当たり前の話ではあるのだけども、中々実感する機会がないものだから……不謹慎だけど、彼を身近に感じられたような気がして、ちょっとだけ嬉しくなった。

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