「こんにちはー」
薄暗い店内には、相変わらず匂いのきついお香が焚かれている。アジアンな雰囲気を出そうと頑張っているのは伝わるが、どうしてもここに十五分いるのも素人にはきついだろう。先日借りた本を返そうと、新藤は一階の雑貨屋を訪れていた。
「あら」
前回と全く同じ風貌で現れた女店主は、新藤の顔をきちんと覚えていたようだ。すぐに嬉しそうな顔をすると、お決まりのように腕を掴んで奥へ誘う。前よりも荷物が増えている気がするのは、間違いだろうか。
「あ、あの! 急いでいるので。この本を返そうと思って。この間、話をしてくれた方って今日も来ていますか? 確か……」
「あぁ、マリンちゃんね。今日は行商に出ていていないわよ。随分興味を持ってくれているようだけど、それは彼女に? それとも本に?」
サングラスの奥の大きな瞳に至近距離で見つめられて、思わずのけ反る。高揚した頬に分厚い唇。一歩間違えたら、本当に危うい。この香りのせいだろうか。どうも、居心地が悪くなる。
「本です!」
誤解させないように、と思うばかりに声が大きくなる。にんまりと口角を上げて近づいてくる女店主との相手に本を挟みながら、新藤は言う。
「この本の中身、分かりますか? この間、マリンさんに聞いたジェームスの指輪について知りたいんです」
「え?……私、英語は読めないのよね」
突然、迷惑そうな顔になった女店主だったが、体裁のためか本を手に取った。ぺらぺらとページをめくったところで、諦めたように突き返してくる。
「あんた、探偵なんだってね。もしかして、これが関係するの?」
「え、まぁ……。それを確かめたいんですけど」
新藤も英語はからっきしダメだ。しかし、現代の技術があれば、書物の翻訳をすることなど機会にかざせば一瞬で出来てしまう。散々、藤本の後を探したけれど見つからなくて諦めた新藤は、せめて関連する本であることを願って翻訳機にかけた。すると、どうやって指輪が生まれたのかが物語調に書かれていたのだ。
「うーん、ちなみに何て書いてあったの?」
新藤は、結局何も教えてもらえることはないだろうと諦める一方で、誰かと共有したくて物語をおさらいすることにした。勧められるままに椅子に座ったが、今日は女店主もお茶を持ってくる素振りはない。
「指輪が生まれたのは、千七百年頃のフランスらしいです。ある鋳金師によってつくられたこれには、魔女の力が宿っているとか」
新藤が障りを話しただけで、女店主が噴き出した。驚いて顔を見やると、謝る様に咳ばらいをしている。霊が見えない者にとっては、魔女なんてもっと笑い種だろう。目の前で怪奇現象が起これば大騒ぎをするくせに、なぜその原因を認めようとしないのか不思議だ。
「鋳金師が恋人に裏切られた時に、魔女がやってきて願いを叶えると言ったらしいです。でも、そのためには生贄が必要だとか。鋳金師は迷うことなく、願いを伝えました。そうしたら、結局彼女の幸せも奪うことになった。鋳金師の恨みから、この指輪は呪いがかかっているとか」
新藤は、本に描かれているシルバーの指輪をなぞった。先を促すように女店主が顔をしかめる。話せば話すほどに、現実味が無くなっていく。
「これは、世の中のトレジャーハンターが狙う品としても有名らしくて。フランス、ドイツ、中国、ロシア。色んな国での目撃情報があるとネットにも書いてありました。だから、日本にあったとしても……」
「あるの? あなたは見たの?」
「いや、本物かどうかは分からないんですけど。でも、指輪の呪いが霊を引き付けてしまうから、それを持っているだけで危険だって。ましてや、使うことは禁じられて」
「あなた、年齢の割に随分子供っぽいところがあるのね」
女店主の唐突な振りに、新藤は虚を突かれた。自分で話を振ってきたくせに、と不満に思っていると、女店主は伸びをした。
「私も、昔は色々と夢を見たわよ。海外でお店を開いて、現地で結婚をしたいと思っていた。それに、船に乗って世界一周をして、最後は砂漠でアラジンの……」
そこで大きく息を吸って、肩を落とす。女店主がなりたかったのは女優ではないかと思いながらも、面倒なので口を噤む。
「行きついた先は、ここ。この街の、小さな部屋が私の住処よ。……馬鹿にしているの?」
今度は想像もしていなかったほど睨まれ、新藤は思わず勢いよく立ち上がった。そして、大きく首を横に振ると、本を女店主の手の中に押し付ける。
「ありがとうございました! マリンさんにもお伝えください。ちょっとまた、何か聞きたいことがあるかもしれませんが。では!」
まだ睨んでいる店主に捨て台詞のように告げると、一目散に店を後にする。店から出た外の世界が眩しくて気持ちがいい。二度と、この中には足を踏み入れないと誓う。そして、事務所に戻ってベルを連れると、久しぶりに散歩に行くことにした。
公園を回ってから大通りを抜けて、何度か同じ道をぐるぐると回った時、ベルが足元で不満げに鳴く。最初こそ、久しぶりの新藤との散歩が楽しいだけだが、どうやら同じところを歩いていることに気づいたようだ。腰を追って頭を撫でると、ベルは走ろうとでもいうようにジャンプする。
「そうだよな。まずは、ストレス発散だよな!」
ベルの尻尾に憑いているモノを軽く叩いて振り落とすと、新藤は思い切りリードを引いた。嬉しそうに笑い、ベルが走り出す。すぐに追い越されて、まるで引っ張られるように街中を疾走する。振り返って笑う人。楽しそうに掛け声をくれる子供。迷惑そうにジャンプして離れる猫。その景色のどれもが、不安定でウソみたいな世界から、現実へ新藤を連れ戻してくれる。目を背けてはいけない。ベルが、そう教えてくれている気がした。
「よし、これからもうひとつ、付き合ってくれるか?」
走り飽きたベルは、コンクリートの上に寝そべったまま動くことを渋った。初めこそ、再び歩き始めるのを待ったが、結局新藤は大きなベルを抱き上げてある建物に入った。
再び新藤が家族と暮らしたマンションに戻ってくると、玄関を入ってベルを離す。一瞬、興奮したように家の中を走り回ったものの、すぐに疲れたのか、リビングの窓辺で横になる。そんなベルを横目に、新藤は書斎やリビングなど、理沙のそのままになっている荷物を確認していった。写真の多くはすでに事務所に持って行ってある。日記をつけるような習慣はなかったようだし、友達とやりとりをした手紙もほとんどない。
すべてが電子機器で成り立っていた世界で、実体として触れられる思い出を探す方が難しい。クローゼットの中は、あの日の匂いが少しでも逃げてしまう気がして、長く開けていられなかった。
「俺、この家をどうしたらいいんだろうな……。晴人だっていなくて」
部屋の隅に置かれた、晴人の車のおもちゃを見ているとやるせない気持ちが溢れてくる。思わず寝室のベッドに倒れ込んだ新藤は、怒りを吐き出すように右の拳で枕を殴った。と、その音に違和感があった。理沙が亡くなった後、ダブルベッドで初めこそ寝ていたものの、やるせなくなっていつの間にかリビングのソファで眠るようになった。寝ていた時でさえ、自分の枕を使っていたので、理沙の枕に思えば触れたことはなかったかもしれない。
しかも、こんなに強く。飛び起きて、急いでベッドカバーを外してみる。すると、理沙の字で書かれたメモが出てきたのだ。それはこの家の中で、皮肉にも今、一番に理沙の存在を感じられるものだった。
『あの子には、気を付けて』
書いてあるのは、ポスティングされたのであろう広告の裏紙だった。新藤は呆然と見つめながら、呟いた。
「あの子って、誰だよ……」
リビングからは、ベルの欠伸ともとれる声だけが静寂に響いていた。