「知らない振りをしていた? それなら、やっぱり理沙さんは指輪のことを知っていたってことだよね。そうでなければ、普通に渡しちゃっていると思うけど」
「うん。もし、それで何ができるかを分かってはいなくても、父親の失踪を探っていた理沙にとっては、重要なヒントだと確信していたのかもしれない」
久しぶりにベルを連れて散歩に出た二人は、和泉町に向かって歩きながら考えていた。道行く人に必死に愛想を振りまくベルだが、やはり文太のいなくなった事務所は寂しいようで、最近は元気がない。食欲が落ちていないことだけが救いだが、少しでも外に連れ出そうというのが、暗黙の了解になっていた。
「そうね。俊太さんとは、あまり話せなかったの?」
「あぁ、なんか彼女と揉めていたみたいで、時々空気が悪かったよ。俊太が悪いんじゃないかなぁ。彼女が怒っていて、突っかかっている感じだったな」
「すごく美人なんでしょう?」
「あぁ、俺は理沙みたいな可愛いタイプが好きだけど、俊太の彼女はザ・美人って感じだな。最初は近寄りがたくて、俺も仲良くなるまで遠慮していたよ」
「あの人、見た目通りにミーハーなのね」
「あはは、俊太に言っておく」
凜がリードを引くと、ベルは慣れた様子でガードレールの隅で中腰になる。大きい方の用を足して、新藤がかがんで袋にそれを入れる。きゅっと口を縛って、凜の様子を窺ってから言う。
「そういう凜さんも、どうやら素敵な彼氏がいらっしゃるようで」
新藤の言葉に、ベルまで振り返って凜をじっと見上げる。男一人とオス一匹の視線に頬を赤らめた凜が、必死で胸の前で両手を振った。
「違うって! 私は……、そりゃ彼氏だけど。新藤さんが思っているような変な付き合いはしていないし」
「変なって、何だよ。俺は何も言っていないし」
ベルも文句をいうように一度吠えると、また歩き出す。それに従うように二人も進みながら、新藤は続けた。
「いいよな、学生同士の恋愛って。自由に時間を使って、精一杯楽しみなよ。でも、凜の兄みたいな俺としては」
「え、父親じゃなくて?」
凜の突っ込みに、肩で小さく小突くと新藤は真剣に言う。
「マジで、ちゃんとした男か見ておきたいって気持ちはある。バイト先の男だろう?
一度、店に行った時に俺のことを睨んできた奴か?」
凜は、新藤の言葉に記憶を漁る様に首を傾げた後、小さく噴き出した。
「やだ、あれは若いけど店長。うちのカフェは個人経営の小さいカフェだから。学生が短時間で何人も交互にバイトしているんだ。だから融通も利くんだけど。彼氏とはほとんどシフトが一緒になったことはないけど、休憩室で話しているうちに仲良くなったの」
「へぇ……。近くの大学か?」
「あ、ううん。彼は大学生じゃないの。おうちを継ぐために、外で修行しているんだって」
「コック見習いか。そうなると、家はレストランかホテルか……? なんだ凜、玉の輿狙っているのか?」
新藤がそういった時、やっと探偵事務所まで到着した。ベルが待ちきれないというように走り出し、思わず凜もリードを離してしまう。階段を駆けがっているベルを追いかけた二人が見たのは、飛びつくベルの頭を押さえながら撫で、睨み下ろしてくる大吉の姿だった。
事務所でベルに水をやる凜を横目に、ソファに座る大吉の前に新藤も腰を下ろした。
「凜が田舎から出てきて、最初に力になってくれたことは知っている」
話の雪が怪しいことに、新藤はすぐに気づいていた。凜も全く知らなかったようで、ちらちらと気にしているようだ。
「その誠意を示したくて、ここの家賃もタダ同然だ」
「そのことは、本当にありがたいと思っています」
「おじいちゃん、どうしたの? そんな嫌味を言いに来たの?」
二人の甘えた関係は、最近ではベールが取れたようになくなってきているようだ。凜もきちんと言いたいことを言うし、大吉も甘えたり恰好をつけたりすることを諦めたようだ。だからこそ、保護者としての自覚が芽生えて足を運んだのかもしれない。
「凜は黙っていなさい」
ぐっと唇を噛んだ凜を見て、新藤が大吉に向き直る。
「仰りたいことは、はっきり言っていただいて構いません。凜さんが、ここに来ることをよく思っていないということではないですか」
「そんな……っ!」
凜が割って入ろうとするのを手で制す。大吉は値踏みをするように新藤を見つめ、腕を組む。
「分かっているんだったら、答えは簡単だろう。最近、凜の帰りが遅いことも多い。保護者として、たとえ下の事務所にいるとしても、気分のいいものではない」
「ここにいることなんて、ほとんどない。今は学校やバイトも忙しいの!」
「それに、殺人事件に居合わせたり、変な奴に絡まれたりすることもあるそうじゃないか」
「それは偶然でしょう! どうしてそれが、ここを辞めることになるの」
凜の反論には反応することなく、大吉はまっすぐ新藤を見つめて言う。
「よく考えてくれ。この子は、保母になるっていう夢があるんだ。確かに、家系的に妙な力は持っているようだ。だが、そのせいで未来に大きな影響を与えることには反対だ」
新藤は、返せる言葉もなかった。確かに、凜に頼んで事務所で働いてもらっているわけではない。アルバイト料などたかが知れているし、仕事の量から言ってもバイトは必要ないといっても過言ではない。だが、誰かと過ごす空間を失っていた新藤が、再び笑いながら生活できていることは、紛れもなく凜のおかげだった。今すぐ、凜に来なくていいと言えるほど、存在は小さくなかった。
「言いたいのはそれだけだ」
答えは、自分で出せということだ。大吉はそれだけ言うと、ベルの頭を撫でている凜に歩み寄る。そっと腕を掴んだように見えたが、その強さは暴れる凜を離さないことで明らかだ。駄々をこねるように暴れる凜を引っ張っていく。
「新藤さん! また来るからね! 調査進めておいて」
大吉への当てつけのように叫びながら、凜がドアから消えた。残された新藤の足元にベルが近づいてくる。その笑顔の口元には、しっかりとボールをくわえている。
「なんだ、元気づけようとしてくれているのか?」
そっとボールを手に取ると、壁に向かってボールを思い切り投げる。勢いよく壁に当たって跳ね返るそれを見ながら、大吉の言葉にどれほど怒っているのか、自分で痛感するのだった。
凜が事務所に再び姿を見せたのは、それから三日後のことだった。大吉と絶対鉢合わせしないように事務所を出るときは細心の注意を払い、今までタダにしてもらった分の賃料を口座にぶちこんでやろうかと考えては寝る、を繰り返した後
だ。
「また、ここに来てもいいって」
そう言って笑う凜の右目に、大きな青あざができている。一瞬、殴り合いのけんかをしたのかと勘違いした新藤に、凜は大きな声を上げて笑った。
「違うの。確かに、おじいちゃんと大喧嘩はしたの。学校の
単位も問題ないし、お小遣いはアルバイトで稼いでいる。文句をいわれる筋合いはないでしょう?」
危険をおかしている、という事実は、一旦蓋をする。
「それでもダメだっていうから、私、……お母さんに電話をしたの」
凜が母親とそりが合わないことは知っている。それでも、助けを求めてくれるほどに、ここに来たいと思っていることが内心嬉しくなる。凜は、待っていたように飛びついたベルを撫でまわしながら、三階を顎で示した。
「おじいちゃんも、お母さんには弱いの。だから、説得されてついに認めてくれたよ」
「説得か、お母さんすごいな」
「なんだかんだ、力のことを知っているから……。修行っていう意味では、逆にそういうのと触れ合っていないと、いざという時に危険だって」
「なるほど、一理あるな。きっと俺がいっても、聞く耳を持ってくれなかっただろうけど」
「そうなの。今度、お母さんがまた遊びに来るっていうから、お出かけでもしようかと思って。私、胸を張ってここに来ていいんだって思ったら、嬉しくてベッドで跳ねたら足をすべらせちゃって……」
転げ落ちそうになり、ベッドの端に顔をぶつけたらしい。病院に行って問題がなかったというのだから安心だが……。
「彼氏にも愚痴を言ったら、おじいちゃんを説得してくれるっていってたんだけど、これで頼まなくて済んだよ」
「え? カフェの彼氏が? ここに来ることは賛成なんだ」
新藤は、特別面識もない凜の彼氏を想像する。わざわざ、彼女ために乗り込むなどよほど凜のことが好きなのだろう。
「そうそう、彼氏がね。近いうちに新藤さんに会いたいって言っていたよ。私も味方は一人でも多い方がいいから、友達になってもらっちゃおうかなぁ」
凜が冗談を言って笑う。そして、ベルの散歩に行くため、リードを取りに走る。その後ろ姿を見つめながらほっとすると共に、きっと若くてイケメンなのだろう凜の彼氏を想像し、少しだけ胸のむかつきを覚えるのだった。