「早くしておくれよ。こっちは急いでいるんだ。いつもノロマなんだから」
厨房で皿を洗うジェームスに、店の女店主が怒鳴る。証人の行き交う街の料理店で、ジェームスは毎日皿を洗って過ごしている。高級な店でもないくせに、コックは皿が少しでも汚れていると怒り狂う。休みをもらえないのは当然で、給料なんてない。店の食べ物を分けてもらうだけでありがたいと思え、それが女店主の口癖だった。
店は繁盛していて、今日千枚目の皿を洗って重ねておいたところで、息をつく。こんな暮らしがいつまでも続くのかと思うと、気持ちが暗くなる。こんなところで皿を洗って人生を追えるつもりはない。だが、逃げ出すほどの元気も勇気も、今のジェームスにはなかった。一旦店が落ち着いたところで、裏口から休憩に出る。
「あの女みてぇな顔の奴だろ。さっきもすげぇ怒られていたぞ」
笑い合っているのは、コック仲間たちである。外から修行にくる人間がくるほど味には定評のある店で、おかげでコックたちのプライドは高い。幼少の頃から長年皿洗いしかしないジェームスのことは、男たちにとっては笑い種だった。その輪の中に、わざとドアを開けて入っていく。ポケットから煙草を出して、火をつける。一度大きく吸って、男たちの顔に吹き付けるように煙を吐いた。
「……こいっつ……っ!」
一人が殴りかかろうとしてきたが、咄嗟に隣にいた男が制止する。ジェームスが、その間動くことはない。小声で、男が囁くのが聞こえる。
「やめとけ、やられるぞ」
ジェームスは友達もいなかったし、馬鹿にされることも多かったが、手を出されることはなかった。それは、まだここに連れてこられて間もない頃、ジェームスが大人を殴って倒したことがあることに由来する。年端もいかない子供が、大人を倒した。それが噂になるのに時間はかからなかった。それまで、誰かを殴ったことのなかったジェームス自身が一番驚いたのだが、体が勝手に動いたのだから仕方がない。
「あいつの父親は暴力男で母親を殺して、育ての男も人殺しだったんだと」
誰かが、また噂をする。自分が何も調べなくても、噂は勝手に自分のルーツを教えてくれた。父親が殺されたと思ったあの日。殺された男が、父親ではないと知った。そして、その男は、ずっと昔に人を殺して強盗をして、金を奪った罪人だったと聞いた。
強盗に入られ、殺された主人の弟が長年をかけて探し出したのが、あの小屋だったのだ。雇われた男たちは、父親だと思っていた男の出身の村で聞いた事情を、隠すことなくジェームスに伝えたのだ。そして、嘲笑った。暴力的な父親。殺された母親。犯罪ばかり侵す育ての父親。ジェームスは、その後に奴隷のような形でこの店に売られて、もう十年ほどが経った。男たちに聞いた話が真実かどうかなんて、もう興味もない。
「いい瞳をしているな」
煙草を吸い終えたルークが足で吸殻を踏んで火を消していると、暗がりから一人の老人が現れた。黒いマントをかぶり、足が悪いのか杖をついている。ジェームスは無視して厨房に戻ろうとした。育ての父親だった男は、左の肩から先がなかった。それで、小さい頃からいじめられたと言っていた。仕事を探して出た街でも、男にできることなんてなかった。ただ、一本の腕を使って指輪を作ることだけが精いっぱいだったと。
小さい頃は、そんな男を助けたいと色々手伝った。だが、それも男の策略だったのではないかと思うと、体の不自由さを主張するような人間には、最初から嫌悪感が湧いた。これを、人を欺く道具に使っている気がするのだ。
「おぉ、匂うと思ったわい。どれ、その首から下げているものをよく見せてくれ」
ジェームスは、一瞬怯んだ。確かに、あの真鍮の指輪は紐につないで首から下げている。だが、それが服の上から見えるはずがない。
「しっかりと憎しみを吸い込んでおるわい。なるほど。これは浄化しなければならないな。……いや、しかしお主も殺生な人生を送っておる」
気味が悪い。その一言だった。それでも、なぜか男から目を離せなかった。全身を黒い布で覆い、窪んだ眼と、長いひげが見える。みすぼらしい服装だが、浮浪者とは違う清潔さがある。
「面白い。実に、愉快だ」
そう言って笑う男の口元に、年齢とは分不相応な白い歯がのぞいている。若い男が年寄りの振りをしているのか。それとも、男の歯が偽物なのか。そんなことを考えていると、男が不意に杖の先でジェームスを指した。
「お前は、望んで生まれたわけではない。無理やり、母の腹から繰り出されたのだ」
男の言葉に、頭にカッと血が上った。殴りかかりそうになって、体が止まる。男に近づこうと足を踏み出しているのに、動けない。男が満足そうに口をゆがめて笑う。
「否定しようとするということは、まだ誰かに愛されたいのか」
「違う! 貴様、何者だ。俺に親なんていない。あいつは、大ウソつきだ!」
朧げな記憶の中、小さな小屋のベッドの上で、父親に話をせがんでいる小さな自分がいる。それが偽りだとも知らずに、楽しそうに、そして嬉しそうに笑う。なんて情けないことだ。
「お前みたいなジジイに何が分かる。今すぐ俺の前から消えろ。そして、二度と来るんじゃねぇ」
体がいうことを聞かない以上、言葉で対抗するしかない。ありったけの嫌味を込めて放ったそれらも、男にとっては何の意味もないようだ。笑って、杖を振る。すると、ふいに体が自由になったかと思うと、強風が吹いたように地面に倒れ転がった。
「馬鹿者。今から、わしはお前に面白いものを見せてやろうとしているのに、いらんのか」
マントの下の眼光が鋭く光る。どうやったのだろうか。簡単に地面に転がされたことが悔しくて、睨み上げる。そんなジェームスの態度が気に入らなかったのだろう。ふっと鼻で笑うと、男は杖を地面に下ろした。そして、コツコツと音を立てて、その場をゆっくり離れようとする。
「待てよ……っ! 面白いことって、なんだよ!」
これが、ジェームスの運命の分かれ道となったことは間違いないだろう。男はにやりと笑った後、真面目な瞳に戻してから、ゆっくりと振り返った。そして、一言告げる。
「その指輪に、魔法を与えてやろう」
厨房に戻ったジェームスを襲ったのは、圧倒的な量の汚れた皿と、コックたちの意地悪だった。足を引っかけられそうになるのは序の口で、洗剤の中身は油に替えられ、スポンジはすべて隠されていた。本当に、低レベルである。
―その指輪は、お前が望んだことを叶えてくれるだろう。お
前の側にあれば、それは言うことを聞く。お前の言うことを。だが、やってはいけないことがある。それは、人を生き返らせることと、時を超えてはいけないのだ。それを破った時、禍が訪れる。
―禍って、なんだよ。
―それは、……お前自身で考えるんだな。さて、お前は守れるのかな。
それだけ言うと、一度だけ杖をジェームスの胸元に向けた後、男はにやりと笑った。少しだけ胸元が温かくなった気がして下を向く。服の下にあるはずの指輪を手で探り、男に話しかけようと顔を上げた時には、もう誰もいなくなっていた。
「ほらほら、どんどん洗わないと怒られちゃいますよー」
先ほど、ジェームスが煙草の煙を吐きかけた奴だ。すでに洗ってある皿を、汚れた桶の中に静めている。そいつを睨み、ジェームスは睨んだ。
「死ね」
その一言で良かった。ジェームスが放った瞬間、男は料理をしようと大鍋に近づいた。すると床にこぼれていた水で足を滑らせてつんのめる。油が煮えたぎる二百度はあろう鍋に、男が顔を突っ込んだ。周囲で驚きと慌てる声が上がる。そして、男は態勢を戻そうとして鍋を掴み、再び熱さで絶叫する。何事かと、女主人が店から厨房を覗き込んで悲鳴を上げた。今や、大鍋が転がり、床でのたうち回る男の上に油が流れるように落ちていた。阿鼻叫喚の騒ぎの中、ジェームスはそっと裏口から外へ飛び出し、大きく深呼吸した。これは、偶然だろうか。それとも、この指輪のせいなのだろうか。この指輪があれば、何でも願いが叶うというのか。
人を殺してしまったのかもしれない動揺は、すぐに無敵になったかもしれないという解放感で満たされる。誰かの運命も、自分が握っているのだと思うと、まるで神にでもなったような気がした。
「こんなところにいる必要ないだろう」
ジェームスは、自分の持っている荷物さえ取りに行くこともなく店を後にした。そして、すぐに街を離れることにしたのだった。
それからの生活は容易いものだった。お腹が減れば、指輪に豪華な食事が届く様に言う。すると、すれ違い様の人が食事に誘ってくれることもあったし、店の店主が招き入れてくれた。寝床も衣服も、同じ調子ですべてが整っていた。
だが、ジェームスには難しいことがあった。友達を作ることだ。小さい頃は育ての男と二人で生活をし、売られた店では馬鹿にされて最下層だった。誰かと冗談を言うことも、笑い合うこともない。そうなると、食事を奢ってくれた人にも、どんな態度をとるべきか分からなかった。初めは、無言でただ食べた。すると、次からは何ももらえなかった。次に、「まぁまぁだ」と伝えてみた。これは、皿洗いをしたジェームスにいう女主人の最大の誉め言葉だった。だが、店主は眉間に皺を寄せただけで、二回目はなかった。だから、ジェームスはいつも相手を替えて、指輪に頼む羽目になった。それでも困らなかった。でも、どこかで違和感があった。願いを叶えれば叶えるほど、胸の奥が苦しくなった。道行く人々が、自分をまるでいないかのように振る舞うのが耐え難かった。ここにいる、俺が無敵なんだ。そう叫びたい気持ちを押さえて眠った夜のことだった。
旅館の一室で眠りについたジェームスだったが、隣の部屋から聞こえる家族の笑い声に苛立ちを募らせていた。ふざける子供の声。そして、温かく笑う両親の声。それが数回繰り返された後、ジェームスは布団から這い出て隣の部屋に向かった。すっと扉を引き、家族の顔を確認する間もなく、指輪をはめた右手を突き出して言った。
「全員、死ね」
雷に打たれたような顔で振り返った三人だったが、すぐに床に倒れて動かなくなる。それを見届けてから、ジェームスは満足して自分の部屋に戻った。しかし、いつまで経っても眠ることなどできず、終いには気づくと頬を大粒の涙が濡らしている。
「……ルークと……、リズが過ごした日に行きたい」
父親の、とは言えなかった。あいつは、父親ではない。ジェームスに語った昔話は嘘に決まっている。それを、確かめたかった。でも、せめて母親に愛されていたのだと、誰かに言って欲しい。その時、ジェームスの脳裏にマントの男の声が蘇った。
―人を生き返らせることと、時を超えてはいけないのだ。それを破った時、禍が訪れる。
咄嗟に、指輪に向かって叫ぶ。禍が何かは分からなかったが、恐ろしいものだと知っている。
「嘘だ! 見たくない。会いたくなんてない! 行きたくない!」
だが、気づいた時、ジェームスが立っていたのは旅館のベッドの上ではなかった。赤い夕陽が沈みかける麦畑に、二人の男女が座っている。幸せそうに、楽しそうに話している。そして、男の右腕は肩から先がなかった。
「……本当だったんだ……あいつは、嘘をついていない」
ジェームスの頬を、再び静かに涙が流れた。