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66 憎しみの代償

 冷たい森の綺麗な空気を胸いっぱい吸い込んで、小屋を出る。物心がついた時には、すでにこの小屋で暮らしていた。ほとんど人に会うことはないけれど、優しい父親と毎日ゆっくり流れていく時間は、男の子にとって心地よいものだった。


「ジェームス、あんまり遠くに行ってはいけないよ」


 家の窓を開けて、父親が声を掛ける。一日分の食べ物がとれれば十分。いつもそういう父親は優しくて、贅沢をしない。


「分かっているよ。すべてを神様に感謝するんでしょ」


 昨年、六歳になったことで初めて一人で行かせてもらえるようになった。それまでは、父親と一緒に森に行っていた。だが、数か月前に父親は具合が悪くなって寝込むようになった。夜は、痰が絡まった変な咳を繰り返す。しかし、父親は頑として病院に行くことも医者を呼ぶこともしなかった。思えば、自分が小さい頃からそうだった。看病してくれるのは父親で、体を温めて治るのを待つ。


 一度、苦しくて何度も吐いた時があった。熱が出て、ジェームスがぐったりとしているのを見かねて、父親は森を出て医者のところへ運んでくれた。でも、その後はかなり機嫌が悪かったのを覚えている。だからこそ、ジェームスは父親に『医者』という言葉を言っていない。絶対に、自分が父親においしいものを食べさせて治すのだと決めている。そうすれば、夜にあの咳を聞きながら、父親が死んでしまう恐怖に震えることもなくなるだろう。


 木の実をたくさん。それと、罠にかかっていた小鳥を一羽。一日分の食料としては十分だった。川で水を汲んで小屋に戻ったジェームスは、ベッドで横になる父親の足元にジャンプして座った。


「お父さん、見て! 木の実も鳥も取ってこられたよ。さっき、川の近くでウサギもいたんだ。お友達になってくれたら嬉しいんだけど」


「ありがとう。ただでさえ、ジェームスに手伝ってもらっているのに、悪いね。君は本当にいい子だ。お母さんも、とても優しい人だったんだよ」


「お母さんのこと? お父さん、いつものお話をして」


 ジェームスは、ベッドから飛び降りると、小さな木の椅子を父親の枕もとに運び、腰かける。母親のことを話す彼が、本当に嬉しそうに笑うのが好きだった。


「そうだね。それじゃあ、机からいつもの指輪を持っておいで」


 机に駆けて、そっと引き出しに手を伸ばして開ける。そこには、真鍮の指輪がひとつ保管されていた。摘まみ上げて、まだ幼くて細い自分の親指にはめ、父親の元へ戻る。ジェームスの指にはまったそれを見て、父親は力なく微笑んだ。


「お母さんとは、同じ村で生まれたんだ。お父さんは、こんな体だろう? 友達がなかなかできなくてね。でも、お母さんは僕に話しかけてくれた。後で分かったんだけど、僕たちは両思いだったんだ」


「両想い?」


「お互いに好きだったってことだよ」


 ジェームスはくすぐったくなって肩を竦めた。何度もこの話を聞いている。でも、いつもこうやって父親は同じように返してくれる。そして、それが心地よかった。


「どうして、お母さんは死んじゃったの?」


「僕たちは、村を出ようと話していたんだ。なぜなら、そこはとても生きにくい場所だったからね。僕は、リズのためならどんなことだってするんだ。でも、生きる場所には、必ず悪いやつがいることを忘れてはいけないよ」


「分かっている。お父さんは、この指輪をお母さんのために作ったんだよね」


「そうだよ。でも、悪い奴に邪魔をされて、お母さんに渡せなかったんだ」


「お父さんは、悪い奴をやっつけたんでしょう?」


 父親は、ジェームスに答える前に何度か小さくせき込んだ。今は身体が弱っている父親だが、母親を守るために戦った。そして、勝ったのだ。だからこそ、自分がここで父親と暮らすことができている。咳のやまない父親の背中を撫でようと、ジェームスが椅子から立ち上がりかけた時、小屋の扉を大きく叩く音が聞こえた。


 どん、どん。それは、決して誰かが訪ねて来た音ではない。そもそも、この小屋に誰かが遊びに来たことなどないのだ。ジェームスは父親以外の大人と話したことがない。数少ない本や父親から得た知識はあるものの、外の世界に興味がありつつも、怖いのも事実だった。


「いるのは分かっているんだ。出てこい」


 野太い男の声で、ジェームスの顔が強張った。いつも優しい父親の呼びかけしか知らないジェームスにとって、それは未知のものでしかない。助けを請うように見上げた父親は、ジェームスの腕を引き、ベッドの上に呼び寄せる。震える足で上ると、父親は布団の中にジェームスを押しやった。その瞬間だった。


 ドアがけ破られ、複数の人間が部屋に入り込む足音。ジェームスを守る様に父親が上に乗り、布団をかぶる。布団の中で父親の顔を見上げると、ぎゅっと目をつぶって苦しそうな表情をしていた。当たり前だ。父親は右腕一本で自分の体を支えているのだから。どうにか支えになりたいけれど、今のジェームスにできることはない。助けを求めるように、真鍮の指輪を握りしめた。


「やっと見つけたぞ。こんなところに隠れていやがったのか。ルーク」


 確かに、父親の名前である。困惑しながらも、答えを求めるように父親を見るが、彼は一向に目を開けようとはしない。その時だった。小さなベッドに衝撃が走り、真上にいる父親がうめき声をもらした。最初は、何が起きたのか分からなかった。だが、野太い声の男たちが笑い合い、その度にベッドが揺れる。それが数回過ぎた後、我慢できないというように父親がルークの体に倒れ込んできた。ぬるい液体が頬に触れて、手で触るとそれが血だと分かった。


「お父さん!」


 驚いて声を上げるのと、布団がはがされるのが同時だった。男たちの手によって、父親はごろりと脇にどけられる。視界に入った男たちは、恰幅が良くて髭面の男たちだった。三人の目が、ベッドの上でなすすべもなく仰向けで転がるジェームスに注がれる。


「父親を殺して、子供を奪ったっていうのは本当だったんだな」


「やめろ。きっと、こいつは何も知らないんだ。俺たちは雇われているだけ。連れていくぞ」


「えー、でもあの山道でこんな荷物抱えているの、俺嫌だぜー」


「うるせぇ、ガタガタいうな。早く担げ。腹でも殴れば、数時間は寝ているだろう」


「そんな簡単に言って……」


「金が入らなければ、お前の持ち分だってないんだからな。このガキがどんな思いをするかなんて俺たちにはどうでもいいんだよ。行くぞ」


 今や、ジェームスの震えは全身が大きく揺れるものになっていた。父親の血液がじっとりと自分の背中を濡らしていくのを感じる。それでも、男たちの間を縫って逃げられるとは到底思えない。


「……お父さん」


 目線の先にいる父親は、とうに息絶えているのは明らかだった。父親に手を伸ばしたジェームスの腹に鈍い痛みが走る。喉元に嘔吐感がこみ上げるのと同時に、次第に意識が亡くなっていく。最後にジェームスが見たのは、血にまみれた真鍮の指輪だった。これだけは絶対に失ってはなるものかと、ジェームスは薄れゆく意識の中で、指輪をポケットに押し込むのだった。


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