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65 憎しみの代償

 真正面から訪ねても、会ってくれるわけがない。かといって、どんなに変装をしても、この村で自分が目立ってしまうことはルークも分かっていた。知り合いが話しかけるだけで暴力を振るわれる実態だ。そんな中で会える機会は限られている。頼れる友達もいない。実家もあてにならない。かといって、待っていたらいつまでも会えないだろう。


 どうすればいいのか画策するうちに、ルークは一つの打開策を思いついた。丘の向こうにある教会を目指す。数年経っても、それは何も変わらずに建っている。教会の前ではヤギが草をのんびりと食べているし、中からは小さくオルガンの音が聞こえた。神父の妻だろう。いつも同じところで間違えるのも、変わっていない。少しだけ懐かしいという感情を味わったところで、教会の裏手に回る。


 そこには小さな扉がある。開けて入ると、そこは人が一人入れるだけのスペースでスツールが置かれている。腰かけて、目の前の木の小窓を軽くノックをすると、それがするりと横に動いた。カーテンで遮られて向こうは見えない。


「悩みがあります」


 いわゆる懺悔部屋である。カーテンの向こうにいるだろう神父が、息を飲む気配がした。宿での一件が知れ渡っているのか。それとも、初めてルークが戻ってきたことを知ったのか。とにかく、小さな村での懺悔部屋なんて、カーテンは形式上である。声や話し方で、相手がだれかなんて筒抜けだ。それを承知で演じるからこそ、この関係が成り立っている。


「あなたは、どうしたいと思っていますか」


 友達のいないルークにとって、リズと仲良くなるまでは神父が唯一の支えだった。どんなにルークが苦しんでも、怒っても、心を無くしそうになっても、側にいてくれた。そして、悩みを打ち明けようとする時には、いつもこうして最初に聞くのだ。心が、ほどけていく。うっかりと今までの罪も告白しそうになってしまう。


「リズを……、この村から連れ出したいんです。僕たちはあの時、約束しました。一緒に生きていくのを。でも、ここにいる限りは無理だった。どうなるか分からない世界にも、連れていくことはできなかった。あの時の選択が間違いだったのではと……」


「選択を間違えることは、誰でもあります。ただ、修正もできます。もし、あなたが今真実だと思う道があるなら、そこを進むべきではないですか」


「僕には、たくさんの欠点があります。人よりもうまくできないことが多いです。でも、幸せになってもいいんでしょうか」


「……本当に幸せかは、自分で決めていいんです。私は、あなたを応援していますよ」


 これで、気持ちは固まった。


「神父様、お願いがあります。リズは、家に閉じ込められていて話ができる状態にありません。彼女も僕と同じように、教会でお祈りをして、ここで話を聞いてもらっているのは知っています。彼女と、会わせてもらえませんか」


 リズは心神深かった。小さい頃からここに通っている姿を見ていたが、声を掛けられなかった。時には、彼女の真似をして男子たちが通うこともあったほどだ。仲良くなってから、彼女も両親や弟の関係に悩んでいて神父に話を聞いてもらっていると話してくれた。きっと、今も同じことをしているはずだ。それに、今日が懺悔部屋の開かれた曜日だというのも幸いしている。


「……神は、自らを支えてくれるものであり、裏切りを強制するものではない」


 神父も、ラモウの仕返しを恐れているということだろう。誰かに、ここがリズの消えた原因だと知られれば、恐らく神なんて信じていないだろう男は暴力に訴えるはずだ。だが、神父も二人を応援してくれていたはずだ。あと一押しで、気持ちが変わるはずだ。


「神父様には、決してご迷惑をおかけしません。そして、結果がどうであっても、僕がこの村に戻ることはないでしょう。僕の幸せの一歩を、お手伝いしていただけませんか。ほんの少しの時間でいいのです」


 数分間、神父は考えるように黙った。もうそこにいなくなってしまったのかと、ルークが心配になった時、神父が沈黙を破った。


 コンコン。軽く木戸が叩かれたので、そっと引く。カーテン越しに、彼女の匂いがする。


「……神父様。今日も聞いていただいてよろしいでしょうか」


 リズだ。リズの声だ。今すぐにカーテンを開けたい衝動に駆られたが、ルークはぐっと堪えた。神父を真似するつもりはないが、声を低くして答える。


「話してください」


 リズは、相手の違いに気づかなかったようで、すぐに悩みを打ち明け始めた。


「夫は、昨晩も荒れていました。私が、村の外れにある友達の家に行こうとしたからです。こんなに縛られる生活を、私は死ぬまでしなければならないのでしょうか。私の父が事業に失敗してお金に困らなければ、こんなことにならなかったでしょう。父を恨まずにはいられないのです。何も知らない弟のことさえ、最近では怒りの原因になります」


 こんなにも容易く、リズの現状の悩みを知ることができるなんて、想像もしていなかった。そしてなにより、リズが望んで結婚したのではないと知って、喜びに打ちひしがれていた。興奮して獣のように叫びたい気持ちを押さえて、返事をする。


「神はあなたを見ている。他に抱えている胸のつかえはありませんか」


「……先日、かつて仲良くしていた人に再会しました。村に戻ってきていたようですが、私に話しかけたことで、夫の仲間に暴力を振るわれたと聞きました。本当に謝りたく思うのですが、今ではそれも叶いません。こんな弱い私を、誰が許してくれるでしょう」


 最後は涙声である。それが、ルークの気持ちに火をつけた。カーテンを捲って、台の上に乗せていた彼女の手を握り締める。咄嗟のことで一瞬身を引いたリズだったが、目の前にいるのがルークだと分かり、弱々しい声を漏らした。


「ルーク……、私、待っていなくてごめんな……さい」


 どんどん小さくなっていく声に併せて、彼女が目を伏せる。小さな雫が一つ落ちるのを見て、我慢できなかった。


「いいんだ。大丈夫だよ、リズ。時間がかかってごめん。でも、迎えに来たんだ」


「ごめんなさい、あの人がしたこと……。怒っているでしょう? 私のことを嫌いに」


「ならないさ! 怪我は少し良くなったんだ。一刻も早くここから逃げよう。僕が、迎えに行く」


「本当? 嘘じゃないのね」


「嘘はつかないって、前に言っただろう。嘘は、必要な時につくんだ」


「神父様は? 今までの御礼を言わないと、私」


「リズ、神父はこの役を僕に渡してくれたことで、向こうの部屋で祈りを捧げている。伝えておくから。ねぇ、夜にこの村を出よう」


 手の甲を覆っていたルークの手を、彼女も重ねるようにして握りしめてくる。答えは、イエスだ。昔の気持ちが蘇り、体がかっと熱くなる。やはり、逃げなくてよかったのだ。リュックの中の金があれば、違う村に行ってもしばらくは子供を育てる余裕があるだろう。


 ルークは、すぐにでも村を出たかった。だが、彼女一人を残して別々に行く気はない。そうなると、昼間は目立ちすぎる。待ち合わせ場所を告げると、リズは大きく頷いた。そして、怪しまれないようにと一度家に帰るのを見送るしかなかった。





 二人が待ち合わせたのは、もちろん麦畑の丘だった。丘を下れば、すぐに隣の村への山道に入る。身重の彼女には過酷かと思えたが、ロバを借りることも、誰かの馬に乗ってもらうこともできない。丘で待っているルークの元に、時間になってもリズは現れなかった。以前のルークなら、振られたのかと思ってもおかしくない。だが、昼間のリズは本当に喜んでいたと確信がある。


「何かが、あったのかもしれない」


 不安な気持ちを押し殺し、重荷になるリュックを木陰に隠してルークは丘を下りた。事態が悪化していることには、すぐに気づいた。そして、それが同時に起きていることも。

一つは、リズの逃亡がどうやらラモウにばれたということだ。家の近くまで来ると、彼女の腕をラモウが掴み、その脇を何人もの男たちで囲んでいる。あれでは、逃げられないだろう。漏れ聞こえる声が、その怒りを表していた。


「どこに行ったって、追いかけてやるんだ。お前は、借金として俺に買われたんだよ。逃げるなんて百年はえぇ。それに、そんなでかい腹抱えてどこまでいけるっていうんだ。行けるもんなら、俺を倒してから行け……よっと!」


 その次に聞こえたのは、リズの悲鳴だ。出て行って助けられるわけがない。そっと木の陰から様子を窺うと、地面に転がっているリズの姿があった。背中を丸めて、腹を守っている。そこに一発、ラモウが蹴りを入れる。くぐもった声が辺りに響いたが、どの家からも誰も出てこない。だが、事態を動かしたのは数人の男たちが駆けて来た時だった。


 それは、いくつかの村をとりまとめる警備をする集団で、腰には銃をぶら下げている。誰かが呼んでくれたのかと思ったが、違うようだ。先頭で走ってきた男が、息を荒くすることもなくラモウに告げる。


「本日、教会で神父が殺害された。重要参考人として、お前を逮捕する」


 数人の男たちの間で、怒号のような叫びが上がる。自分たちは無関係だと主張する者、ラモウが連れていくことに抗おうとする者。本人でさえ、何のことか分からずに混乱しているようだ。地面に転がって腹を抱えるリズが、首を起こす。そこでやっと、木陰から顔を出すルークと目があった。ルークは、責めるように見つめてくるリズから視線を逸らし、ポケットの中の指輪を強く握り締める。


―神父は向こうの部屋で祈りを捧げている


「仕方がなかったんだ。……神父が、リズに会わせようとしないから」


 木戸に身を乗り出して、一瞬で神父の首元にナイフを突きつけた。急いで懺悔室の奥に回り、足元に転がる神父の死体を眺めながら、リズが来るのを待った。ここまでは良かったのだ。もう少し早く村を出ていれば、何も関係なく終えられただろう。だが、きっとリズは気づいたはずだ。あの瞬間、足元に神父がいたことを。目の前の男についていくのが、決して正しいことではないことを……。


 暴れるラモウが連行されていなくなるのと同時に、あちこちの家の住人が飛び出してきて、リズの元に駆け寄った。暗闇で分かる程、地面にはリズの下半身から血が流れ出ているのが見えた。


「早く! 先生を呼んできて。このままでは、この子も危ないよ!」


 女たちが叫んでは、リズを家の中に運んでいく。家の灯りが付くのと同時に、その声は聞こえなくなったのだった。



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