赤い夕陽に茂る麦畑。何年経っても、この景色に変化はない。そんな小さなことに嬉しさと同時に、呆れてもしまう。村を出て、懸命に働いて大人になって戻ってきた自分を、誰が褒めてくれるだろう。三年前、母が体を壊したと、妹から手紙が来ても帰省しなかった。きっと、今の自分を知ったら、家族も受け入れてくれないだろう。
「お前……、ルークか?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには面影に見覚えのある少年が立っていた。片手に本を持ち、もう一方では花束を抱えている。その恰好から想像するに、今日は村の学校の卒業式だ。リズの後ろに隠れてただ睨んでいただけの子供が、こんなに大きく成長したのだと時の流れを感じる。だが、やり合うつもりはない。これ以上絡まれないように、ルークは腰を上げて、尻の汚れを手で叩いた。その場から去ろうとしたルークの背後に向けて、リズの弟が言い放つ。
「お前、馬鹿だな。知らないだろ。ねぇちゃんは、もう結婚しているんだぞ」
体中に走る衝撃を押さえられず、思わず振り返ってしまう。すごい形相だったのだろう。弟は、満足そうに唇をゆがめて笑った。
「やっぱり、昔も今も変わらないよなぁ。お前が学校でなんて呼ばれていたか、知っているんだぞ。底なし沼のルークだろう。沼に沈んだのは金だけじゃなくて、脳みそと左の……」
それ以上、聞く気持ちにもなれずルークは立ち上がった。
「お前が持っているのは、その顔だけだからなー。姉ちゃんは、顔だけしか見てなかったんだ! お前の老けた顔を見れば、がっかりするだろうなー」
背後から追いかけてくる弟の言葉に、決して振り返るなと自分に言い聞かせる。家族とうまくいっていない以上、この村で生きていくことは考えられない。それでも、リズと約束を果たすために彼女を迎えに来た。それなのに、違う男と結婚しているなど信じられるはずがない。村は小さい。どこに住んでいるかなど、数時間もしないうちに分かってしまう。確かめたいような、それが怖いような。背負った荷物がずり落ちない様に気を付けながら、周囲の目から隠れるように回る。
「リズ……。リズ」
彼女と一緒に暮らすことだけを夢見て、辛いことにも耐えた。やるべきことをやった。それなのに、約束を守ろうとしていたのが自分だけだと知って、次第に悲しみだけでなく湧き上がる怒りさえあった。それでも、彼女の口から真実を聞くまでは、諦めることなんてできそうにない。肩を揺らして歩いていると、周囲ではっと息を飲む声がした。すでに村の中心まで来ていたようだ。ひそひそと、声を低くして話した後、じっとこちらを見ている老婦人たち。かつて、村でいじめられていたひ弱な男が戻ってきたと、噂になるのもすぐだろう。その老婦人たちの脇で、果物を物色していた女に目が留まる。
「……ルーク?」
視線の先に誰がいるかなんて、確かめる必要もなかった。少し鼻が詰まったようなくぐもった声。女子たちによくいる小鳥のさえずりのような高音ではなく、落ち着いた深みのある声。リズの声はたとえ離れた場所での呟きでさえ、自分の脳内を震わせるのだろうと感じる。それが体の芯までゆっくりと染み込むのを待ってから、ルークは顔を上げた。
「リズ」
目の前にいるのは、数年前と変わらず可愛らしいリズだった。腰まで伸びた栗色の柔らかい髪。ブルーの大きな瞳。少し体がふっくらしているように見えて、彼女の腹に目が留まる。彼女も、ルークの意図が分かったのだろう。恥じるように視線を落として、背を向けた。着ているワンピースのせいかと思ったが、やはりそうではないらしい。彼女の腹は、大きく膨らんでいるのだ。
「リズっ! ねぇ、僕だよ。話をしたいんだ、約束したじゃないか。僕たちは」
「いや……っ! 離してください」
掴んだ手を振りほどかれて態勢を崩し、ルークは地面に尻もちをついた。背負っていた鞄が地面に落ちて、中から金貨がこぼれ出る。見ていた周囲の人間が声を上げるが、誰も近づいてはこなかった。そして、リズは逃げるようにその場を離れ、民家の方へ走っていく。追いかけようとして、一度地面に落ちた金貨に手を伸ばす。慌ててリュックに詰めて顔を上げた時には、すでにリズの姿も、物珍しそうに眺めていた村人たちの姿も消えていたのだった。
だが、ルークには誤算があった。帰ってきた村は、確かにルークの出身地ではあるが、今を生きていないということだ。つまり、現在の村の事情に何一つ詳しくないということである。村で一番恐れられている人間も、流行りの女の子の顔も何一つ。
リズに振り払われた腕をじっと見つめながら、宿の一室でベッドに横になっていたルークの部屋の前で、大きな音がしたのは真夜中を過ぎた頃だった。ドアに固いものを打ち付ける音で異常が分かったが、最初は誰かが助けに来てくれるだろうと高をくくっていた。しかし、部屋に侵入してきた男たちは、ランプの灯りで微かに見えるのは、帽子を深くかぶって顔を隠していることと、身長が大きくやたらガタイが大きいということだけだ。服を整える暇もなく、男たちはベッドの近くまで来ると、持っていた太い幹をベッドに打ち付ける。
一発目はなんとか体を翻したものの、次の攻撃が太股をしっかりと捉えた。燃えるような痛みが走り、悲鳴に近い声を漏らす。だが、誰も助けになどくる様子はない。体中に何度も同じような痛みが走った後、もう動く気配さえないルークを残して、男たちは去っていった。数分して、ひっそりと部屋に入ってきたのは、宿主のようだ。誰かが近づく気配だけで身を縮めたルークの体にそっと置きながら、老人が言う。
「悪いな。この村で、今は誰もラモウには逆らえないんだ。欲しいものがあれば、言ってくれ。他の体は痛まないのか。後で、お湯で体を拭いてやろう」
老人の言葉に、何も反応できないまま、悔しさからかルークはそのまま涙を流した。今になって恐怖が蘇り、気づいた時には下半身がぐっしょりと濡れて、鼻をつく臭いがした。
けがは思ったよりもひどく、三日はベッドから起きられなかった。四日目にやっと食事をとるため一階に下りたものの、殴られた頬のせいか何を噛んでも食べ物の味がしない。宿主は懸命に世話をしてくれて、おかげで村の情報が少し理解できたところだ。
「ルーク、悪いことは言わない。足が良くなったら、早く村を出るんだ」
「おじさん、分かっているよ。僕だって、寝る前に襲われるかもと覚悟して毎晩目をつぶっていたら、いい加減寿命が縮まりそうだ」
「いいか、ラモウはリズに話しかける男さえも許さないんだ。おかげで、リズは村で浮いているよ。でも、間違っても助けようなんてしちゃだめさ。それで命を落とした女だっているくらいだ。容赦はない。金を盗まれなかっただけいいと思うんだ」
スープが舌にしみて、眉間に皺を寄せる。熱いものを流し込むと、体が温まると同時に勇気が湧く。村は出る、そう決めた。まだ村で生活をしている妹を傷つけられるのが、一番怖い。自分のように、妹が決してならないようにしなければならない。
食事を終えて立ち上がるルークに、手を貸そうとする宿主にやんわりと手で断る。この宿にいても迷惑をかける。部屋に戻って荷物を取ると、それを背負った。まだ、背中が痛む。金を払い、すぐに村を出ると伝えると宿主は今まで見せなかったが、安堵の表情を浮かべた。宿の扉を開けると、一歩踏み出しながらルークは呟いた。
「でも、リズにこれを渡してからさ」
ルークの握りしめた拳の中には、一つの真鍮の指輪があった。