麦畑に腰を下ろし、沈みかけた夕陽を眺める。足元に感じる風は冷たくなってきていて、微かに喉の痛みを感じる。雄大な夕陽を見ていると、この地の果ては一体どこなのだろうと考えずにはいられない。
いつか、その場所に行けるのだろうか。その時、幸せな大人になれているのだろうか。鞄から出したリンゴに歯を立てると、空腹が少ししのげる気がした。本当であれば、家で腹を空かしている妹にあげるべきだろう。だが、両親にはどこで手に入れたのかとしつこく聞かれることが面倒だった。貧乏なくせに善人でいようとする両親を、ルークは尊敬しながらも、少し見下していた。
「……あれ、あなた」
声のした方を振り向くと、そこには小柄な少女が立っていた。この辺りでは珍しくスカートを履いている。決して派手ではないものの、彼女をまとう空気は澄んでいるようだった。手に籠を持っているところを見ると、おつかいにでも出ていたのだろう。
リズだ。心の中では、彼女の名前をすぐに呼んだ。学校で、彼女の周りにはいつも人が大勢いる。一方、自分に誰かが話しかけてくれることなどない。
「ねぇ、あなた学校の。ルークね? 何をしているの? 私、ここで」
彼女が近づいてきたことに一瞬戸惑って立ち上がった。すると、彼女は口をつぐんで、目線を落とした。
「それって……」
ルークは、恥ずかしさから慌てて立ち上がり、腰元を押さえる。この麦畑にいたのも、夕飯のおかずの足しに野ネズミを捕まえに来ていたのだ。捕まえた数匹のうち、一匹の尻尾が腰元にぶらさげた袋から、ちょろりとはみ出している。まさかその事実を説明する気にもなれず、ルークは麦畑の丘を駆けだした。背後から、リズが呼びかけることに振り向くことなく。
その日の夕飯は、ほとんど物が喉を通らないほど落ち込んでしまった。学校で、ルークに話しかける友達がいないのも、色んな事情があるが、一番は他の家庭より貧乏だからだ。両親はそれを恥じても隠してもいない。だからこそ、周囲の家も知っている。身寄りのない両親が、この家に流れ着いてルークと妹を生んだのは何年も前のこと。小さな畑を手に入れたけれど、ノウハウも少なく、誰も教えてくれず、採れる作物はほんの僅かである。両親は慈悲深く、ルークは家族が好きだった。だが、家から一歩出れば守ってくれる人などいない。日々、周りからの悪口や声を潜めて笑う女の子たちを見ない、聞こえない振りをしてばかりだった。
数日後、再び小麦畑に腰を下ろして夕陽を眺めているルークの耳に、短い悲鳴が聞こえた。思わず振り返ると、リズが丘を降りようとして足を滑らせたところだった。そのまま尻もちをつく形で転び、スカートが翻る。駆け寄ったルークも驚いて足を止めて、両手で顔を覆った。沈黙から数秒、そっと指の隙間から見ると、リズが顔を真っ赤にして聞いた。
「……見えた?」
もちろん、スカートの中身は丸見えだった。だが同級生の、しかも学校でも一、二を争う人気者の少女の下着を見たなんて言えるわけがない。必死で首を横に振ると、リズはほっとしたように大きく息をついた。
「あー、危なかった! 結婚する前にパンツを見られたら、悪魔に心臓をもぎ取られるってお母さまに言われているの」
ルークは、真顔でそう言うリズに、内心驚いて返答に困っ
た。どうやら、冗談ではなく本気で言っているようだ。
「ねぇ、この間は驚かせてごめんなさい。私、あんなに長い尻尾を見るのが初めてで。あれは、何? お友達なのかしら?」
まさか、夕飯のおかずだとは言えない。なんて返そうか迷っていると、再びリズが言う。
「私、麦畑にロールマンがいるって聞いて、探しに来ているのよ」
ロールマン、それが何を指すのかを、ルークは聞けなかった。流行りの遊びも話題も知らない。同じ学校であれば、ルークに友達がいないことなどリズは分かっているだろう。それでも、ほんの少しのプライドが邪魔をする。みんなと同じだ、という振りをしたくなる。
「本当? 僕もなんだ。一緒に探そうよ!」
ルークが答えると、リズは振り返ってじっと見つめて来た。じっとりと手のひらに汗が浮かびかけた時、彼女がにっこりと笑って頷く。「うれしい!」そう添えて。
それからは、放課後に麦畑で待ち合わせするようになった。初めの頃こそ、訳が分からないままロールマンを探し回ったけれど、いつしかお互いにおやつを持って集まるようになった。といっても、ルークの家におやつなんてものはない。小麦を潰して焼いた固いものか、茎の音を細かく刻んで漬けたものくらいである。恥ずかしくてそんなものを持っていくわけにはいかない。森の奥に入って木の実を集めたり、隣家の軒先にある食べ物を失敬したりすることがあったけれど、それはリズとこうなる前からやっていたことだ。罪悪感がないというのは嘘になるが、隣で嬉しそうにリンゴをかじるリズの顔を見ると、そんなことはどうでもよくなるのだった。
「リズ、話があるんだ」
数年経っても、二人が待ち合わせをするのは麦畑だった。もうロールマンを探すことはなくなっていたし、おやつを持ち合うこともない。それでも、一緒にいれば話は尽きなかったし、黙っていても居心地は良くなっていた。だからこそ、お互いの空気には敏感だ。リズは、数分後に自分を襲う悲しみを知っていて、肩を震わせた。それをそっと抱き寄せて、ルークははっきりと告げる。
「俺、村を出る。ここにいたら、まともな金は稼げない。絶対に大物になって、大金をもって帰ってくるから。その時は結婚しよう。待っていてくれる?」
ルークの腕の中で、リズが何度も頷く。
「ごめん、ずっと謝りたかったんだけど。俺、ロールマンって知らない。何?」
ふふっとリズが耳元で笑った。そして、ルークを抱きしめる腕に力を込めて言う。
「実は、私も知らないの。あの時は、ちょっとでもあなたと話したかっただけ。でも、あなたが探そうっていうから、驚いたわ。ねぇ、あれ嘘だったんでしょう? お願い、今回は嘘つかないでね」
「やっぱりいないのかぁ。良かった、これで君が一人で探し続けることはないね。嘘は、必要な時につくものだ。……絶対、戻ってくるから」
「うん。本当に待っている」
そう言って俯くリズの指を、ルークはそっと取った。そして、左手の薬指に触れる。ポケットから出したのは、リズと会う前に自分で編んだシロツメクサの指輪である。震える指ではめると、リズはそれを愛おしそうに頬へ当てた。もう一度、優しくリズを抱きしめる。こんな風に彼女に触れるのは、初めてだった。どうして、もう少し早く勇気を出してこうしなかったのかと後悔する一方で、この感触をずっと忘れないと心の中で誓う。そして、この瞬間がずっと続けばいいのに、と……。
「いたっ! やっぱり姉ちゃん、そんな奴と」
声が聞こえたのと同時に、胸の辺りに衝撃が走る。何かに押されたと感じたものが、リズの手だと分かって、思考回路が停止する。リズ本人も、思わずそうしてしまったことを受け入れられないかのように、戸惑った顔をしていた。そんな二人の間に割り込むように、細長い体が入ってくる。
「リズ、どうしてここにいるのか答えなさい」
綺麗な身なりに、リズそっくりの顔。母親であることは一目瞭然だ。そして、リズの後ろに隠れるようにしながらも睨んでくる少年は、弟だろう。話には聞いていたものの、やんちゃな風貌だ。姉を大好きなあまり、ルークを睨んでいるのだろうが、もし学校の人気者が相手であれば、この親子の対応も違ったものになっているのだろう。
「姉ちゃん、こいつにむりやり連れてこられたんだよな!」
「……ちがう」
呟くように答えるリズの頬を、母親が心配そうに両手で覆った。剣のある言葉とは違い、まるでルークなど存在しないかのごとく、誰とも視線が合わないのが不思議だった。屈辱よりも先に、笑いが出そうになる。学校でもいつも、こうだ。
「さ、今日の夕飯はあなたの好きなスープなの。早く帰って食べましょう」
有無を言わせない様子で母親がリズの手を引き、丘を上がっていく。弟は振り返りながらも、ルークを睨んでいる。その瞬間、リズの指から指輪が草の上に落ちた。気づいたリズが拾おうとしたのもつかの間、弟が踏みつけ、そのまま三人の姿は丘の向こうに消えてしまった。
「リズ……、待っていろよ」
リズが落としていった指輪を拾ったルークは、それをポケットにしまうと、覚悟を決めて歩き始めた。