突如目が覚めたかと思うと、込み上げる吐き気に耐えられず、ベッドから飛び起きると体をあちこちにぶつけながら廊下まで走る。ドアを開き、便器の蓋を開けた途端に我慢できずに胃の中のものを全部ぶちまけた。一度出しても、再び込み上げるものを吐き出すが、それは少量の液体でしかない。トイレットペーパーで口元を拭うと、深呼吸をして立ち上がる。
いつまでもここにいたら、それこそ風邪を引きそうだ。ベッドに再びもぐりこむと、隣にいたさゆりが毛布から顔を出した。心配してくれるのかと思いきや、存分に嫌そうな顔をしているのがぼんやりと見える。思った通り、ベッド脇のライトを付けると、床から拾った服を着始める。
「何しているんだよ。こんな時間に。もう電車なんてないだろ」
時計を見ると、一時を回っている。自分から訪ねて来たかと思ったら、話もせずにベッドにもぐりこみ、今度は朝まで眠らずに帰るというのか。なんと勝手な女である。
「吐くほど、私が隣にいるのが嫌なんでしょう?」
はぁ? と単純な疑問が声に出るが、それもさゆりの睨みで消えていく。こういうところだ。さゆりは、勝手に自分の都合が悪いように解釈して、期限が悪くなる。学生の頃はそれも可愛く見えたが、社会人として働きながら付き合うと、少なからず精神が疲弊する。
「どうしてそうなるんだよ。朝までは、寝て行けよ」
ランプの灯りに照らされた下着姿で立つさゆりはきれいだ。細い腕を掴み、ベッドに引き戻そうとするが、勢いよく振りほどかれて唖然とする。
「もういい。この間の続きよ。別れてあげる。もう無理」
「……どうしてそうなるんだよ。俺が夜中に吐いたら、気に入らないってこと?」
「私が、何も知らないと思っているの? 俊太は自分を責めているのよ。大事な親友の妻に夢中になったことを。そして、その大切な人が死んだことを、受け入れられないんでしょう。いい加減にしなよ」
「またその話かよ。理沙ちゃんとは、違うって言っているだろ」
「私、あの時見ているんだから。二人が、キスしていたところ」
ハッタリかと思った。でも、一瞬の隙を作ってしまったことは、さゆりの疑問を肯定しているのと同じだった。
「それでも、いつか忘れると思った。理沙はもういない。でも、俊太はあの日にとらわれたままよ。あんなに精神的におかしくなって……私のことなんて、視界に入っていなかったじゃない!」
「……くだらない」
俊太は途端にばかばかしくなって、体をベッドに埋めた。毛布をかぶり、強く瞳を閉じる。せっかくすべてを吐き出したのに、目の前にまたあの残像が浮かんでくる。さゆりは、俊太が話し合いさえ拒絶したと思ったのだろう。鼻をすすりながら、素早く服を着る気配がする。駆け足で玄関まで行くと、ドアを勢いよく閉めて出て行った。わざわざ布団から出てカギを閉めに行く気にはなれず、俊太は再び深い眠りに落ちていった。別れ話の後だというのに、こんなにもすぐ眠りにつける自分に辟易しながら……。
キイっと小さな音を立てて、新藤の探偵事務所に足を踏み込んだ。どうやら、新藤も凜も出かけていていないようだ。いつ来ても無防備すぎる事務所だが、俊太は愛着さえ持ち始めていた。初めは嫌いだった犬も、最近では怖くなくなっている。
今日も、すぐに俊太が来たことに気づいて駆け寄ってきた。遠慮がちに鼻先を押し付けてくるので、頭を撫でてから軽く抱きしめてやる。嬉しそうに鳴いたベルをそっと脇にどけると、俊太は事務所奥の本棚に近づいた。背広の内ポケットから手紙を取り出し、そっと本の脇に滑り込ませる。これまでの経緯を辿ったもので、何度かここに隠し続けている。これは、もし自分に何かあった時のための保険でもあるし、運命を任せているといってもよかった。自分が望むよりも早くこれを新藤が見つけたら、その時はそれまでだ。
だからこそ、新藤から電話が来るたびに、手紙のことを聞かれるのではないかと緊張した。ここまで、気づかれることはなかったが、今では見つけて欲しいとさえ願っている。自分の精神も乱れ始めているので、俊太は今回、すべてのことを手紙に打ち明けていた。
鼻を鳴らす音に足元を見ると、ベルがボールを持って笑っている。遊んでやる暇はない。一刻も早くここを去ろうと思うと、視界が揺らいだ。慌てて本棚に手をつくと、目を閉じでも視界が回っているのを感じる。吐き気がこみ上げるのを必死でこらえる。とうとう、日中でも気分が悪くなるようになってきた。刑事の仕事をしていて、これでは収集がつかないことがでてしまう。そう思った瞬間、脳裏にあの時の映像が蘇る。
「……ぁだ」
見上げてくる小さな瞳。椅子にロープで縛りつけた身体はまだ小さく、言葉を発さない。それでも、自分が今から何をされるのかは分かっているようで、怯えたまなざしを向けてくる。いつも遊んでくれる大人の、異様な雰囲気を感じているのだろう。
「そんな目で見るな。俺だって……でも、仕方がないんだ。お前がちょうどいいんだ」
そして、子供の口をガムテープでしっかりと塞ぐと、俊太は迷うことなくナイフを突き刺した。自分でも、こんな残酷なことを簡単にできると思っていなかった。傷つけないように右の目をくりぬいた後、もうひとつに取り掛かる。事件の被害者となった子供だと言えば、うまく処理してくれる伝手などいくらでも検討がついた。子供は初めこそ藻掻く素振りがあったものの、少ししたら大人しくなった。体も動かせない。口をふさがれてしまい、目玉をくりぬかれてしまえば、他に主張する方法などない。出血が最大の原因だっただろうが、動かなくなる前に子供は静かに失禁をした。俊太は足元が生暖かいことに気づき、それを知った。でも、これが理沙を救うのだと言い聞かせれば、怖いものなんてなかった。
「わん!」
気づいた時には、ベルが足元で粗相をしたところだった。わざと、こんなことをしたのだろうか。俊太はそれによって意識を取り戻すと同時に、かつての非道な振る舞いが記憶に蘇り、再び吐き気がこみ上げた。あの時のように、足元で臭いを放つ液体でじんわりと濡れている。うっと口元に手を当てて、トイレに駆け込む。今日は何も食事をとれていない。吐こうとしても、胃液さえも出てこない。
「……もう、ダメだ。限界だ」
そのまま立ち上がると、俊太は引き留めるベルに見向きもせず、事務所を飛び出した。
……俊太君、お願い。私たちを助けて。
頬に一筋流れる涙を拭い、警察署の前で俊太を見上げた理沙。思わず抱きしめた夜のことを、誰にも打ち明けるつもりは毛頭ない。
「救えないなら、俺がやる」
俊太はスマートフォンを取り出すと、登録してあるすべてのデータを初期化した。冬の寒さが、時々緩む日が出てきた。桜を見る日は、平和に訪れるだろうか。俊太は一人決意を固め、歩き出した。