探偵事務所の机で作業をしながら、新藤は俊太に聞いた話を頭の中でまとめていた。俊太は、追っている事件のために情報を出せないと言っていた。確かに、公になっていないことが多いのであれば、概要さえ友人に漏らすことは守秘義務違反になるだろう。だが、俊太から聞き出せた話の範囲では、目立って特徴的なことはなかった。
トレジャーハンターを楽しむ中年の男たちが、宿坊に一泊をしていて毒キノコに当たり体調を崩した。うち一人が攻撃的になり、仲間に襲い掛かったために、もう一人が助けるために力技を使ったというあらすじだろう。
俊太の言う通り、崖下で丸井という男が死体で見つかったことは不自然である。だが、丸井自身も幻覚や幻聴に襲われていたことは明らかで、事故で処理することに違和感はない。藤本が逃走したことで疑われているという流れはあり得るものの、こんなにも俊太が敏感になる理由もいまいち掴めなかった。
近藤が死んだことを、善と叔父の優作はどう考えているのだろか。そこに接触しようか悩み、くるくると指先でペンを回している時だった。座っている椅子が震えるような衝撃が突き上げると共に、ソファで寝ていたベルが飛び起きる。次の瞬間、耳を劈くような破壊本がビルの中に響いた。咄嗟に身を縮めて、ベルを呼び寄せる。胸に飛び込んできたベルを抱きしめながら、様子を窺う。一瞬の静けさの後、ビルの階下で数人の甲高い悲鳴が上がった。
「ベル、外には出るな!」
途端に興奮して吠えるベルに指示をすると、窓を開けて新藤は階下を見下ろした。すでにビルの前に人影ができている。そして、煙が出ているのは真下の店のようだ。ガラスの割れる音がしたかと思うと、店から女が飛び出してきた。まとった衣服の裾に火がついていて、悲鳴を上げる。咄嗟に通行人の男が、転がった女の服を自らの鞄で叩き、火を消そうとする。
「下の雑貨屋だ」
新藤が事務所を飛び出すと、ベルも真横をキープするようについてくる。階段を駆け下りた時、三階の扉から大吉を凜も姿を現すのが見えた。
「凜、危ないから来るな! 一階で火事だ。消防に通報して!」
下から叫ぶと、すぐに店前へ回る。道路では、行きかう車から視線を投げてくる人や、立ち止まって動画を撮る人など様々だ。
「大丈夫ですか!」
新藤が駆け寄ると、雑貨屋の女店主は顔を上げて、縋るような視線をよこした。周囲の人だかりを避けるように、店主を垣根の側に座らせる。店の中は大きな火が上がっていて、踏み込むことは不可能と思えた。遠くから、消防車のサイレンの音が近づいてくる。
「あなた……、二階の! ねぇ、おかしいのよ。私がお店の掃除をしていたら、外から何かが投げ込まれたの。気づいた瞬間、爆発みたいな大きな音がして! 私、小部屋に入っていたから助かったけど、……もしかしたら」
死んでいたかもしれない、そう続けることさえ怖いのだろう。煤に塗れた顔と、本人はまだ気づいていたのだろうが右腕に大きな裂傷がある。トレーナーを脱いで、傷を覆うように隠して強く抑えた。痛みで顔をしかめた女店主は、次の瞬間、店に顔を戻す。
「マリンちゃん! 今日、マリンちゃんも出勤していたの。もしかして、まだ中に!」
立ち上がろうとする女店主を押さえつつ、店に向かって吠えているベルの首も引き寄せる。到着した消防が一気に放水の準備を始め、さらに救急隊員に女店主を引き渡す。三階から降りて来た凜と大吉も、驚いた顔で店を眺めている。二次被害は押さえられ、すぐに火は抑えられたものの、店の中は大半が焼けてしまったようだった。
そんな火事から数日経って、新藤がトイレから出てくると、事務所の入り口に立っていたのは雑貨屋の女店主だった。いつもまとっているカラフルなワンピース姿ではなく、地味なパンツによれた上着を羽織っている。持っている紙袋に入った高級店のお菓子である。
「大丈夫ですか!」
右腕は包帯を巻いているのか服が大きく膨らんでいて、化粧っけもほとんどない。見るからに生気を失っている姿は、ほとんど面識のない新藤でも心配になるほどだ。
「先日は、ご心配を……。服、汚しちゃってごめんなさい。今日はお詫びにと」
「いやいや、まずは座って下さい。そんなの気にしなくて大丈夫ですし」
「いいえっ! 私の気が済まないんです。これ、……あら、わんちゃんがいるのね」
女店主はソファに座ろうとしてから先客に気づき、丁寧に腰を追ってベルに挨拶をする。ベルも嬉しかったのかすぐにソファを譲ると、窓際の日当たりのいい場所を選んで再び丸くなった。
「私、実はお店を閉めようと思っていて。そのご挨拶もあったの」
「え、やっぱり片付けが大変ですか」
あれだけ中が焼けてしまえば、リフォームするための費用も必要だろう。
「私、……その火災保険などに入っていなかったんです。だから後処理にも色々と困っていて。今日も片付けに来ているんですけど、色々と手続きもあって」
「僕で出来ることがあれば、手伝いますよ」
元々お人よしの新藤にとって、こんなにも目の前で困っている様子を醸し出す女性を放っておけるはずがなかった。それが分かっていたのだろうか。途端に笑顔になった女性だが、口調は遠慮がちだ。
「そんな! 申し訳ないわ。ただでさえ汚くて物も多い、うちの店の手伝いなんて」
「いえ、ご近所さんだったよしみですし、最後に力にならせてください」
最後、という言葉が響いたのだろうか。女店主の目に涙が浮かび、そして大粒のそれが頬を流れる。正直、困った……というのが本音だが、顔に出すこともできない。そっと女店主の肩に触れると、優しく言葉をかける。
「それじゃあ、一緒に下に行きましょうか。お店の片付け、
手伝いますから」
新藤の一言に、女店主が嗚咽さえ漏らす。内心うんざりしてきたものの、そっと事務所から出すように背中を押す。そんな二人の様子を、ベルが意外と冷めた目で眺めている。なるほど、関わってはいけないものは分かっているようで、なかなか賢い犬である。
「足元に気を付けてくださいね」
ガラスも割れた店内は、風も吹き込みとても営業ができる状態ではなくなっている。焦げたものが床に散乱し、その原型さえ分からない。新藤が座った椅子やテーブルもあるが、どれも再び使えるとは思えなかった。
「これは、大変でしたね。廃棄するものは一か所にまとめましょう。無事だったものはありますか」
「私は、外から何か投げ込まれた気がしたんだけど、火災……なんとかって人たちが調べても放火の疑いはないらしいの。でも、見て。奥の方は燃え広がっただけだから無事なの。通り沿いの方がひどいでしょう?」
確かに、新藤が見てもそう思える。だが、何より気になったことがもう一つある。
「あの日、仰っていましたよね。マリンさんが出勤されているって。無事は確認できたんですか?」
あちこちの床のものを、壁の一角に放り投げながら、女店主は肩を落としつつ首を横に振った。
「それが、連絡が取れないの。でも、ここで死体が見つかったわけでもないし……。逃げて無事だったって思うようにしているの」
それなら、連絡一本入れるはずだ、と言いたいのをぐっと堪える。女店主は、マリンを信じたいのだろう。まさか、自分の右腕として働いていた人間を疑いたくない気持ちは理解できる。
「そうそう! こっちに来て。無事だったものがあるのよ」
そこらに物を放り投げると、軽く手を叩いた後、女店主は新藤の腕を掴んだ。されるがまま、女主人に店の奥に連れていかれる。薄い扉を開けると、その部屋は通りより死角の位置にあったからだろうか。被害はほとんどないようだ。
「私、この部屋にいたから助かったのよ。それに、見てくださらない? 桐のタンス! これは以前、私の両親が嫁入り道具にって持たせてくれたもので……私が嫁に行ったかはどうでもいいの! 桐のタンスは燃えないって、本当だったのかしらね。中身が全部無事だったの」
「それはすごい!」
少しずつ調子を取り戻していく女店主に戸惑う気持ちと、安心する思いが混在する。早めに切り上げようと内心考え始めた時、店主の手にあるアルバムが目に入った。
「それ、海外旅行の写真ですか?」
一瞬、新藤を振り返った女店主は、写真を愛おしそうに指で撫でて頷いた。
「そうよ。昔はもっと景気も良かったから、マリンちゃんを連れて海外に出張目的の旅行にたくさん行ったの。今は目ぼしいものを見るだけだけど、昔はこうしてあちこちで遊んだわ」
写真は、どこかの国の海岸である。水着を着ている二人が、現地の知り合いとだろうか。集合写真や遊んでいる写真が並んでいる。そのうちの一枚に、目が留まった。
「これ、マリンさんですよね。この傷はなんですか?」
新藤の指摘に、女店主がそっとアルバムを閉じる。視線を伏せたまま、まるで自分に罪があるかのように申し訳なさそうに呟いた。
「マリンちゃんね、昔、事件に巻き込まれたことがあるそうなの。腰に大きな刃物の傷跡があってね。……でも、本人は気にしていないから、こうやって水着ではしゃいじゃって。明るい子でしょう?」
えぇ、と相槌を打ちながら、新藤の頭の中で警報が鳴り始めていた。気もそぞろに、すすけた雑貨屋の片づけをこなして、二階の事務所に戻った時には、日も暮れ始めていた。腹をすかせたベルが寄ってきて、新藤の様子に首を傾げている。新藤はソファに倒れ込むように深く静めた。
「腰の傷……。さゆりが言っていたよな。近藤の娘、瞳にも大きなものがあったって。これ、偶然か? もしかして、マリンは近藤の娘なのか?」
あの夏、鳥島で城跡を一緒に走り回った娘が、一階で働いている店員かと聞かれてもまるで分からない。たった数時間、一緒に過ごした人間の顔を、どうして覚えていることができるだろう。だが、もし相手が新藤を知っていたらどうだろう。相手は、トレジャーハンターの家族である。近藤が指輪に執着をしているのであれば、その娘も同じように夢中になっていたかもしれない。それを持っているのが新藤だと分かり、機会を狙っていたのではないだろうか。
「……俺はずっと、見張られていたのか?」
その場にいられない不安感に襲われ、コートを羽織ると、新藤は取るものも取らずに事務所を飛び出すのだった。