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波音に合わせて遠く、波間で月の光が見えては隠れる。
木製のデッキには柔らかく、潮の香りが漂ってくる。
手すりに指先をかければ、海へとなだれる陸風の輪郭が頬をさらりと撫でていく。
「塩焼きそばなら任せてください! 風紀の次に得意ですから!!」
「ひゃははははっ! ぼ、凡百、手さばきがもう凡百じゃないって!! すごいすごい!」
それらの情緒的な光景を掻き消す、少々賑やかすぎる喧噪と、お肉の焼ける野性的な香り。
なんだか新鮮な感覚だった。あくまで清正院学園の副会長、桜条家の長女としてここにいる立場としては、この雰囲気に流されてしまうと体面を保てないとも思うけど。案外これが心地いい。
「撫子さん」
喧噪から数歩分、こちらへ近づいてくれた声。多少予想して振り向けば、やっぱり澪の手には紙皿と、ほどよい焼き加減のお肉やお野菜。
「綺麗な景色もいいですけど、うかうかしてるとなくなりそうですよ」
「あら。澪だって、目を配ってばかりでしょう」
「それが、もう結構食べてます。これでもそういうの、慣れていますから」
気を遣うような素振りでもなく、彼女は隣に並ぶ。月の光は意外に弱く、室内から漏れ出る光と、ベランダを照らす暖色の光とが彼女の背を照らしている分、その表情は陰に曖昧に溶けている。
「こういうの、初めてなのよね」
「バーベキューですか?」
「お友達同士ではね。家で開かれるものはもっと大規模で、もう少し上品で、でもずっとつまらないものだったから」
「……それでいうと私もたしかに、こういう合宿とかのバーベキューは……ええと。あの、……活動くらいかもですかね」
僅かに声を潜めつつ、ぼかした言葉で思い出して微笑する。
「ああ、……ふふ。特典映像にもあったわね、そういう回。私結構、あの回好きなのよ。というかあなた、あの時も」
「ん、ん。まぁ、ええと、その話は置いておいて……」
すこしだけ、そわそわとした声音で小さく喉を整えて。
きっと。気にしているのは背後で。でも多分、こちらに意識を向けているのは花糸さんに、犬伏先輩。アイドルのことを知らない後輩たちは今でも、賑やかにわいわい言い合っているから気にしなくてもよさそうではあれ、でも念には念をの気持ちもわかる。
わかるけど。
やっぱり少し、不思議な感覚。この景色と、この雰囲気とに挟まれた、ベランダの端だからそんな風に揺らぐのか。
それとも。
今日を迎えて見てみれば、花糸さんとも犬伏さんとも、しっかり何かあった気配を感じているから、私も不安がっているのか。だから。曖昧に溶けた表情の中の、瞳を探して、ちゃんと見つめてみた。
「……なら。すこし浜辺に抜け出してみる?」
「…………」
とくりと。陰の向こうでも、その表情が揺らいでくれたのがわかって、私の胸も遅れて鳴った。吐息が弾むような感覚。
少し大胆になる。なりたくなる心地。
「……え、と。でも、……靴とか」
「裸足で玄関まで回って、そこで履いてもいいんじゃない?」
「………………」
彼女の持った紙皿を受け取る。話す間にすこし温度の落ち着いた食材を、咀嚼する。もっと味わって食べたりだとか、それこそあの喧噪の中でわいわいと楽しむことこそ、このバーベキューの醍醐味なのだろうけど。
別に家のパーティーと違って、ずっと心地がいいけれど。このまま浸って抜け出さないのも、全然ありではあったけど。
彼女と二人の時間を作るのが、こっそり抜け出すというそれ自体が、青春の一つかもしれない。
きっとそう。この合宿の、海辺のコテージでバーベキューなんて今が随分、青春の色に染まっていたから。だからこそ、欲してしまうのだろう。
割ったばかりの割り箸と紙皿とを手近なテーブルにかさりと置いて。
「ほら」
空いた手を差し出せば、澪は逡巡を挟んだ後に、その手を取って。
「――桜条さん」
一歩。
踏み出そうとして――まぁ、それもそれで予想通り。
注目しているのはわかっていたのだから。
振り向けば当然、なんてことのない素振りと表情で、けれど真っ直ぐにこちらの目を見つめる花糸さん。
「もしかして、砂浜ですか?」
一言で核心に迫る言葉。瞳の色からは以前よりも敵意や対抗心のようなものは減って、けれど覚悟が増している。隣で澪がちらりとこちらを見る気配。
「あ、えと……」
「いいね。星を楽しむんだったら、もっと遅い時間がよさそうだけど。でも月が照らす砂浜だって、十分ロマンチックだと思うし」
そう現れた犬伏先輩は、確かに面白がってもいるようで、でもどこか、譲らない雰囲気がある。
いいじゃない。ええ、そうでしょう。ならばわたくしも、譲らないだけ。
こほんと咳払い。敢えて通る声を出しましょう。
「一応。訊いておくけれど。澪は私と二人きりがいいなんて風に、思ったりはするのかしら?」
「……えっ!? え!?」
堂々。尋ねれば当然集まる注目。視界の隅では後輩ズもこちらを注視していて、澪はあわあわと見渡して。もちろんそれでは終わらない。どうせ優柔不断なのだから、この場で一人を選ぶはずない。
「考える必要はないでしょう。二人きりがいいって言ってくれれば、それでいいの。ほら」
有無も今は求めずに。澪の手を取って歩き出してしまう。
なんていうか。
「えっあ、あの」
「あっちょっと! 澪ちゃん、私とがいいよね!? ほら、一緒にいこ?」
「ううん、せめて私が取る手も残しておいてほしいけど……なら澪くん、逆に私が手を差し出したら、取ってもらえるのかな?」
「え、あ、あのっ、ええっと」
これこそ、情緒と喧噪のミックス。もちろん真剣であるのだし、互いにそうだとわかってる。わちゃわちゃとついてくる二人に、こそこそと後を追ってくる後輩ズ。見守ってくれてる仕乃たちの気配。
本当に。真剣そのものだ。澪に恋をしていることも。それを譲る気がないことも。
でも、やっぱりわかってしまう。どうせ澪が数十秒後に全員で歩きましょうとか言い出すことも。どこかそんな顛末を予期して面白がってる恋敵のことも。同じように愉快に思っている私自身の心情も。
きっと。これも同様に、青春なのだ。
「澪ちゃんって、ほんとに優柔不断だね」
「え、えっと……ごめん」
「ほら澪。月を見てなにか想う事があったら言ってみなさいな」
「えっ!!」
「あははっ、随分古典的だね!」
結局。後輩ズも引き連れながら、情緒を賑やかに掻き混ぜて歩く砂浜で。
昇った月はそうでなくて、自然と言葉が引き出されるよう。
大体。
こんな言葉に代えずとも、直接伝えてしまえるのだけど。
「いや、……その、……まぁ、……」
もう数拍待てばその言葉自体は引き出せるとわかっているけど、妥協というか煮え切らないその態度がやっぱり気に食わないから、花糸さんと犬伏先輩と自然に目が合う。互いに口角が上がって、示し合わせずに口が開く。
「綺麗、でしょ」
「綺麗だね」
「綺麗だとも」
ぶつかりながらも揃った言葉で、澪は何とも言えない呻きを上げながら、はい、と小さく呟いていた。