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「……ん、……」
早朝の気配。見慣れない和室。伸びをする。
寝ぼけ眼を擦ってみれば、雑魚寝した大部屋には朝の気配が忍び寄って、ぼんやりとした光の中に、皆の姿。
こんなの初めてよと言いながら大部屋を見渡して布団に身を横たえた撫子さんに、昔のお泊まり会を思い出すねと微笑んだかすみ。何故か寝た時とは部屋の逆側、でもちゃんと布団に包まる小薬さんに、しっかり布団を吹き飛ばしている風穴さん。秋流さんに視線を移せば寝返りを打った形跡が一切ない綺麗な寝姿で、見つめた途端にぱちりと瞼を開けた。その瞳がこちらに合って、おはようございます、と声は出さずに挨拶。なんだか小動物みたいな警戒心というか隙のなさだなと素朴な感想。
犬伏先輩の姿は見当たらない。きょろきょろとして目線で秋流さんに尋ねてみれば、空っぽの先輩の布団を見て、秋流さんも首を傾げる。頷いて、そっと布団を抜け出す。
果たして。何となく予感していた通り、先輩はベランダで見つかった。
「おはよう、澪くん」
朝日と共に差し込む風は、潮の匂いも鮮やかで。その中にほんのかすかに交じるのは、淹れたてらしい紅茶の香り。微笑んだ先輩に、つくづく絵になる人だと実感する。
「おはようございます。先輩、早起きですね」
「毎朝の習慣でね。ランニングをして、終わったら紅茶を嗜むんだ。おかげで皆の寝顔も見られたよ」
「あ、走ってきたところですか」
「うん。砂浜ってロケーションは貴重だね、いい汗掻いた」
海辺の朝。ベランダに差し込む日差しと、波音と風。輪郭で健康的に伝う汗もたしかに、先輩の微笑みに光を足している。いやもう流石というか。Audit10nEEに所属してたってきっと遜色ないだろう魅力に、学ぶことも多いな、なんて思ったり。
「澪くんも、日課かな?」
「はい。……えと、……主にSNSとか、連絡回りです」
それとなく周囲を気にしつつ、の上で返事もぼかしつつ。
合宿中とはいえ、二泊分もアクションをしないわけにはいかない。優先度の高い連絡に順に返信をしていきながら、ファンの子たちの声を見て、反応をしたり、発信のストックを整理したり。アイドル活動は積み重ねが肝要なのだ。そうしてしばらく集中していれば、ことり、という音。
見れば、傍に置かれたティーカップと、柔らかな湯気。
「朝にはぴったりの茶葉なんだ。よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます……いただきます」
一口カップを傾けて。ほ、と思わず息が漏れた。すっきりとした香りは想像してたよりも立体的に、ふわりと鼻腔で広がって、押し寄せる潮風にも負けずに楽しめる。味は真っ直ぐな中にほんの少しの渋みもあって、それが目覚めを手伝ってくれる。
美味しい。
と。心から浮かんだそれが口から小さく漏れ出ると、隣でぽつり。
「絵になるね」
「へ?」
ついさっき、私が思ったこと。ぱちりと瞬きをしながら見つめれば、先輩の微笑み。
「え、…………先輩が?」
「ふっ、あはは!」
いや。いやええと、私か。私?
いや、いやいや。先輩には敵わないというか。
「ふふ。私の目は信用ならないかな」
「いえ……そうではないですけど」
「君のファンなら、きっと魅せられるでしょ?」
「い、いや……今はどうでしょう……」
澪である今は。伶くんであればわかるけど。
「澪くんだって、少し気取るのも悪くないと思うよ。謙虚なのは美徳だけどね」
「ええ……っと……」
「ほら」
先輩は楽しそうに微笑みながら、自身のカップを傾けて、優雅に口を付ける。すこし目を閉じて、香りを楽しんで。目を開けた彼女はにこり、と微笑んで。
「自然体の澪くんも十分だったけど、……せっかくだし、かっこうつけてる君も見たい」
きらめく瞳と、小さく傾げられた首。
「どう?」
「んん、……」
小さく息を吸って。腹をくくる。
「わかりました。紅茶のお礼です」
まぁ。少しだけ気恥ずかしいけれど、誰も見ていないなら。
紅茶のカップを持って、羞恥の躊躇を押さえ付ける。持つところから所作を意識した方がよかったかな、と思ったけど今更。そもそも伶くんじゃないのだし。というか伶くんじゃない時の気取り方なんて本当によくわからないけど。もうヤケクソだ。
呼吸を整える。澪で。澪で気取る? どうしたらいい?
伶くんの時は、ファンの子を魅了するつもりで。憧れを抱いてもらえるような、恋だってしてもらえるような感覚を意識していて。じゃあ。ここは、先輩にそんな気持ちを抱いてもらえるように? 恋人同士とかを想像しながら?
ちらりと先輩の目を見つめる。心がくすぐられる感覚。以前の会話が浮かんで、いつもなら羞恥に攫われてしまいそうな心が、もしもの想像に沈んでいく。先輩となるならどんな関係なんだろう。こうして早朝、一緒に紅茶を飲むような関係。
それが友人か恋人か、別の形かはわからないけど。
カップを手にして、先輩の目を見つめたまま口にする。やっぱり、それは心から。
ほう、と。息が先にもれる。
「美味しい」
きっと。
「日課にしたいくらいです」
悪くない関係だろうと、何となく、そう思う。
「…………」
ぱちり、と先輩は瞬きをして。それからくすりと微笑んだ。途端羞恥が戻ってきて、んん、と咳払いをしながらカップを戻す。
「うーん……ほんと、澪くんって」
「お、お礼はしましたから! ちょっとヘンだったかもですけど」
「ふふ、ヘンなんてことはないよ、……ないけど」
先輩も紅茶を一口飲んで。少し考えるように海を見る。
朝日が健康的な汗を光らせて。先輩の瞳のきらめきに、その輝きが重なっている。
「どうかな。……どんな言葉を使って今の気持ちを言えばいいのか、わからないかも」
「…………」
どうしてか、とくんと。一歩大きく踏み出すように、すこしだけ高鳴った鼓動。拍子に浅い息が漏れそうになって、紅茶で蓋をする。
そうして。秋流さんが早朝から紅茶デートですかと堂々割り入ってくるまでの間、何だか不思議な沈黙が降りて、ただ波音を聞いていた。