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覚悟はしてた。
してたんだけど。
「澪くん」
「澪!」
「会長サマぁ」
「会長」
「…………」
やっぱり、澪ちゃんはモテすぎる。
元々は私だけの秘密だった。あまり目立ちたがらない澪ちゃんが、私だけに見せてくれる顔。幼馴染として独占していたはずのその顔は、知らない間に皆に覗かれて、見つかっていて。
アイドルとしてはもうすごい数のファンを抱えてて、生徒会長素山澪としてだって、学園でも一、二を争う彼女たちがライバルで。
正直油断していたと思う。海沿いを歩いたあのデートの日、意識してもらえたことで、確かな一歩を踏み出せたって。その手応え自体が間違いじゃなくても。澪ちゃんの染まってた頬も、ぎこちなかった帰り道も。思い違いとかそんなんじゃなく、澪ちゃんとの距離はずっと、ぐっと近づいた。だから、他の誰も目に入らないくらいすぐそばにまで、来られたんじゃないかって自惚れていたけど。
皆が澪ちゃんを追いかけるから、私はすぐに一番じゃなくなる。放っておいたら押しのけられて、どんどん遠くに行ってしまう。
だから、少しでも。
「戦力で分けたら、私と澪ちゃんが組むのが一番だと思います」
きっぱり。
砂に引かれたコートのライン。ちょうどよく膨らんだビーチボール。犬伏先輩提案のビーチバレーのチーム決めで、真っ先に手を挙げてそう言った。途端桜条さんが視線を向けてくるけど、犬伏先輩はううん、と小さく唸りを上げて、こくりと頷く。
「戦力バランスを考えるなら、そうかもしれないね。希望だけを言うなら私も、澪くんとペアがいいけど」
「バランスを取るという意味なら、花糸さんと犬伏先輩も悪くないのではなくて?」
すかさず挟んだ桜条さんに首を振る。用意してたからすらすらと。
「犬伏先輩は間違いなく一番強いですよね。小薬さんはそんなに自信がないって言ってましたし、犬伏先輩と組むなら小薬さんかと」
「そんなにじゃなくて全っ然!! ね、リリリ様審判でもいいよ?」
「交流も目的にしてるから、小薬さんも参加した方がいいと思うの」
ばっさりと。ごめんね、ほんとは審判でもいいんだけど、そうなるとバランスの論で戦えないし。それに正式な試合でもないし、多分先輩一人で戦えもするし。だから余計なことは言わないでほしいかもとちょっとだけ思いを込めて見つめたら、ひゃ、と小さく息を呑んでこくこくと頷く小薬さん。
「交遊が目的なのだから、戦力差にこだわる必要もないでしょう。わたくしも澪と組みたいのだけど、その意は汲んでもらえないのかしら」
「交遊が目的だからこそ、偏りがない方が楽しめるかと思います。それに生徒会メンバーとそれ以外のメンバーとで組む形の方が、合宿の趣旨にも合っていませんか? 桜条さんが風穴さんと、秋流さんが梅園さんと組めば、戦力差の面でも理想的かと」
「むむ、これはディベート対決。不肖秋流がレフェリーを務めましょう」
「あ、あはは……」
一体どこから。両手にそれぞれ白と赤の旗を持った秋流さんがすちゃりと私たちの真横について。乾いた笑みを浮かべる澪ちゃんにちょっと躊躇も浮かぶけど、今は優勢、ここで諦めるわけもなく。
「何か異論はありますか?」
「あるわ、当然」
余裕を持って見つめれば、閃く瞳がばちんと返る。
「第一に、合宿の趣旨と仰っていたけど花糸さんも経緯はご承知でしょう。そんな大層な趣旨なんてありませんし、それらしい言葉で飾り立てているだけ。第二に、各々の戦力差が正確に数値化されているわけでもありませんし、戦力差の面で理想的と仰っていましたけれど、それってあなたの感想ですわよね?」
「これは大技。解説のリリ、いかがでしょう」
「うーん、ばちばちしてて、このディベート自体が楽しめない原因になりそうかなぁって思うしぃ、もーっとはっきり本音言っちゃった方が……ひゃっ」
「むむむ、解説のリリから渾身の正論が飛び出しました。両選手、これを殺気で応酬。すさまじい舌戦です」
「んん゛っ……」
「あの、……ごめん、違うよ」
ごほごほんと咳払いする桜条さんと、謝りつつちょっと息を落ち着ける私。いやうん、小薬さんの言葉は間違いなく正論。だからこそ、スムーズに決着を付けたい、のだけど。
いつもなら、この辺で絶対に折れている。というか初めからこんな議論持ちかけないし、澪ちゃんに近づくのを躊躇していたままの私なら、なんなら自分から桜条さんへ譲ったりさえしたかもしれない。そうすれば不和は起こらない。私が我慢をして呑み込めば、皆笑っていられるのなら。
でも。折れたくない。諦めたくない。澪ちゃんのことは。
我武者羅に、ちょっと迷惑をかけちゃうくらい我が儘に、なっていかないと叶えられない。
それくらい、澪ちゃんの隣は譲れないから。
「そうね。……このままだと埒が明かないし」
「……そうですね。じゃあ、秋流さん」
「む。なんでしょう」
桜条さんも一切引く気がないことを、互いに視線で察し合った上で。
「ごめんね。秋流さん、最終判断をお願いできるかな」
「なるほど合点。この清正院秋流にお任せを。名采配をお目にかけましょう」
情けないし、しかたない。こんな先輩でごめんねとも思うけど、秋流さんはかけてしまってた期待そのままに、そんなに躊躇なく頷いてくれて。淡々と、でも調子よく紡いだそんな言葉に続けて、特段迷わず両手の旗で、勝敗を示す。
ばし、と。
緩い手つきで妙にキレよく振られた旗は、綺麗に同じ高さで揺れて。
「ディベート対決は両者引き分け。チームはローテーション形式で、メンバーが入れ替わるものとします」
うん。たしかに。名采配。
果たして。
どうローテーションを組むのかとか、全部で何試合かも手早く段取りが決まっていって、この辺りは流石の面々だと実感したり。実際コートに立ってみたら、一緒に組む子が誰だとか、そんなの関係なくちゃんと楽しめたり。意見を通すためだけに主張していた交流とか合宿の趣旨でいっても、入れ替わってこそ各々と接する機会が取れるものだし、ぐうの音も出ない良案だ。
視野が狭かった。というか心。澪ちゃんと一緒にやりたいって、感情だけが先行して。わかってやってたつもりだったけど、思ってた以上に浅かった。
「一つ、訊いてもいいかな」
戦績を重視しないレクリエーションで、でも一戦一戦を真剣に熟したからこその、心地よくて開放的な疲労感。それでも拭いきれない、開始前の口喧嘩への後悔と罪悪感を海風に晒して一人、パラソルの下。
梅園さん提案の海水浴の時間になっていて、真っ先に波と戯れにいった皆を見ながら、すこし休むねと小休憩。そんなところに現れた犬伏先輩は、いいとも悪いとも言っていないけど、隣にすらりと腰を落ち着ける。一泳ぎしてきたらしく、その素足は海水で濡れていて。スタイルのいい彼女の足はパラソルの影に収まりきらず、濡れた足先が太陽を眩しく跳ね上げた。
「かすみくんはさ、」
一度、言葉を切って。ひらりとまた足先を蹴り上げて。砂の向こうの皆に目を向けていた先輩が、こちらへ顔を向けてきた。
「澪くんに恋、してるでしょ?」
「はい」
頷く。はっきり。
ちゃんと言葉にする。認める。
体育祭の日に、 似たような、でももっと曖昧なことを先輩に尋ねられた時。あの時はただ動揺して、返事も誤魔化していたけれど。
「それってさ、どんな気持ち?」
「……何のアンケートですか?」
「恋心」
「…………」
茶化すような素振りでもなく、といって探りを入れる風でもなく。思いの真剣さを確かめて釘を刺すみたいな、そんな様子もなさそうで。ただ純粋な疑問のよう。だからこそ。私も持っていた疑問が当然浮かんできて。それはある種の不快感と共に、ぽつりと棘のある言葉になる。
「先輩は、ご自分でわからないんですか?」
「うん」
「…………」
「気に入っているのは確かだよ。他の誰より、そういう相手に近い。それも多分、間違いない」
フラットな返答。波音。はしゃぐ声。
沈黙の中でそんな音を聴いてから。咀嚼した上で、言葉を返す。
「…………誰にも。誰にも、取られたくないって気持ちです」
そう直接告げるのは相応しくないだろうから、言わないけど。そんな中途半端な、自分でわかりもしない、言い切れない気持ちで張り合ってこないでほしいくらいには。取られたくない、っていう気持ち。
「澪ちゃんが一番に目に飛び込んで、澪ちゃんが近づいたらドキドキして、澪ちゃんの声を聞けたら幸せで、澪ちゃんが誰かと笑っていたら嫉妬して。澪ちゃんと先のこととか、当たり前のこととか、いけないこととか、お別れのこととか、そういう色々を考えて勝手に一喜一憂して、苦しくてたまらないけど、好きになれてよかったって思うような、そんな気持ちです」
これが恋じゃなかったら、世界中の誰一人として、恋なんて味わったことあるわけない。そう言えるくらい、はっきりと恋とわかる気持ち。
「でも、かすみくんは澪くんと、幼馴染で親友だよね」
「はい」
「その恋を叶えたら、……なにか、変わる? 何が変わる?」
ざぱん、と一際高い波音が、砂浜の上を滑って届く。
「セクハラですか?」
「……ううん。そんなつもりはなかったけど、答えにくかったら別に」
「冗談です」
遠慮なく色々訊いてくる意趣返し。少し意地悪をした分、素直に付け加える。
「でも、……そういうこともしたいですよ。親友で幼馴染でもできないことは多いから、そこは大きく変わると思います。それも澪ちゃんが嫌じゃなかったら、ではあるから、変わらなくてもいいですけど」
「同じでもいいの?」
「いいですよ。だって、少なくとも」
別に初めから、完全に同じ気持ちを望んでるわけじゃない。私は澪ちゃんが思ってくれてるよりずっとどろどろしてるし、醜くてしょうもなくてどうしようもない部分もある。たとえ恋人になれたとしても、とても伝えられないこともある。だからそんなことどうでもよくて。
一番大事なことは、きっと。
「すくなくとも、……澪ちゃんの一番にはなれるでしょう?」
赤い糸がなくたって。堂々と手を繋いでしまって。
この人には私がいるんだって、私にはこの人がいるんだって宣言できる。他の誰にも澪ちゃんを譲らない。そんな心の狭ささえ、肯定される関係になる。
私は。たとえば澪ちゃんを籠に閉じ込められるなら、澪ちゃんの目に他の皆が映らなくなるボタンがあるなら、澪ちゃんの一生を書き換える力があったなら、それを選べてしまう人間だ。弱くてずるくて、醜くてどろどろで。
嫌な子。
「…………取られたくない、か」
「はい」
「一番になってみたいって、……そういう気持ちはわかる気はするけど。全然違ってそうだね」
「はい。全然違うと思います」
全然違う。その言葉の並びは口に出しても硬質で、そっか、と呟く先輩は、少しだけ一人きりに見えた。寂しそうな顔一つさえ浮かべていないのに。声音だっていつも通りなのに。
それが。
ちょっと、胸をざわつかせた。
「先輩は?」
「うん?」
「先輩は、澪ちゃんの何が、どういいんですか」
「……面白いところ」
「それだけ?」
表面をなぞるような先輩の言葉。無遠慮に踏み込んで、敢えて突き刺す言葉を返す。
「それだけ。……だったけどね」
「……」
先輩の視線の先。澪ちゃんは水着の桜条さんに詰め寄られて、慌てた様子。後ろで小薬さんが水鉄砲を発射して、まともに食らった桜条さんがにこにこ笑顔のまま追いかけっこを開始した。
ふと。澪ちゃんがこっちを見た。にこりと笑って、ひらひらと手が振られて。
「あの子なら、教えてくれるんじゃないかって」
「…………恋心を?」
「うん。そんなところ」
「なら、まだなんですね」
「…………」
澪ちゃんはそのまま、こちらに向けて歩き始める。ばしゃりと素足が白波を踏み、名残惜しげに引き留める海水から、砂へとするりと逃げてくる。
「なら、もしも」
しゃああ、と波が引く間に泡が砂に吸い込まれる音が、ここまで伝って聞こえてくる。澪ちゃんは砂に足を取られながらもさらに数歩進んで、もう間もなく声が聞こえる位置に。
「私が代わりに教えてあげたら、……澪ちゃんは諦めてくれますか?」
唇の動きも、声量も控えて。まだ知らないなら。それだけが理由なら。澪ちゃんから目線を外して先輩を見れば、まん丸い目で固まっている。
「それ次第じゃないですか?」
それが嫌なら多分、きっと。先輩も澪ちゃんじゃないとダメだろうし。そうじゃないなら、そもそも同じ土俵にいないと思う。
また嫌な子だ。こんなこと、言ったってしょうがないのに。でも先輩はぷっと吹き出すと、そのまま大きく笑いはじめた。
「っあははははは! ふふっ、それは、そうだね……あはははっ!」
「なんか、随分楽しそうですけど……どんな話してたんですか?」
ざ、と砂を抉りながら。私の話? と。多分近づいて笑い始めた先輩に不審げな顔を浮かべる澪ちゃん。先輩はくつくつと笑いながら首を振る。私は敢えて何も言わない。
「いや、ふっ、……ふふ。ちょっとやられちゃったよ。ほんと、澪くんもかすみくんも、面白いね」
「かすみが」
ぱちり、と瞬きをして意外そうにこちらを見る澪ちゃん。曖昧に微笑む私。そして先輩は予想の通り、そのまま笑みを抑えつつ、言葉を続けた。
「うん。それでね、澪くん」
「はい。……えっと?」
「かすみくん」
「はい」
わかってる。先輩の内心なんか全然知りもしないけど。同じ土俵にいるのかどうか。
「どうも、澪くんじゃないとピンとこないみたいだ」
「……へ?」
今のところは……なんて。ぽつりと付け足されたそんな言葉には、しかたないから目を瞑ってあげた。