「こわ、い……?」
真剣な表情で伝えられた内容に、再び目を見開いて驚く。
その拍子に頬を伝った涙は手の甲やスカートに落ちることはなく、伸ばされた橘さんの右腕に拭われた。
吸収された水滴が、橘さんのパーカーに色濃く残る。
まるでお詫びをするようなその仕草に、余計に驚きが隠せなくて……橘さんの真意が、より一層わからなくなった。
「私のことが…怖、い?」
「……初めてこの家来た時もそう思った。でも今は……その話聞いて、お前のことがもっと怖い」
「そ、それは…何故、ですか?」
前のめりになって、彼の口から発せられる言葉を一語一句聞き漏らさないように集中する。
初めて家に来た時の橘さんとは違う。言葉を選びながらでも、本心を伝えようとしてくれているように見えた。
彼の考えや想いは、出来るだけ深く理解して尊重したい。
ましてや私が怖がらせるような素振りをしていたのなら、直ちに改善して安心してもらいたい。
「……さっきは、否定ばかりして…感情的になって……本当に、すみませんでした」
「……。」
「教えてもらえませんか?橘さんが私を怖いって思った理由。……どんな内容でも構いません。理解して、考えて、直したいんです」
優しいと感じた彼と、冷たいと感じた彼。
その理由が、今から話そうとしてくれている内容に必ずあるはず。
もっと橘さんを理解したいという想いが、目の前の彼としっかり向き合う姿勢に正していく。
真剣な表情で話を聞き入れたいと示した私を見て、橘さんがほっとするように少し表情を緩ませていた。
「……お前さっき、育った環境の違いだって言ったよな」
「え……?」
「初めて遊女に正体明かした時…警戒するそいつに対して、思ったって話だよ」
「……思、った?」
切り出された話に対しては正直、すぐには理解出来なかった。
目を丸くしたまま首を傾げていると、橘さんが一瞬口をへの字にした後、嚙み砕いて説明しようと考え込む素振りを見せる。
その後すぐに返ってきた内容は、橘さんの記憶力の高さが滲み出ているものだった。
「『常に裏があって利が無ければ人は動かない』って思い込むのは、下流階級だからで…自分は中流階級だから、『得が無ければ人は動かないっていう概念はない』って話」
「……!」
私が先ほど語った一連の騒動を、一字一句間違えずに再現して説明される。
それでやっとピンと来て、橘さんが何のことを言っているのかを理解した。
彼女に初めて正体を明かしたあの時、私がいくら説得しようとしても中々信じてもらえず警戒されたことを思い出す。
『遊女たちが自由に生きられる環境を作りたい』と言った私に対して、彼女は『それをやってお前に何の得がある』と叫んでいた。
私がその時に思ったこと…
私は下流階級ではないから、得が無ければ人は動かないという概念はない。
でも彼女は下流階級だから、人には常に裏があって利が無ければ他人のために動くわけがないと思い込んでいる。
だから私は……私に得はないと正直に答えず、事業のお手伝いをしてほしいと理由を作って彼女に答えていた。
橘さんはおそらく、この時の嘘について怖いと言っているんだろう。
育った環境の違いだと差別して、嘘の理由を作って、本音を話さなかったことについて信用出来ないと思ったんだ…きっと。
眉間に皺を寄せて眉尻を下げながら、ここからどう信用を取り戻せば良いのかを考える。
まず彼女に本音を話さなかったことについて謝罪すると、呆れた様子で橘さんから間髪入れずに突っ込まれた。
「いや違ェわ」
「え……?橘さんの怖がってる理由ってそこなんじゃ……」
「……お前もう今から頭空っぽにして俺の話だけ聞いとけ。ややこしくなるから」
はあっと軽く溜息をついて、橘さんがテーブルにある麦茶へと手を伸ばす。
自分の口へグラスを運ぶのかと思いきや、私の顔の前へと持って来てストローを口元に差し出された。
黙って飲め。
そう視線で促されて、驚きながらも彼の言うことに従ってストローを咥え水分補給をする。
冷たい麦茶が身体に入って来たお蔭か、考えを巡らせていたことが一旦クリアになって冷静さを取り戻した。
何事も早とちりして暴走してしまう癖を直したい。
橘さんのお陰で自分の悪い所を再認識して反省する。
やっぱり目の前にいる彼は、一見乱暴そうな口調や態度に見えるけど、いつだって親切で、優しくて…他者想いの良い人だ。
そんな彼が私を想って、冷静にわかりやすく伝えようとしてくれている。
改めてそう強く感じて…ストローから口を離し、彼に目線を戻した時だった。
「……中流階級だろうが上流階級だろうが、どんな育ち方してたってお前みたいな考え方にはならねェんだよ」
火傷している私の代わりにグラスとストローを支えてくれていた彼の手が、ゆっくりと離れていく。
それを視界に映した直後、もう一度穏やかな声で話の続きを切り出された。
「育った環境の違いなんかじゃない。何の得もなしに見返りも無く、自分の命まで張って見ず知らずの他人を助けようとする奴なんか……普通はいねェんだよ」
「……え?」
呆れ半分、慈しみ半分。
そんな想いを表すような視線で見つめられて、また思わずポカーンと口を開く。
私が再び変な思考に陥る前に言い切ろうと思ったのか、橘さんが珍しく一方的に話を続け出した。
「最初お前に親切にされた時も、絶対に裏があると思った。もしも全部本気で何の得も無く下流階級を助けようとしてるんだとしたら、本当にこいつは同じ人間なんだろうかって…恐怖すら感じた」
カラン……私が飲んだ麦茶の氷が溶けだして、グラスにぶつかり高い音を響かせる。
思いも寄らなかった橘さんの話に、私へ恐怖を抱いた理由に、驚きの声すらも上げることが出来なかった。
「……さっきの話聞いて、余計に怖くなった。手助けしようとして裏切られて、頭殴られてんのにお前はまだそいつのこと想って財布渡して……仕舞いには囮までやった」
声も出せずに固まってる私の代わりに、今度は橘さんに入れた麦茶の氷が溶けて鳴り響く。
何度も響くその音に、まるでこのまま黙って聞いていろと諭されているような気がして……更に声が出せなくなった。
「今でもそいつのこと想って泣いてやってんのも……正直、信じらんねェって思う。普通の人間じゃねェ思考してんなって……すげェ怖い」
ぐっと眉間に皺を寄せて視線を逸らされた瞬間、ドクッと心臓が嫌な音を響かせて脈打つ。
なんだろうこの感覚は……この嫌な感じは、初めて経験することじゃない。
相反する考え方や意見をもらって、困惑するイメージ。
ああ、これは……そうだ、あの時と同じだ。
『…その方は、あなたを愛してなどいません』
『あんたは私が馬鹿な女だって言いたいんだろッ?!裸まで撮らせてどうかしてるって!!そんな男信じて馬鹿みたいに待って、どうかしてるって!!』
自分の考えや想いが正しいと疑わず、彼女に私の意見を押し付けたあの時……
彼女から違う想いが返ってきて、困惑したあの時の感覚と…同じだ。
何も言葉に出来ず、ただただ目を見開いて動けなくなる。
そんな私へゆっくりと視線を戻した橘さんが、初めて見るような……辛そうな、悲しそうな、歯痒そうな表情で呟いた。
「なあ……もっと怒れよ。お前そいつの所為で怪我して死にかけてんだぞ」