心配するような目。諭すような声。
何とか伝わってほしいと、絞り出すように紡がれた言葉の数々。
ああ……やっとわかった。
優しい橘さんが、冷たいと勘違いしてしまった理由。
『死んだのが八って遊女で良かったって言ったんだよ』
『なあ……もっと怒れよ。お前そいつの所為で怪我して死にかけてんだぞ』
「ッ……う゛ぅ……」
彼は最初から、私のことを一番に心配して、励ましてくれていたんだ。
私の身を案じて、自分を責めるなと、無茶をするなと…ずっと心も身体も守ろうとしてくれていたんだ。
「う゛、ッ……ごめ、なさ……」
「……もう謝らなくていい。これからは自分のこと最優先で他者から守れ」
「ッ…ヒック、う゛…助け…たか、ったん…です。ど…しても、彼女の…ことを」
「……言われたかねェことだろうけど、今回のことで身に染みてんだろうから……伝わりやすい今言っとく」
シオン……
そう珍しく名前で呼ばれて、涙で腫れ上がた瞼を開ける。
俯けていた顔をゆっくりと上げて、弱々しく彼の目を見た瞬間……辛そうに、でもはっきりとした口調で、確信をもって呟かれた。
「……救える命は、限られてる」
聞きたくなかった現実。
直視したくなかった、叶わぬ夢。
それを橘さんから伝えられて、またボロボロと涙が溢れて止まらなくなる。
無力な自分が悔しくて堪らなくて、思い切り顔をグチャグチャにしながら嗚咽を漏らす。
そんな私の表情を見た橘さんが、一度歯を食いしばった様子を見せた後、苦しさを堪えるように表情を歪ませて叫び出した。
「悔しくても!辛くても!現実問題、助けてほしいって奴しか助けらんねェんだよ!溺れてる時に手差し伸べて、それを掴んでくる奴しか助けらんねェ!」
「ッ……」
「掴む体力も残ってねェ奴ならまだしも!手振り払って溺れ続けようとする奴なんか、お前の命張ってまで救う必要ねェから!!」
それだけは、マジで気つけろよ……じゃねェとお前、ほんとにいつか死ぬぞ。
そう最後に小さく言われた一言で、ゆっくりと彼から視線を逸らし顔を俯ける。
脱力しきった自分の身体をぼーっと眺めて、今橘さんに言われた内容を繰り返し脳内で響かせる。
「……。」
無気力状態で、数分は経っただろうか。
しばらく沈黙のまま静観してくれていた橘さんが、落ち切った私の肩に左手を添えて、顔を上げるように促してくる。
脱力した状態のまま何も考えずに目線を上げて、橘さんの方に顔を向けたその瞬間、勢い良く口の中に何かを突っ込まれて衝撃を受けた。
「むぐッ…?!」
「……けどお前見て、気づけたこととか、考え改めたことも1つある」
ゲホゲホと激しく噎せ返る私を無視して、橘さんが身体を背けながら話し始める。
何を入れられたのかを味覚で確認した時には、二重の意味で感情が刺激されて再び肩が震え出した。
「……現状を変えたいとか、下流階級の奴らを救いたいとか……そういうとんでもない夢を本気で叶えようとする奴は、お前みたいに命懸けじゃないと出来るわけがないって…自分の覚悟の甘さも思い知った」
「ッ……」
……ああ、苦しい。
際限なく胸を締め付けられるこの感覚が、とてつもなく苦しい。
「ぐ…うッ……う゛ぅ…ッ…」
本当に、彼女を救って幸せにしてあげたかった。
安心出来る場所で、身の危険がないような環境で、笑って、生きていてほしかった。
救い出した直後は、お腹が減らないようにと…少しでも美味しくて食べやすい物を用意していた。
それが今になっては、私の口の中で音を響かせて、甘くて悲しい味を広げている。
「お前の夢に対する覚悟とか、他人に対する愛情は……本当にすげェよ」
赤いリンゴでは、また彼を思い出させて辛くさせてしまうかもしれない。
それならば梨ならどうだろうと、単純で浅はかな考えで用意した食べ物は……
「無理にでも食っとけ。……どーせあいつのために用意してた物なんだろ」
「…ッ……う゛…」
橘さんの手によって剥かれた梨は……見た目に大差のないリンゴになった。
彼女が辛い時に差し入れて、何の役にも立たなかったリンゴになった。
「今日で全部、遊郭で起こったことは切り替えろ。これ食い終わったら、次のことだけ考えて進め」
橘さんの優しさに、彼女への後悔に、溢れ出る涙が止まらない。
震える身体も、嗚咽を漏らす声も、胸を締め付けてくるこの苦しさも、全てが止まらなかった。
「……お前の怖ェくらいの慈愛に、救われる奴とか、心変わりする奴は必ずいる」
「ッ……本当に…ッ……本当に、そうでしょうか」
ボタボタ落ち続ける大粒の涙を拭いもせずに、精一杯の掠れた声で聞き返す。
話を黙って聞き続けていた私からの、唯一の問いかけ。
不安から来る私の否定的な疑問には、橘さんが自信あり気に微笑んで答えてくれた。
「保証する。これだけは絶対だって言える。安心しろ」
言い切ってから、自分で剥いた梨を口へ放り込んで、部屋の隅に置いてあった段ボールに手を伸ばし次の梨を取り出す。
一体何個食わす気だったんだよお前…と呆れたように笑われて、それがまた涙腺を刺激して喉を締め付けてくる。
「保証するって……どうして、ッ…絶対…って、思うん、ですか……?」
「……目の前にあんだろ。保証出来るもの」
再び私の目元に右腕が伸びてきて、橘さんに涙を拭われる。
少し乱暴にパーカーで顔を擦られて、右腕が視界から離れて行った瞬間……
「俺が証拠だ」
自信たっぷりに、少し挑発的な表情で微笑まれる。
まるで……もう1人ではないと、肩を支えて励まされているような気がした。
私の慈愛に救われる人。心変わりした人。
それが今目の前にいる自分だと断言されて……
「……さて、次はどうする先生?勉強か?」
また、性懲りもなく夢を叶えたいと……強く強く思ってしまった。