下流階級の乳幼児施設で、私を育てた乳母が言った。
「……お前もゴミのように捨てられるよ」
あの時聞いたしゃがれた声が、呪いのように纏わりついて……ずっと私から離れない。
第17話『八』
「……?どういう意味?」
「…そのままの意味だよ」
上半身裸の乳母が、誰の子かもわからない赤ん坊に授乳している光景。
血縁関係がないのは明白で、上手く乳の飲めない赤ん坊に舌打ちをしては放り出し、次に並ぶ赤ん坊へ切り替えては同じことを繰り返す。
私が生まれてからこの7年間、ここの施設にいる乳母達がまともに服を着ている所を見たことがない。
「おぎゃあ!!おぎゃあ!!」
「うんうん、よしよし、お姉ちゃんが抱っこしてあげるから泣き止んで?」
「……チッ」
夜泣きが酷く、中々眠りにつかない赤ん坊。
その子たちを寝かしつけるために両腕で優しく抱えて、夜通し世話をするのが選抜された7歳児数人の役目だった。
乳母達はというと、痩せた身体でギシギシと骨を軋ませながらひたすら授乳している。
7年前、私の授乳を担当したという目の前の乳母も、そのうちの1人だった。
「……さっきの話だけど、私がゴミみたいに捨てられるわけない」
「ハッ……馬鹿みたいに自信あるんだね」
「外の世界はどうなってるのか知らないけど……ほら、私って優秀でしょう?」
腕の中でぐっすりと眠りについている赤ん坊を見せて、誇らしげに笑って見せる。
私の手に掛かればどんなにグズる赤ん坊も1分で泣き止ませられた。
他の7歳児にはこんなこと出来ないだろうと、そう自信をもって言える。
鼻を高くして働きぶりを自慢していたら、更に皮肉めいた顔で笑われて納得がいかなかった。
「何で笑うのよ。どこへ行ったって私なら上手く働けると思わない?」
「優秀だろうと意味なんてないよ」
「……どうして」
「あともう少しでわかるよ。それまで精々寝かしつけ頑張んな」
面倒くさそうに言葉を吐き捨てた乳母が、またチッと口から響かせて次の赤ん坊へと移る。
日に日に舌打ちが増してきた乳母を不審に思いながら、納得のいかない返答へ抗議した。
「他の子たちはみんな汚いゴミ処理現場に行かされてるじゃない。私は優秀だから、数少ない寝かしつけ担当になってる。それが証拠でしょ?」
「……夢見がちなお前には、何言っても無駄だろうよ」
「だから!どういう意味?そんな答えじゃ意味わかんない。ちゃんと説明してもらえないと納得いかない」
「お前がここから出て外の世界を知った時に、やっとわかるんだろ……私の言ったことが」
ついに盛大な溜息をついて授乳を止めてしまった乳母が、コンクリートの床へ崩れるように座り込む。
休憩か?と思い顔を覗き込めば、焦点の合っていないような目で、限界か…と小さく声を漏らしていた。
「お乳出ないの?」
「……。」
「じゃあまた出るようになったら戻ってくる?来年とか」
「……さあね」
「ああ、でもあれか!8歳になったら私も外に出られるんだ!じゃあもうここでは会えないかもだね!」
「……。」
放心状態のまましばらく座り込んでいた乳母が、徐に寝転がりゲラゲラと大声で笑い始める。
ぎょっとして眉を訝しげに顰めていると、最後にククク…と笑い終えて首だけを私の方へ向けた。
「今までここにいた子供ん中で、お前は群を抜いて賢かったよ」
「え……?」
「教えてもないのに人の会話から難しい言葉も覚えて、中流階級の監視員にはへらへらと媚を売って気に入られて、実際赤ん坊の世話も上手い」
「なになに急に?どうしたの?すごく褒めてくれるじゃん」
「賢くて、機嫌取りが出来て世渡り上手で、何でも器用にこなす……そりゃ馬鹿みたいに自信も持てるだろうよ」
ひたすら褒められ続けていたはずが、馬鹿みたいにと言われた部分で引っ掛かり口を尖らせる。
やっぱり馬鹿だと思っているのか?そう反論しようとした刹那、たくさん歯の抜けた笑顔で薄気味悪く見つめられた。
「現実知るまで、精々夢見て笑っとけや」
そう、乳母が私へ言い捨てたのと同じくらいだっただろうか。
出入り口付近にいつもいる中流階級の監視員2人が、乳母の元へとやってきて2・3言葉を交わし始める。
その時の私といえば乳母の言われたことに意識が囚われ過ぎていて、監視員の言っている内容を耳に入れていなかった。
細い身体で必死に土下座する乳母と、それを無視して腕や足を引っ張り連れて行こうとする監視員が視界に映る。
無音でスローモーションに見える映像が、大人になった今でも脳内にこびり付いて離れない。
身体を引き摺られるようにして物のように運ばれて行った私の乳母は、その日以降一度も見かけることはなかった。
彼女がどうなったのかは、今になっても真相はわからない。
おそらく、予想の範疇に過ぎないけど、彼女はあの後死んだんじゃないかと思う。
聞いていた話では、彼女の年齢は当時32歳。
下流階級の身分で、女性としてはかなり長生きしていた方だと思う。
7歳の時には理解していなかったが、女は妊娠と出産をしなければ母乳は出ないらしい。
私の乳母もまた、例外なくひたすら妊娠と出産を繰り返していたんだろう。
見た目だけで歳を当てようとしたら、乳母の実年齢を答えられる者はいないと断言出来るほど、彼女はひどく年老いていた。
私が施設にいた8年の間だけでも、あの乳母は何度も何度もよく見かけた。
何度も何度も、赤ん坊に授乳しては悪態をついて放り出し、歯を食いしばっては苦痛な表情を浮かべていた。
愛情なんてものは欠片もない。
生き残ることだけを考えて、とにかく必死だったんだろう。
「ねえ!私とよく話してくれるけど、私のこと愛してるの?」
5歳の時、周りの子供より比較的早めで流暢に話し始めた私は、乳母にそう聞いてみたことがある。
それは中流階級の監視員が、気まぐれで私に絵本を読んでくれたことがきっかけだった。
母というものは愛情で満ち溢れていて、子どものためなら自分の身を呈してでも守り、慈しむものなのだと言う。
絵本の中で、赤ちゃんに授乳して優しく微笑む母親。
自分のそれに当てはまるのは、おそらく乳母だと子どもながらに考え至ったんだろう。
それであの愚かしい質問をしてしまったわけだ。
私のことを愛しているのか?と問われた瞬間の、あの時の疲れ切った乳母の、醜く歪んだ恐ろしい顔が忘れられない。
この世の者ではないような、憎くて恨めしくて仕方のないような、言葉では全てを表現しがたい……身の毛もよだつような表情だった。
つまり、そういうことなんだろう。
下流階級の人間には母などいない。父も、兄弟も、愛してくれる人などいないのだ。
それでも、それでも私は……
「私は……ああはならないよ……」
あんな惨めな居なくなり方などしない。
例え私に母がいなかろうと、誰も愛してくれる人がいなかろうと、そんなことは関係ない。
決してあの乳母のような人間にはならないと誓った私は、下流階級の乳幼児施設内で順調に育ち、無事に8歳を迎えていた。
夢を壊され地獄を突き付けられる……8歳を迎えていた。