「うわあ……これが風?気持ちいい」
初めて乳幼児施設から出た時は、本当に感動した。
少し肌寒い季節だったけど、それでも肌に触れてくる風が感じたことのない心地良さだったのを今でも覚えている。
今まで汚いゴミ処理現場で働くなんてごめんだと思っていたけど、寝かしつけ担当でいたことを少しだけ後悔した。
こんなに外の空気が気持ち良いことを知っていたら、私もゴミ処理現場で良いと選別の時に断っていたかもしれない。
「やっとだなあお前ら!元気に行ってこい!」
「はい!今までお世話になりました!」
いつも乳幼児施設の出入り口にいる監視員が、大型の車に8歳児たちを次々と誘導する。
男児は5歳の時点でこの車に乗り施設を後にするが、女児に関しては8歳の年で出て行く決まりになっていた。
理由は詳しくわかっていなかったけど、おそらく赤ん坊の育児に協力出来るのが女児の6から7歳児だったんだろうと思う。
実際に疲れた乳母たちの身の世話までやってのけていた、優秀な私がその証拠だ。
そんな私も、今日からやっと外へと出られる。
閉鎖的な空間でこなす仕事なんかじゃない。
もっと自由に、私の力を存分に発揮できるような、そんな環境へと行くことが出来るんだ。
鼻高々に、どんな難しい仕事でもやってのけると息巻いて、周りをきょろきょろと見渡す。
大型車の入り口にずらっと列を作って並ぶ8歳児の女の子たち。
私は後ろの方で自分の番はまだかとワクワクしながら浮足立っていた。
「おお!今まで寝かしつけご苦労だったな!」
「……!」
私の乗車する番がやってきて片足を車に乗せた瞬間、監視員に声を掛けられる。
すぐに相手へ目線をやれば、昔絵本の読み聞かせをしてくれた、他の中流階級の人よりは比較的優しいおじさんだった。
「今まで優しくしてくれてありがとうございました。お世話になりました」
乗せていた片足を一旦下ろして、真っすぐ監視員に身体を向けてお辞儀をする。
そんな私を見た監視員が声を出して笑った後、私の肩に右手を乗せて呟いた。
「いやあ、これからは俺が世話になるからなあ!ハハ!仕事一生懸命頑張れよ!」
「……?ありがとうございます!仕事頑張ります!」
これからは俺が世話になる、と言われたことには疑問を持ったが、これからの仕事を応援してくれたことにお礼を述べる。
次に就く仕事で何らかの関わりがあるのかもしれない。
そう思い、これからもよろしくお願いしますと頭を丁寧に下げて、車の中へと乗り込んだ。
私の予想では、ここから子供たちの能力の差で就く仕事の内容が大幅に変わってくるはず。
7歳児が、ゴミ処理現場と新生児の世話係で振り分けられたように、今後は能力次第で差がかなり開いてくるはず。
乳母のような未来になるのかどうかは、今ここから全てがかかっているんだ。
ぐっと両手を強く握り、姿勢よく座席に腰かけて意気込む。
少し緊張していると、先に隣で腰かけていた女の子が鼻で笑うように話しかけてきた。
「フッ……何?緊張してんの?」
「……。」
「寝かしつけ担当の子だよね?外初めてだから緊張してんの?ハッ!アホらし」
更に小馬鹿にしたような表情で蔑まれて、思わず眉間に皺を寄せる。
私が返答せずに沈黙していると、苛立った様子で舌打ちしている音が聞こえてきた。
「あんたがここから出てゴミ処理とかやったらさー、やっとわかるんじゃない?本当の仕事の辛さとかさー」
『お前がここから出て外の世界を知った時に、やっとわかるんだろ……私の言ったことが』
女の子の声をきっかけに、半年ほど前の、乳母から言われたことが蘇ってきて脳裏をよぎる。
隣に座った彼女の態度が、どこかあの乳母に似ているような気がして、それで変な錯覚を起こしてしまったんだろう。
今思い出すのは絶対に得策じゃない。
何かと足を引っ張ってくるようなことばかり言ってきた乳母のことは、大事なこの旅立ちの日に思い出すべきじゃない。
「施設ん中ばっかで外に出たこともないようなあんたなんかに、これからやっていけるとは思えないけどー」
『……夢見がちなお前には、何言っても無駄だろうよ』
「ッ…?!」
バッと勢いよく立ち上がり、空いている席はないかと探して辺りを見回す。
もうこれ以上乳母のことを思い出さなくて済むように、すぐさまその場から離れて一番後ろの席まで移動した。
私が後ろに座った途端、さっきまで隣にいた女の子が大声で此れ見よがしに叫んでくる。
「えーやだ!あれくらいでショック受けてんの?」
「……。」
「広くなってよかったー!2つとも私の席ね!足伸ばせんじゃんサイコー!」
ゲラゲラと笑う声さえも、何故か乳母のものと重なって聞こえる。
必死で脳内から追い出すように頭を左右に振り、窓から見える外の景色を眺めた。
少しだけ開いている窓の隙間から、新鮮な空気が入ってくる。
冷静になれと諭すかのように冷やしてくれる風のお陰で、車が発進しても平常心を保つことが出来た。
でもそれも……目的地についた途端、不可能になる。
かなりのスピードで走っていた大型車が完全に停止して、エンジン音が聞こえなくなった時から……不可能になる。
「……なんだろ、あれ」
ここが移動場所かと再度窓の外を注視すると、大きな大きな謎の建物が見える。
赤くて太い柱が2本。後から知ったのは、それが鳥居というもので、本来は神聖な場所の入り口に建てられるものなのだと知った。
そしてこれが、私達、下流階級の女の……
「……よし!立て!お前ら!査定の時間だ!!服全部脱げ!!」
……地獄の入り口だとは、思いもしていなかった。
「な、に……言ってんの?」
ざわっと、一瞬で場の空気が凍り始める。
運転手の命令に動揺が隠せない中、大型車の出入り口から見たこともないような男が入って来た。
全身黒っぽい服に、ガタイのしっかりした大柄の男。
異様な雰囲気を醸し出しながら、面倒くさそうに欠伸をして車内中央まで歩みを進めてくる。
「こっからは警察官立ち会いの元、査定に入るからな!みんな速やかに言うこと聞いて服脱げよー」
「……?!」
もう一度口に出された『服を脱げ』という単語に、その場にいた全員が顔面蒼白になる。
最初に聞こえた指示は聞き間違いではなかったのだと、現実を突き付けられた。
「な、何……それ、どういう…こと?」
混乱してその場で固まり続ける8歳児の女の子たち。
誰1人言われた通りに服へ手をかける者はなく、遠くにいる運転手と中央にいる黒服の男へ交互に目を向けていた。
はあっと一際大きく溜息をついた警察官らしき男が、右腰の後ろ辺りに手を伸ばす。
こちら側からは何をしようとしているのか見えなかったけど、車の前の方にいる女の子側からは何をしているのか見えたみたいだった。
前列にいた博識で情報通な1人の女の子が、勢いよく両手を口元に当てて、悲鳴を抑えるかのような表情で震えだす。
これから何が起こるのかを理解するよりも先に、正義感の強い誰かが大きく抗議の声を発していた。
「服を脱げだなんて…ッ、そんなの、出来ません!」
そう言い終えるか、言い終えないかの間だった。
聞いたこともないような大音が聞こえて、思わず両耳を塞いで身を縮こまらせる。
何が起こったのかを理解した時には、全身の血の気が引いて震えで立てなくなっていた。