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2-3【蝶】

「いやあ、ごちそうさま。良い体験だった。すごいね、これ。なんでこんなにマズいの?」

「主成分が油脂であり、そこに必須栄養素と消化酵素を混ぜ合わせているだけのもの。人間の味覚に対する調整がされていない分、生産コストが低いのだと推測される」

「へー、コストかあ……」

 残りも食べ切って、少年は名残惜しそうに包装をくるくるとためつすがめつしている。相当に気に入ったようだ。

 エレンの怪訝な表情に気が付いたのか、恥ずかしそうに笑って。

「えへ。ぼく、好奇心のバロメーターが高いみたいでさ。新しいこととか、すっごい好きなんだ。そのせいで……おかげで? なんと、【はじまりの声】さまからプレゼントも貰ったんだよ! ストレス値の軽減のためにって」

 エレンは素早くアデルに耳打ちする。

「【はじまりの声】って?」

「天人を総括する司令個体の名前」

「RaSSのリーダーってことか」

「肯定する」

「このケージ。ほら、見てくれよ。すごいだろ、本物だよ」

 少年が示すのは、机の上にぽつんと置かれた籠の中だ。枝らしきものが入っている。

「……昆虫の蛹か、と質問する」

「すごい、正解! ゲノムバンクからプリントしたのを貰ったんだ。正真正銘、旧時代のアゲハ蝶だよ」

「アゲハチョー……その枝が?」

 エレンが訊くと、少年もアデルも揃って首を横に振る。

「違う違う。これだよ、これ」

「んん……?」

 顔を近づけると、枝にひっつく緑のかたまりが見えた。微動だにしないので見過ごしていたのだ。

「説明する……アゲハ蝶、地上ではすでに絶滅している昆虫の一種。このような蛹を作り、幼虫から成虫へと変態する」

「アデルは詳しいね。それで、エレンはそうでもない。ちゃんと基礎教育満了した?」

「うるさいな」

 エレンがわざとらしく顔を顰めてみせると、少年はおかしそうに「あはは」と笑う。

「で、この緑がなんだ? 昆虫……ええと、」昔アンから聞いた知識を総動員して、「虫のことだよな、確か。これが虫なのか?」

「うん。十日前は、ほら。こんな幼虫だったんだよ」

 少年が浮かべたホロディスプレイを操作すると、緑色の虫が空間投影された。サイズは指の先ほど、つまり蛹とかいうかたまりと同じくらいだ。

 地上で虫というと、それはほとんどが牙蟻メコレオのような変異生物のことで、小さなものはほんの数種類程度しかいない。だから幼虫に対する感想も、

「……毒大口ワイアームみたいだな」

「わいあーむ? って?」

「地上の変異生物だ。この部屋いっぱいになるくらいデカくて、毒があるやつ。色は違うけど、形が似てる」

「うわ気持ち悪」

 部屋を見渡す少年。そこでぎちぎちになる巨大幼虫を具体的に想像してしまったらしく、ぶるりと身を震わせた。

「ぼくの蝶はそんな怪物じゃ――ふわあ」

 大きな欠伸。

 そこで、室内にぽろろろん、と低い調子の電子音がゆったり響いた。エレンは何ごとかと身構えたが、少年は平然とした顔で。

「あ、しまった。もう就寝時間だ……お喋りのつづきは起床時間の後だね。あ、ベッド一個しかないや。どーする?」

 言われてみて、エレンは全身に重くのしかかる倦怠感に気が付いた。

 そういえば、地上を経ったのは真夜中だった。軌道エレベーター内で眠りはしたものの、緊張していたし座った体勢だったしで、きちんと休めてはいない。アデルの言う通り、一度しっかりと休むべきかもしれない。

「泊めてもらえるってんなら、そこらの床に転がるよ。アデルも、それでいいよな」

「肯定する。そもそも、自分は睡眠を必要としない」

「え。ベッドで寝ないと、骨格形成に悪影響があるんじゃないの?」

「そうだったら、俺の体は今頃ぐにゃっぐにゃの幼虫みたいになってるよ……いや、大丈夫だ。地上じゃ屋根のあるとこに寝れるってだけで上等だった」

「……屋根が、ない? そっか、外が宇宙じゃないんだ、地上って」

 生まれてからずっと巨大建築物であるRaSSで暮らしているのだろう少年は、興味深そうにエレンの話す内容へ応じていたものの、また「ふわ」と大きく欠伸をして。

「ううん、眠い……じゃ。おやすみ、エレン、アデル」

「おやすみなさい。十分な休息を」

「おう。おやすみ、ええと……」

「三百七十の、百五十六……」

 それだけ言うと、少年は無防備にジェルベッドに横たわり、すぐに寝息を立て始めた。

 途端、部屋を明るく照らしていた光がすうっと消えてしまう。

「うお!?」

「彼のバイタルデータに連動しているのだろう、と推測される。目覚めるまでは再点灯もしない」

「ふうん? 便利だな」

 がさごそ、エレンはパライソで仕入れた毛布を広げてその中にくるまった。


 †


 翌朝、朝食として手持ちのブロックフードと少年の配給食(料理の味がする板だった)を交換して食べていたエレンは、

「あ! 丁度いい、羽化してる!」

 という少年の呼び声で、やけに固い板を噛み砕く口を止めた。

「……ウカ?」

「蛹が、成体になることだ、と説明する」

「ああ、あの毒大口もどきの。どれ」

 立ち上がって籠に近づくと、蛹の背中に亀裂が走って、そこからもぞもぞと何かが這い出ている。

 ほどなくしてぐいっと頭をもたげたそれは、あのうねうねとした空間投影像とはまったく異なる姿をしていた。

「……羽がある?」

「そりゃ蝶だもん」

 何を当然のことを、という口ぶりの少年。

 しかし、災竜という例外を除いて地上に飛ぶ生き物はいないのだ。飛ぶのはレイヴンだとかその母船だとか、天から降りてくる機械ばかり。

「飛ぶ生き物なのか……。でも、あのミニチュア毒大口が、どうやってこんなになるんだ? 全然違うぞ、形が。色とかも」

「ええとねえ。蛹の中で、一回体がどろどろに溶けちゃって、そこから翅とか体とかができるんだって」

「溶けるのか!? 怖いな、旧時代生物……」

「でっかい幼虫のほうが怖いよ」

 男子二人がわいわい話している後ろから、

「……エレン。そろそろ」

 とアデルが声をかけてきた。

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