アデルは一機――否、一人、RaSSの中を駆けていた。
体は充填したエーテルによって軽く、ログにはエラーのひとつもない。
ここ最近はずっと重篤な
不可解だった。
エレンと行くと決めたその瞬間、すっとした感覚が疑似神経回路を駆け抜けていった。エーテルを流したときに近い、しかし灼けつくようなあの高揚よりも透き通った、清涼な感覚。
それは何も心境の変化からくる錯覚というわけではなくて、謎のエネルギーが発生したという
それに、好調になったのはその謎エネルギーが体を巡ってからのことである。
不可解だ。
不可解だけれど、両足で走れていることも、エラー通知にメモリを圧迫されることもないのは良いことである。
不具合に悩まされているならともかく、その逆だ。ならば、この謎につける重要度タグはそう高いものでなくていいだろう。
移動を自動制御しつつメモリの大半を思考にあてがっていたアデルは、しばらく悩んでからそう判断する。
どのみち、片目は直してもらわねばならないのだ。そのときにログを提出すれば、天人の技術者が――全てのレイヴンの開発者であり責任者である
「
『命令を認証。この先は未登録区画です。大気圧は正常、有害物質の検出もありません』
「開門を要請」
『要請を認証』
突き当たった
まだ一割も内部の建設が終わっていないまま放棄されたのだろう。気の触れそうな白に塗りつぶされているそこは、けれどそれを照らすための明かりの一つさえ備えられていない。
照明付きのエアロックが閉じると、ほとんど完全な闇に覆われた。
アデルは視界を暗視用のものに切り替える。これならば、己のエーテル発光による細やかな明かりで事足りる。
未完成区画には通路さえなかった。
作りかけの構造物だろう高い壁が聳えていて、そこに梯子の一つさえ据えられていない。データベースの情報によれば、区画作りは完成まで自動建設機械に任せるはずなので、人間の立ち入る想定を全くしていなくとも不思議はなかった。
それに幸い、アデルは――少なくともその肉体は、人間のそれではない。
ばさり、と。
アデルの双翼の片方がはためき、もう片方が赤の光を帯びる。
リィングラビティ、反重力機構の働きによって、アデルは悠々と空中を通り抜けていった。
上から眺めてみると、ここはどうやら居住区画予定地だったようだ。
それも、天人の居住区画のような狭苦しい場所ではない。構造物はビルのように聳え、天井には貼りかけの疑似太陽光パネルが見受けられた。
移動はまた自動制御に移し、アデルは再びメモリを現状処理に費やす……つまり、物思いに耽る。
単身での移動に、現状さしたる問題はない。このままなら、あと数時間も進めば目的地に辿り着けるはず。
(懸念は、RaSSにおける自分の扱いだが――)
まだ【α】だったアデルは、ベル……司令個体である【β】の独断により、一方的に天を追放された。
それはアデルを守るためのことで、そうでなければ自分は今も流民を狩りつづけていただろう。だから恨みがあるということはないが、少なくとも当時のアデルに裏切りの意思がなかったことだけは確かだ。そこを主張すれば、うまく懐に潜り込めるのではないだろうか。
求めるものはいくつかある。
エレンの妹という流民の情報。
地上において破損した自分の修理。
ベルの言っていた【黎明】の意味。
できれば、deltaシリーズの最新機――すなわちdeltaシリーズの初号機たるアデルの妹にあたる【γ】との接触もしておきたい。
どれも、天に協力してもらわねば達成は難しいだろう。
浮かぶのは、勝気な表情をした金髪翠眼の流民のこと。
「ファナゼットの懐柔任務に成功した自分であれば、今度の任務も達成は容易であると推測できる」
真っ暗で真っ白な静寂に、アデルの呟きが溶ける。
たくさんの経験を積んだ。それは、普通の兵器にはあり得ざることだ。指示に従う、それだけが本分であるのだから。
情報を集めることは、恐らくそう難しくない。難しいのは、その先のこと。
「――もしも、
呟く。
当然、想定するべき事象だった。
流民が鹵獲されてすぐに殺される、ということはないように思う。
それならば、自分たちレイヴンがわざわざ
けれど――エレンの妹が攫われたのは、もう五年も前の話だという。
それだけの時間が経っているのなら、話はまったく変わってくる。
生存の可能性がまったくない、とまでは言わない。
けれど、死んでいる可能性だって無視できないほどに高い。あるいは、死とそう変わらないような状態になっているか。少なくとも、一部の流民がレイヴンへと改造させられているのは事実である。
エレンはアンを理由としてRaSSに来た。けれど、アデルはエレンを理由にしてここにいるのであって、アンが直接の行動理念ではない。
生きていればいいとは、思う。思うのだ。
しかし、思うのと現実は別問題だ。そもそも多数の流民を鹵獲した身の上で、そのようなことを思うのさえも冒涜的であるかもしれない。
エレンはその可能性から目を背けている。
それが悪いことだとは言わない。信じることが必要なのを、アデルは心の底から理解している。アデルがエレンを信じねば生きることを選べなかったように、エレンはアンとの再会を信じないといけないのだろう。
だから。
アデルがここまで来たのは、役割は、きっと、それを考えるためで――
――暗視モードのために解像度の低い視界の中に、不審な動体反応を検知。
思考よりも先に体が動く。
素早くリィングラビティの稼働をやめ、足元の構造体に着地。
唱える。
「コマンド:【
途端、瞬間的にエーテルを大量消費して、出力が何百倍にも跳ね上がった。
拳を握り、振り抜く。
轟音。
アデルを潰さんと接近していた巨大な質量は、それだけで数メートル離れた隣の構造物まで吹き飛んだ。
ぺかぺか、とエーテル光が瞬く。
「これは……自動建設機械?」
データベースに収められた旧文明の機械の名と、目の前の姿が一致する。
はるか昔にあったというクレーン車とショベル車を組み合わせたような形をしつつ、多数のマニピュレーターを随所から突き出したそれは、設計図さえインプットして建材を用意すればどんな建築でもオートでこなしてしまうのだというその機械で間違いない。それも、アデルの五倍近い上背をした巨大建築用モデル。
ひっくり返ったまま、マニピュレーターをわさわさ動かすそれを観察する。
「推測する……放棄されたまま、エーテルによりずっと稼働していた……?」
だとしても、お家作りロボットかどうしてアデルを攻撃してきたのか――と、首を傾げる。
建設機械は建設機械で、警備機械でも殺人兵器でもない。機械は決められた役割しかこなそうとしないものだ。
ひとまず距離を取るか、と後ずさった足に、こつんと奇妙な感触がした。かすかな凹みがある。それは、計算によって作られている人工空間においてあり得ないことだった。
原因を探るべく俯くと、違和感の正体はすぐにわかった。
高密度プラスチック製だと思われる構造物に、別の素材が埋没していたのだ。プラスチックの白よりも黄ばんだ色をしたそれが何なのか、建設機械の情報探しのためにアクセスしっぱなし検索機能が勝手にそれの正体を探す。
目を見開く。
「……人の、骨?」
一致率、99.52%の数字。
瞬間、推測が始まる。
全自動建設機械は、与えられた設計図のデータを元にして、用意された素材による建築を行う機械だ。
しかし、作りかけのこの区画内に――アデルが見た範囲だが――素材らしきものは見当たらなかった。
けれど、まだ指令された内容を建設し終えられていなかったとしたら。
RaSSはエネルギーが潤沢だし、旧時代の機械は頑丈だ。だから動けなくなることもなく、未だ指令を達する手段だけを探して彷徨っているのだとしたら。
「推測する……この死体は、並びに自分も、不足分の素材か」
旧時代の機械だろうと、人間を傷つける行為は必ず禁則事項に設定されている。ロボット三原則、という古いSFの決まりごとに近い行動理念が、AIの思考を制限しているのだ。
けれど、人を人として認識するためのカメラ、あるいは判断をするための処理系統がおかしくなっている、というケースは往々にして存在する。……それらが十全だったところで、翼を持つアデルを機械の硬い頭が人間だと認識したかどうかは不明だが。
建設機械は、先ほどの攻撃によって半壊した機体で、しかし再びアデルへと接近をしてくる。恐らく、もう何百年も前に命じられた使命を果たすために。足りないものを、補うために。
苦しみにさえ行き着かぬ、からっぽの苦しみ。アデルは、それを知っている。
一瞬、“話し合い”という概念が浮かんだ。
「コマンド:【
起動させたのは、全ての生命と交信するための機能。
脳、あるいはそれに準ずる箇所に流れる微弱な電気信号を汲み、そのパターンを解析して人の言葉や無線装置との互換性を持たせる万能の翻訳能力。
応答はない。
当然のことだ。目の前にいるのは――否、在るのはただの機械であり、そこに脳も心もない。いくら姉妹機の機能を貰おうと、クラッキングは専門外もいいところである。
分かっていながら、無為な行動をしただけのこと。
あるいは、それが人間の言うところの【祈り】であるのかもしれなかった。
アデルは数秒目を閉じ、すぐに開く。
「コマンド:【
再び唱え、今度は体ごと突進をする。
爆音に等しい音を発生させたその勢いは、もはや巨大な弾丸に等しい。
先ほどは吹き飛ぶだけで済んだ機械は、今度こそその大部分を削り取られて全壊する。
ぎいぎいと、悲鳴のような粉砕音。
後には静寂と、機械だった残骸だけが残る。
命令を忠実にこなそうとする機械への同情も憐憫もあった、と、思う。けれど、アデルにはアデルの使命があるのだから。
二つが相反するのであれば、アデルが兵器である以上――壊し、殺し、戦うために生まれたものである以上、結末はこれしかあり得ない。
目を閉じるかのように、機械からエーテル光の可動ランプが消えた。自分の行動によってもたらされたその終わりを、アデルは黙って見届けた。
この先に待ち受けている希望が、既に死に絶えているとしても。
そのために、他の望みを破壊しつくすしかないのだとしても。
アデルは、生きることを望んだから。
残酷な決断へ向かうための役割を、きっと自分は負っていた。
そうして、先に進む。