口の中がじゃりじゃりする。
目が覚めて一番に感じたのがそれだった。
谷坂綾斗はどこかの島の浜辺に打ち上げられていた。海水で制服はずぶ濡れになり、身体に貼り付いて、まるで粘液でも掛けられたような感覚がして気持ちが悪い。そんな制服をすぐに脱ぎ捨てようとするが、前述の通り張り付いているため、なかなか脱げず、一層のこと破り捨ててやろうかとさえ思えた。
そんな少年の傍らには気を失っている五つ子の誰かが横たわっていた。少年が海に投げ出された時に掴んだ五つ子の誰かの手。それが彼女のようだ。しかし、その少女が誰なのか分からない。
外傷は見当たらないが、綾斗は起きて少女は起きないという状況に些かの焦りを覚える。
「まさか、目に見えないところを怪我したとかじゃないよな。おい、しっかりしろ!」
綾斗が声を荒げて呼び掛け、その手が少女の身体に触れようとした瞬間、少女は意識を取り戻した。
絵面的に見れば、ずぶ濡れで半裸の男子高校生が同じくずぶ濡れの女子高校生を触ろうとしているように見える。さらに目を覚えました少女からしても全身がくまなく濡れていて、それが海水ということもありべたつきも感じる。不快感しかないその状態で男に触られそうになっているとなれば誤解は必至である。
「ち、ちょっとアンタ! ついに本性を見せたわね! このケダモノ! エッチ、馬鹿、変態、クソ野郎!」
少女は頭に血が上り、且つ、恥ずかしさから顔を林檎のように真っ赤にして自身の胸を両腕で隠す。
「お、落ち着けって! まだ何もしてないから!」
「まだ? って言うことは今からな何かするつもりだったのね! 最っ低!」
「いや、だから違ッ……大丈夫か?」
少女は綾斗の弁明を待たずにさらに怒鳴り散らそうとするが、突如、頭部に激痛が走り膝をついてしまう。
「んー。頭が痛い。うわっ服べちゃべちゃだし……もう最悪すぎ」
目覚めて早々綾斗への叱咤に暴言。
間違いなく綾斗と一緒に浜辺に打ち上げられたのは新葉だ。
綾斗はそれが分かると重い溜息をつき、新葉に手を伸ばす。
しかし、新葉はその手を跳ね除け、自らの力で立ち上がる。お尻に着いた砂をはたいてはみたものの海水で濡れてしまっているせいで落ちる気配がない。苛立ちを覚えた新葉は砂を蹴り上げ舌打ちをする。それでも怒りがおさまらないのか、綾斗を睨み付け「何よ!」と目だけで怒鳴ってくる。
綾斗は首を横に振り何もないことを伝えると明後日の方向を見やる。そうでもしなければ殺される気がした。加えて海水で全身くまなく濡れているせいで、新葉の服が透けて中の下着が丸見えなのだ。スタイル抜群の五つ子なのだから新葉も当然のことながら男子高校生を悩殺できるほど出る所は出て、締まるところは締まっている。自然と綾斗の視線は引き寄せられてしまう。このことをどう伝えるべきか思考を巡らせている内に新葉本人が気付いてしまった。
――やばい。殺される。
綾斗はそう思うより他になかった。
新葉の左手にはすでに魔獣を討伐するために作られた対魔獣用コンパウンドボウ――ケストレル・改が握られていた。その洋弓はコンパウンドボウなのに滑車の部分は見当たらず、代わりに弦をしぼると弓の両端が折れ曲がるように変形する仕組みになっている。リカーブボウとコンパウンドボウの特徴を合体させたような見た目のコンパウンドボウなのだ。さらに右手に矢が生成され、今にも弦につがえようとしている。
本当に射る気なのか、と思い綾斗は身構える。
「ちょ、ちょっと待っ……た……?」
新葉は綾斗の静止を聞かずに瞬きする間もなく、つがえた矢を射った。
矢は綾斗の頬のすぐ横をすり抜けていった。
不思議に思った綾斗が振り返ると、そこには脳天に矢が突き刺さった犬のような姿をした魔獣が倒れていた。
「いつかの借りは返したわよ」
「あ、ああ。ありがとう」
礼を言ったものの綾斗からしてみれば、いつ借りをつくったのか覚えていない。身に覚えのないことに問い返したいところだが、事態は深刻らしい。不意に空を見上げた新葉の表情には魔獣を倒したことによる安心した様子は伺えない。それどころかどんどん青ざめていく。綾斗が「どうしたんだ?」と尋ねる前に新葉の視線を辿った。
「龍がいない……だと……」
「馬鹿、よく見なさい。雲が近過ぎるわ。それに水平線だって雲が壁になって見えない。おそらくだけど五キロ先は雲海よ」
「上手いこと言うな。海を隔てた雲だから雲海ってか? でも、実際の雲海は雲より高い所から見た、海みたいに広がる雲のことだよな」
「うっさいわね。そんなこと知ってるわよ! それと雲だけじゃないわ。さっきの魔獣の気配感じた? 私は全く感じなかったわ。気付いたのは、たまたま浜辺の砂が微妙に動いたのとアンタに私の下着を見られて苛立ったからよ」
「なるほど。って言うか見てないから! 下着とか見てないから! ちょっと大胆だな、とか思ってないから! あっ! いや……今のは……」
「帰ったら覚えておきなさいよ、この変態! それに! この私のスタイルの良さに引かれない男なんていないのよ!」
「どんだけ自分に自信があるんだよ」
綾斗が言うと新葉は鼻を鳴らしてそっぽ向く。
この島に来て分かったことは二つ。
一つは島全体が雲に覆われていること。
二つ目に魔獣を感知することができない。と言うよりも他の姉妹の気配に加えて魔力そのものを感知することができないこと。
完全に孤立してしまったようだ。
その事実に新葉もまた奥歯を噛み締めるのだった。