どれくらい気を失っていたのだろうか。
綾斗は憂鬱そうに身体を起こそうとするが、いかんせん右の脇腹が痛い。それでも起き上がる分には回復出来ているが、やっぱり痛い。おまけに気絶したことで自室に運ばれていたのかと思えば訓練場の隅の方で寝かされているだけだった。
額には申し訳程度に濡れたタオルが置かれているが、季節が真夏と言うこともあり、気持ち良かったりする。
「気が付きましたか?」
ライトグレーのポニーテールが特徴的な夏目が綾斗の顔を覗き込みながら笑みを浮かべて言う。
しかし、綾斗からしてみれば五つ子全員が同じ容姿に見えているため誰が目の前にいるのか全く見当がつかない。強いて言うなら髪が長いことから夏目か新葉のどちらか二択までは絞れる。
「そんなに見つめられても何もありませんよ」
どうやら長く見つめ過ぎていたようだ。
綾斗は一言「ごめん」と言って訓練場の時計を見やる。すると表情は一変して目を見開き、右脇腹の痛みを忘れて勢いよく立ち上がる。直後に突き刺さるような激痛に苛まれるも右手で押さえるだけで何とか耐える。
夏目は綾斗の急な言動に驚いてしまい、尻を着けづに座っていたせいで尻もちをついてしまった。少女は頬を膨らませながら「どうしたんですか?」と問い掛けつつスカートをはたきながら立ち上がる。
「今日、駿河とデパ地下に行く約束してたんだ」
そして、秋蘭がよく助っ人に行っている陸上部の部員でもあり、担当種目は短距離走で学年一の走力と脚力を持ち合わせている。しかし、二年生と三年生の先輩部員の実力が凄すぎるためかあまり目立っていない。
だが、綾斗からして見ればその目立たなさがどこか不自然で、言うなれば故意に目立たなくしているようにも見えた。琥珀本人が特に気にしている様子がなかったため、綾斗も言及することはなかった。
「それで待ち合わせ時間は?」
「十分後」
間が合った。
途端に夏目の脳内を稲妻が落雷する。あまりに衝撃的な綾斗の発言に夏目は大口を開けて目を見開いていた。お嬢様らしからぬ表情を浮かべた少女がそこにはいた。
綾斗もまたどうしたものかと頭を抱える。誘ったのが綾斗本人であることも夏目に伝えると少女は停止した思考回路が暴走に慌てふためき始める。
「と、取り敢えず着替えましょう!」
「着替えならリュックに入ってある」
夏目は綾斗の手を引き、強引に更衣室の中へ放り込んだ。
「早く着替えて下さい!」
「分かったから少し落ち着けって。なんでお前が焦ってんだよ」
綾斗は言いながら着替え始める。
「訓練は元はと言えばこちらの……タロット戦争のために行っているものです。これ以上アナタのプライベートを奪う訳にはいきません。アナタはちゃんと覚えていないかもしれませんが、ハイエロファントとチャリオットに襲われた際も同じ話をしたんですよ!」
「戦ったことそのものが無かったことになったんだっけ? まあ、訓練のことは気にしなくてもいいぞ。梨乃と過ごせる時間、友達と過ごせる時間があるなら俺はそれだけで十分だから」
「それは……アナタが納得していても私は出来ません。仮にアナタが目指すヒーロー像が家族と友人との時間を守りつつ、他者を守り続けることだったとしても、私は……認めたくありません」
夏目は俯きながら言う。
いったいどうしたんだ? と言いたげな表情を浮かべて綾斗が更衣室から出てくる。
「何かあったのか?」
「いえ、ただ……もし今タロットの魔獣が現れればまともに戦えるのは秋蘭と谷坂さんだけなんです」
「エンペラー戦はきつかったもんな。皆へとへとだったし」
「今の私が出来るのはここまでです」
夏目はそう言って右手を軽く振るい、身の丈ほどある杖をその手に転送させる。そのまま手慣れたように綾斗の足元に魔法陣を展開する。
「待ち合わせ場所は?」
「ん? 駅前だけど。て言うか前から気になってたんだけどさ。どうやってその杖を出してるんだ?夏目の身長ぐらいの長さがあるのに。どうやってもポケットやら服には入らないよな?」
「今、それを聞きますか?」
「気になったから」
「まったく……ホントに、アナタと言う人は……」
夏目を心底呆れた様子で空いた手で顔を隠すが、すぐにその手をどかして杖の中間を指差す。そこには小さな魔法陣が描かれており、中心には夏目の『夏』の字が書かれていた。
「あ、そういうことか」
綾斗は夏目の得意とする魔法が転移魔法だと今まで一緒に戦い、訓練をしてきたことで知っている。その見慣れた魔法陣の中心に書かれた『夏』という文字から、印をつけたものをその場に転送できる、もしくは自身を転送できる魔法だと理解できた。
夏目はやれやれと言った面持ちで綾斗が見慣れた魔法陣を少年の足元に展開する。そこでようやく綾斗は夏目が何をしようとしているのか分かった。
「それではいってらっしゃいませ」
「ありが――」
綾斗が言い切る前に夏目はわざと転移魔法を発動させた。
――礼を言われる資格なんて私にはない。
夏目は表情を暗くしたまま訓練場を後にした。
☆☆☆☆☆☆
「――とう」
急に目の前が真っ白になったかと思えば駿河琥珀との待ち合わせ場所である駅前に転送されていた。初めて転移魔法を使って転送された時は副作用で酔ってしまい、そのまま気絶してしまったことが懐かしく思える。人間慣れれば何でもできるんじゃないか、とさえ思えた。
綾斗は少しの目眩が残るが気にせず辺りを見回す。結果的に待ち合わせ時間の五分前に到着できたことに安堵の息を漏らす。
少年は琥珀の姿が見られないため、一先ず近くにあったベンチに腰掛けることにした。
町を照らす陽光は日に日に増していき、蝉の鳴き声がけたたましく脳裏に響く。じりじりと額からは汗が流れ始め鬱陶しさすら感じられる。
「夏休みかぁ去年は何したっけなあ」
綾斗はぼんやりした表情を浮かべながら雲一つない青空を見上げる。
次の瞬間、視界いっぱいに見知った顔が現れる。
待ち合わせ相手の琥珀だ。
「うわあああああ!」
綾斗はすっとんきょうな声を上げて慌てふためき危うくベンチから転げ落ちそうになる。
「す、すいません。まさかそんなに驚くとは……ほんと、ごめんなさい」
違う。
確かに急に現れたことには驚いたが、綾斗が本当に驚いているのはそこではない。気付かなかったのだ。自身の背後に琥珀が近付いていたことに、視界いっぱいに美少女の顔が広がるまで全く気付かなかったのだ。そこまで疲労していたとは思えない。もう右脇腹の痛みは引いている。
少年は学生としてビッグイベントである夏休みに加えて、久々の気の休まる休日に気を抜き過ぎていたのだろう、と思う他なかった。
驚愕する綾斗とは対照的に目の前に立つ美少女からは、まるで綿毛のようにふわふわとしたオーラが感じられる。純真無垢な証拠だ。とても気配を殺して背後を取る人間だとは思えない。
服装はデニムショートパンツに白のワンポイント半袖シャツ。靴はキャンバススニーカーとシンプルだが、カジュアルにまとめられていて琥珀の可愛さがより際立っている。また、短い白髪に黄色いカチューシャが乗っているため嫌でも他人の視線を集めてしまう。
「そんじゃデパ地下に行きますか!」
「はい!」
綾斗は意気揚々と腰を上げ地下街に通じる自動ドアへと歩を進める。
琥珀も嬉しそうに綾斗の隣を並ぶように歩き始める。
『琥珀たん? なにやら妙な気配がするけど、このまま
突然の声に琥珀は肩をビクつかせる。漫画やアニメに出てくる太ったキャラクターが発する野太い声が急に聞こえたのだ。
しかし、隣に並ぶ綾斗にはその声が聞こえていないのか、心の底から楽しそうに笑みを浮かべて歩いている。
琥珀はそんな少年の無邪気な姿に心を躍らせながら答える。
『いいの。まだ私の出番は無さそうだし。そ、れ、に……先輩がどれだけ強くなったのかも知りたいからね』
琥珀は心の中で不敵な笑みを浮かべながら言った。少女は列記とした伝心魔法を応用した魔法を綾斗の隣で使っているにも関わらず、全く気付かない少年に可愛さを覚え、今にも抱き着きたくなる衝動を抑えるので必死だった。
そんな琥珀を野太い声の持ち主はただ深層心理の世界で見守るのだった。