地下街の通路を駆け抜ける一つの影。タイルが敷き詰められた通路とそれに反射する天井の明かり。左右には衣類やアクセサリー、鞄といったファッション専門店が立ち並んでいる。本来なら客や店員で賑わっているはずなのだが、今は人の気配が一切感じられない。
客はおろか店員の姿も見られない。店を開けた状態で店員がいなくなるなんてまずあり得ない。
「人払いの魔法か」
通路を駆ける影――谷坂綾斗は以前夏目が使っていた魔法を思い出す。
魔法の存在は公にしてはならない。そのために作られたのが『人払い』という魔法だ。効果はその名の通り効果範囲内にいる一般人をその場から無意識に遠ざけることができ、さらには近づくことさえさせない。魔法使いなら誰でも使える、いや、使えなければならない基礎中の基礎であり、最重要的な魔法である。
だが、展開されている『人払い』は綾斗が張ったものではない。そもそも綾斗は未だにタロット以外の魔法を扱うことが出来ない。強いて言うならば顕現させた武器に刻まれた魔法を扱えるくらいだ。
「秋蘭が使ったのか? クソッまたここか!」
現在、綾斗は一人でデパ地下を尋常じゃない速さで徘徊している。魔力を纏っていることで通常の倍以上の速度で走っているが一向に秋蘭と琥珀の下に辿り着くことができない。
先程から同じ場所を永遠と走り続けているのだ。
綾斗は舌打ちをして自分の愚かさを呪った。
そして、同時に思い出す。
いつかの魔法訓練で夏目から聞いた言葉を。
「早まるなよ、秋蘭!」
夏目の言った言葉。それは魔法に関してド素人である綾斗でも信じ難い事実だった。
『秋蘭は魔力弾を放ったりすることができません。使える魔法は身体能力強化と『空間捻動』だけです。人払いの魔法はかろうじて使えるようになりましたが、それも最近です。なので一緒に戦う時は――』
「俺が後方支援する」
気が緩んでいた訳ではない。それでも油断はしていたかもしれない。タロット戦争も順調に進んでいる。綾斗自身もフールを合わせれば三枚も所有することができている。
気持ちが緩んでしまうには十分過ぎる。
――勝って兜の緒を締めよ。
綾斗は誰かにそう言われた気がした。
☆☆☆☆☆☆
時間は綾斗が秋蘭と琥珀とはぐれてしまう少し前まで遡る。
魔法使いであることがばれてしまった綾斗と秋蘭は、一先ず琥珀を守りながら魔獣と戦うことに決めた。
「二人とも前衛だからどっちかが攻めなきゃな」
「やっぱそうなりますよね。幸い、あの魔獣走っては来ないみたいですし、魔力弾を撃ってこない限りは大丈夫だと思いますけど」
大丈夫、とはつまり二人が捌ききれない攻撃が来ないということだ。
四足歩行の魔獣の姿形は狼だが、首はキリンのように長く、尻尾は蛇のように細長い。
「なあ、あれだけ急所がはっきりしてるから、俺が斬った方が早くないか?」
「んーブラフかもしれませんよ? 首を引っ込めてバネみたいに飛び出してくるかもしれませんし」
「それは……漫画の読み過ぎだろ、とも言えないな。確かに可能性は否定できないし、実は胴体までが口ってこともあるよな。一見して狼であることに変わりはないみたいだし」
綾斗がそう言った瞬間、魔獣が吠えた。
それも、とてつもなく情けない声で。
今まで戦ってきた魔獣が全て野生の本能を剥き出しにした猛り狂ったものばかりだったこともあり、拍子抜けも拍子抜けと言った感じが否めない。
ついには我慢しきれず二人は吹いてしまった。
「見たかあのおちょぼ口」
「なんか段々可愛く見えてきました」
二人の背後では鋭い眼光で琥珀が魔獣を観察していた。
(おかしい。いくらなんでも殺気が無さ過ぎる。これって……明らかに誘ってるよね。なら案外ピンチなのはこっちかも。それに人払いの魔法も使われてるし。一応聞くけど『デス』が人払いした訳じゃないよね?)
『もちろん、僕は何もしてないよ。人払いを張ったのは「ホイール・オブ・フォーチュン」だね。アイツの魔法は人がたくさんいる所ではすぐにネタバレしちゃうから』
(すぐにネタバレねえ。あ、私ネタバレ絶対許さないウーマンだから絶対にアイツの能力言わないでね。自分で当てたいから)
琥珀は相棒の『デス』の言葉を受け、表情では怖がっているものの内心では相手の魔獣――ホイール・オブ・フォーチュンを真剣な面持ちで観察する。
三人が思い思いに魔獣を観察する中、当の魔獣はただ歩いて近付いてくるだけで何もして来ない。威嚇のつもりなのか、尻尾を一定の間隔でタイル張りの通路に打ち付けているが傷一つ付いていない。
残る脅威として尻尾での攻撃を警戒していた三人は拍子抜けとばかりに肩を落とす。
「秋蘭、俺が行くからもし何かあったら琥珀をここから連れ出してくれ」
「縁起でもないこと言わないで下さいよ。多分大丈夫だと思いますけど……気を抜かないで下さいね」
綾斗は頷いて沈み込むように深く構える。そして、流れるように駆け出し一息に魔獣との距離を自分の得意とする距離に置き換える。
瞬きよりも速い超加速によって生み出された風圧が秋蘭と琥珀の髪を翻す。
まさにその時だった。
綾斗の姿が消えた。
目にも止まらぬ速さで駆けたからではない。まるで見えない扉を潜ったかのように綾斗の身体が消えていったのだ。
次の瞬間、二人の背中に悪寒が走り表情が青冷める。
そして、それを見計らったように魔獣は姿を消していた。
(やられた! 完全に攻撃を誘われていた!)
琥珀はハッとした表情を浮かべて魔獣が消えた場所、いや、綾斗が消えていなくったであろう場所まで突っ込もうとするが、それよりも早く秋蘭が琥珀の身体を固定器具のように抱き締め駆け出していた。そう。もう駆け出していたのだ。
秋蘭にとっての一瞬の加速は、魔力を一切纏っていない琥珀にとって殺人的なGが掛かっているも同じであるため意識が飛びそうになる。
しかし、裏を返せば琥珀が意識を保てるような速度で走れないほど秋蘭が焦っていることになる。そう考えると琥珀は意地でも気絶してなるものか、と歯を食いしばり、全身を強張らせながら秋蘭が失速、もしくは止まるのを待つ。
「ごめん。綾斗くんは私が何とかするから……琥珀ちゃんはこのまま出口まで……?」
秋蘭は琥珀の様子を確認する余裕もなく、それでも途中で喋るのを止め、両足を滑らせるように急制動を掛けて訝し気な視線を辺りに向ける。
琥珀もある違和感に抱きつつも、ようやく止まったことに安堵の息を漏らして秋蘭からそっと離れた。
秋蘭は『
「同じ通路が続いている」
「秋蘭先輩、化け物が現れてから私達以外に誰か人を見かけませんでしたか? 少なくとも私は見ていません」
「『人払い』の魔法だと思う」
秋蘭は顎に手を当て深く考える。
(駄目だ。秋蘭先輩じゃこの場に対応し切れてない。夏目先輩がいれば何とかなるんだろうけど)
琥珀は秋蘭を置いて綾斗を探しに行きたい気持ちを必死に押さえながら辺りの異変を分析する。焦る気持ちが募り、琥珀がついに秋蘭のすぐそばで力を使おうとしたまさにその時だった。
またしても先程と全く同じ魔獣が姿を現したのだ。
秋蘭は琥珀を自分の間合いの内側に入るように伝え構える。
「少なくともこっちから攻撃しなければ消える心配はない、と思いたい」
「あの、谷坂先輩は?」
「綾斗くんなら大丈夫。綾斗くんの魔力は独特だからすぐに感じ取れる」
「魔力? さっきからいったい何の話をしてるんですか? それにあの化け物も何なんですか?」
我ながら迫真の演技だ、と思いつつ琥珀は鋭い眼光を閃かせ秋蘭の背後から魔獣の挙動の一つ一つを観察する。
秋蘭は秋蘭で琥珀の問いに簡潔に答えるので必死だった。そんな姿を見てしまったからか、問い掛けた本人は心の中で申し訳なさそうにしていた。
「せめて先輩と連絡が取れれば」
琥珀は静かに呟きつつスマートフォンを取り出すが予想通り圏外だった。