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第72話

 自分の名を呼ぶ声。


 聞き覚えのあるその声の持ち主は焦燥感を孕ませた表情を浮かべて今にもその場から駆け出しそうになっていた。


 秋蘭は左頬から全身に伝わった鈍痛と衝撃に苛まれながらも、ぐちゃぐちゃになった意識をたったの一言で正常に戻す。


「大丈夫!」


 秋蘭のオレンジ色の瞳に生気が戻る。


 綾斗は秋蘭の言葉に確かな覇気を感じ、駆け出そうとする足を止め、静かに琥珀の身を守るために身構える。


 綾斗には秋蘭に起きた衝撃の瞬間が見えていたのだ。


 そして、秋蘭もまた何が起きたのか察しがついたのか、口の端から垂れている自身の血を拭う。ついでに口の中を舌で確認するが、口いっぱいに鉄の味が広がっているため、気持ちが悪いことこの上ない。加えて、何かが口内を転がっている。舌先で形を確認してから掌に吐き出す。


「流石、私の一撃って感じ」


 掌には秋蘭の左の奥歯が転がっていた。


 秋蘭を襲った悲劇。それは相手がホイール・オブ・フォーチュンだからこそ無暗に拳を全力で突き出してしまった秋蘭が全面的に悪かった。


 秋蘭は自身だけでなく、大切な姉妹まで侮辱されたことで憤怒に身を任せた。その結果、感情の爆発とともに今までにないほどの魔力の上昇を実現することができた。しかし、爆発させた感情が怒りだったこともあり、著しく向上した魔力を振るうにはいささか繊細さに欠けていた。


 少女は怒りのままに右拳に強大で膨大な魔力を込め、ホイール・オブ・フォーチュンのキリンのような長い首についた頭部を殴ろうとしたのだ。その拳の威力なら無防備に突き出されている頭部をひしゃげさせ、脳髄を飛び散らせることも可能だっただろう。そんな一撃を心優しく少女は怒りのままに解き放った。


 当たればホイール・オブ・フォーチュンのカードは手に入っていた。だが、現実はそう甘くは無かった。


 秋蘭の渾身の一撃がホイール・オブ・フォーチュンの顔面を捉えるまさにその瞬間、周囲を浮遊していたフラフープのような輪っかが顔面と右拳の間に突如出現したのだ。勢いの乗った拳は冷静さをかいた秋蘭では止めることができず、右拳は吸い込まれるように輪っかを越え、次に右拳が現れたのは秋蘭の左頬のすぐそばだった。


 そのまま振り抜かれた右拳は全ての勢いと膂力を自らの左頬に叩き込み、少女の意識をかっさらっていくはずだった。


 少なくともホイール・オブ・フォーチュンはこの一撃で戦闘が終わると思った。


 しかし、少女は倒れなかった。


 少年の声を聞いたのもそうだが、ここで倒れる訳にはいかない理由が少女にはあることが分かった。


『一撃だ。我に一撃でも当てることができれば、お嬢を我の主としよう』


 秋蘭は自分の拳のせいで耳までおかしくなってしまったのかと疑ってしまう。


 それでもホイール・オブ・フォーチュンの提案を拒否する理由はない。


「いいでしょう。私の意地を見せてあげます」


 意を決した秋蘭は再び構えゆっくりとホイール・オブ・フォーチュンの正面に陣取る。


 ホイール・オブ・フォーチュンは不敵な笑みを浮かべて周囲を浮遊する六つの輪っかの内、三つを正面に展開する。


 秋蘭は先程の一撃で輪っかの向こう側がまた自分の近くの空間ではないかと推察する。


 しかし、それがなんだと言うのだ。


――私は姉妹の足手まといなんかじゃない。


 それを証明するために真っ向勝負で目の前のタロットを倒す。


「お前、馬鹿だろ」


 突然の声に秋蘭は振り返る。


 そこには琥珀を守っていたはずの綾斗が左手に双魔剣の片割れ――グラムを握り立っていた。


 秋蘭は訳が分からず目を丸くする。


 だが、ホイール・オブ・フォーチュンはやはり来たか、と言いたげな表情を浮かべて綾斗を見つめる。


「秋蘭、お前の目指しているものってなんだ?」

「ち、ちょっと待って! あ、待って下さい! ホイール・オブ・フォーチュンは私が倒しま――」

「質問に答えろ!」


 秋蘭の言葉を遮って綾斗は声を荒げ、鼻先がぶつかりそうになるくらい顔を近づける。


 秋蘭は今までにない綾斗の凄みに気圧され後退ってしまうが、それは即ちホイール・オブ・フォーチュンに無防備な背中を晒しながら近づいていることに他ならない。


 綾斗は顔をしかめて一度その場から離れるために秋蘭をお姫様抱っこをして琥珀のいる背後まで大きく跳躍する。


「え、え? 何、なんで?」


 秋蘭は突然の展開に顔を真っ赤にしてあたふたしながら綾斗とホイール・オブ・フォーチュンの顔を交互に見る。


「落ち着けって。降ろすから暴れンあああああああ!」


 他の姉妹だったら一緒にこけずに済んだ。後に綾斗が語った言葉である。


 秋蘭の抜群の身体能力を持ってすればお姫様抱っこを崩すなんて容易いことだ。ただ、恥ずかしさや、照れ隠しのためとは言え、魔力解放をした状態で暴れればいくら綾斗でもバランスを崩して盛大にこけてしまうのは当然である。


「いてててて……」

「あ、謝りませんからね!」


 奇しくも綾斗を下敷きにする形で転げてしまったため、少年が背中を強打するだけで被害はおさまった。では秋蘭はどうなったかと言えば、綾斗の腹部に深々と座る形で難を逃れていた。


「く、くるしい……」

「な、私そんなに重くないですよ! 体重は他の姉妹と一緒なんですから!」

「いや、どんだけ軽くても……人間が勢いよく腹に乗れば子どもでも苦しいだろ……ど、どいてくれ……」


 秋蘭は頬を膨らませてから立ち上がる。


 すると綾斗は「やっと解放された」と言わんばかり立ち上がってから大きく深呼吸する。


 それを見た秋蘭は余計に腹を立てる。


「むー綾斗くんのエッチ!」

「なんでだよ!」

「女の子を急にお姫様抱っこしたり、お腹の上に女の子を乗せるなんてエッチです!」

「なんでそうなるんだよ。それより……」


 綾斗は視線を秋蘭からホイール・オブ・フォーチュンに移す。


「それよりって……」


 秋蘭も綾斗に釣られてホイール・オブ・フォーチュンを見やる。


 二人が言い合いをしていた最中に決定的な隙ができていたにも関わらず、ホイール・オブ・フォーチュンは攻撃して来なかった。それどころかどこか面白いものを見るかのような目で二人を見つめている。


 綾斗はこのまま戦っても今の秋蘭では勝てないと直感していた。


 だから止めた。


 それでも彼女の目にはまだ闘志が宿っている。冷静させるには今しかない。

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