ジブリールとクレアは夕飯の時も荷台から一歩も出なかった。シド曰く念には念をということらしい。
アルと馭者だけ外で夕食を済ませて、そのまま交代で夜の見張りをすることになった。馭者にそこまで任せて大丈夫なのかとシドに聞くと、馭者の正体はシドお抱えの聖騎士らしい。いつも遠出する時はこうして馭者に変装しているのだとか。
夜の見張りは最初が馭者で途中でアルに交代という形になった。そのことを皆にバレない様にクレアに告げると、「では、アルさんの番になったら窓を小さくノックしてください」と言い、ジブリールやシドと一緒に荷台に戻って行った。
『ニブルヘイムにダルク教の司祭を送る使命のことでお話したい事があります』
ということだったが、一体何を話すのだろうかと考えながら眠りに就いた。
肩を揺さぶられ、馭者に起こされる。どうやら交代の時間らしい。
まだ眠たい目をこすりながら焚火の前まで行き、薪をくべる。
馭者が眠った事を確認し、足音を立てない様にゆっくりと荷台に近づき、窓を小さくノックする。
すると、荷台のドアがゆっくり開きクレアがキョロキョロと周囲を気にしながら外へ出て来た。
「ジブリールとシド大司教は?」
「大丈夫です、眠っていて気づかれていません。馭者さんは?」
「こっちも大丈夫だ。よく眠ってるよ」
お互いの状況を確認し、二人は万が一誰か起きてきてもいいように野営場所の奥にある森の中へと身を潜めた。
周囲を確認し、誰も居ないことを確かめたアルが話を切り出す。
「話したい事ってなんだ?」
「ワタシ達はお父様──ニブル王から司祭をニブルヘイム王国に送るという使命を課されましたよね?」
「ああ、そうだな」
「無事神聖ダルク法王国に着きましたが、内情は色々複雑なようです」
「確かにな」
「私達の使命を果たすには、大司教様が枢機卿に勝たなければなりません」
「大司教の味方をするってことか……」
大司教を勝たせるということは、ダルク教という宗教内の対立によそ者が首を突っ込む形になってしまう。はたしてダルク教徒達はそれを良しとするのだろうか──
「アルさんが心配している事は分かります。ですが、こちらにはジブリール様が居ます。ジブリール様には申し訳ありませんが、ミカエル派の神輿になって貰おうと考えています」
「ミカエルと同じ四大天使だったジルがミカエル側に付けばダルク教徒も納得してくれるかもしれないな」
「はい。それに、ワタシもウリエル様の宿り木です。いざとなればこれを利用しようと思います」
「そんな事してウリエルは怒らないのか?」
「分かりません。ですが、ミカエル様とジブリール様の為なので大目に見てくれるでしょう」
「はは、クレアは意外と大胆なんだな」
目的の為に大天使であるジブリールやウリエルをも利用すると言ったクレアにアルは感嘆する。アルも母国の再建といった目標の為にはクレアのような大胆さが必要なのだろうと思わされた。
「アルさんは感心してる場合ではありませんよ? この使命が達成されればワタシとアルさんの婚約は正式な物になるんですから!」
「うわっ! そういえばそうだった!」
クレアとの婚約の話がすっぽりと頭から抜け落ちていた。旅の初めこそアルの事を
仲間という認識は間違ってはいないのだが、いざ婚約となるとアルにも心の整理が必要になる。
「何ですかその反応は! ワタシとじゃ嫌なんですか?」
「い、嫌とかじゃない!」
「もしかして、ジブリール様の事ですか? それともナーマさんですか?」
「うっ!」
まるで心の中を覗かれたように考えていることを言い当てられてしまう。
「アルさんがお二方を大事に思っていることは分かっています」
「……」
「ですが! 前にも言いましたがワタシはアルさんを独り占めできると思っていません!」
「え?」
「アルさんの野望にはお二方の力も必要なのですよね? だったらワタシも利用してください! ワタシすら利用出来ないようではアルさんが理想とする世界は作れませんよ!」
クレアが子供を叱る様にアルに言い聞かせる。
アルの理想とする世界は1000年前の様に人間・天使・悪魔が皆平等に暮らせる世界を作るというまるでおとぎ話の様な夢物語。しかし、その夢物語を実現したいなら自分くらい利用しろと言っている。
クレアの言っていることはもっともな事だと頭では理解しているが、心がまだ追い付いていない。
反論すら出来ないでいるアルにクレアが抱き付き、そのまま唇を重ねる。
「んっ──!?」
「ちゅっ……んっ……」
あまりの突然の出来事に戸惑い、逃れようとするアルだが、クレアががっしりと抱き着いているため身動きが出来ない。
「んん──チュプッ──ッ」
周囲には虫の鳴き声と、粘着質な水の音だけが響く。
どれだけの時間そうしていただろうか。数秒とも数分とも感じられ、そしてどちらからともなく唇を離す。
吸魔ではなく、純粋に恋人同士がするようなキスにアルが動揺していると、顔を紅潮させたクレアが耳元で呟く。
「これがワタシの気持ちです。どうか利用してください」
そう言ってアルが返事をする前にクレアがアルから離れ、一目散に荷台の中へと戻って行ってしまった。
残されたアルは、クレアが残した感触を再認識し、ひとり焚火の前で悶えることになった。
朝になり、皆が起きだしてもアルの心はここにあらずといった様子で腑抜けてしまっていた。馭者からも「何かあったのか?」と聞かれる始末である。
このままでは皆に迷惑が掛かると思い、強引に思考を切り替えたが、朝食の時にクレアの姿を見ただけで胸の鼓動が早くなった。その結果、クレアに対してそっけない態度を取ってしまい自己嫌悪に陥る。
様子がおかしいアルにジブリールが気遣ってくれたが、アルの視線はジブリールの口元を見ていた。そんな自分にまた自己嫌悪する。
準備が整い、馭者の隣に座り馬車が走り始める。
本来なら魔物や盗賊に警戒しなければならないのだが、今のアルには難しそうだった。
時々唇に触れ、その後
いつもと明らかに様子の違うアルの影がニヤリと笑う。
「順調ですわね」
誰にも届かない声が馬車の音に搔き消され、霧散した。