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第八章『First time』②

 突然空気の色まで変わったようなこの部屋で、怜那は少し混乱しながらもあれこれと考えてみる。

 ──それに、私は先生とえっちするのは嫌じゃない。ホントに嫌じゃない、んだけど。

 いざそういう雰囲気になってみたら、怜那はやはり少し怖くなってしまったのだ。

 キスされたときも、決して拒んだりしたつもりはないけれど勝手に身体が強張ってしまったような気はするから、それが伝わってしまったのだろうか。

 それとも沖は初めから、今日はそこまでするつもり自体がなかった……?

 少し気にはなったものの、この場で面と向かって訊くことなど怜那にできるはずもない。

 第一、そんなことを口にしたら、まるで物足りないと感じているような……。もっとして欲しかったと言うのも同然な気がしてしまって。

 自意識過剰なのかもしれないが、恋愛初心者の怜那には、何もかもが未知過ぎて手探りの状態なのだ。

 なんとか冷静さを取り戻して、怜那は結果的に放置してしまっていた沖に目を向けた。途端に目が合って、また頭が白くなる。

 ずっと見ていたのか? 怜那があたふたしているところを。

 それでも、沖の顔に面白がるような色はまったくなかった。むしろ心配してくれているような……?

「あの、私。ゴメン、なんか、その」

 とりあえず何か言わなければ、としどろもどろの怜那に、彼はなだめるように優しい声で返してくれる。

「お前が謝ることなんかないだろ。俺の方がちょっと急ぎ過ぎたみたいで悪かったよ。そうだよな、ついこの間まで高校生だったんだし。何も知らないんだよなぁ」

 ──先生はいろいろ知ってるみたいだね。

 怜那は何故か、悔し紛れにそんなことを思う。

 そんな感情が顔に出てしまったのか、それとも怜那の気持ちなんてとうに見透かされているのか。

「俺はお前よりずっと年上だし。その分いろんな経験もしてて当然だろ」

 沖が、どこか言い聞かせるような声で話し出した。

「いやでも、俺は大学時代だって特別遊んでたわけじゃないからな。勉強ばっかりでそんな暇なかったから」

 何も言われていないのに、焦ったようにそんな弁解をしながら。

「さっきお前もちょっと言ってたけど、高校までと大学やそれ以降の社会じゃ何もかもが違うから。これからお前の世界は今までとは比べ物にならないくらい広がって行くんだし、出会う人間もぐんと増えるだろうな」

 怜那がまったく想定したこともないようなことで、彼もまた悩んでいたのだろうか。

「正直言えば、不安もあるよ。これまではそれこそ、同年代以外は俺たち教師くらいしか身近にはいなかっただろ?」

 沖も怜那のことで、そんな風に不安になることもあるのだ。怜那だけではなかった。そうなのだ……。

「そんな分母の小さい中だからこそ、お前は俺を選んだのかもしれない。もし俺が最初から大勢の中の一人だったら、どうなってたかわからないんじゃないか?」

「そんなこと──」

 咄嗟に否定しようと口を開き掛けた怜那を、沖は片手を上げて制した。

 そして、弱音にも聞こえる台詞を打ち消すようにきっぱりという。

「それでも、俺はお前を縛ることはしたくないんだ。囲い込んでなにも見せないんじゃなくて、お前が自分の目でいろんなものを見た上で俺と居たいと思ってくれるんじゃなきゃ意味ないからな」

「先生って」

 沖の話を聞いて、怜那は恐る恐るといった調子で切り出した。

「先生って、もしかして凄く、ものすごーく私のこと好きなの?」

「……今更何言ってんだよ。『ものすごーく好き』じゃなかったらこんな危ない、完全にリスクしかない関係に踏み込む筈もないだろ」

 怜那の疑問に、沖は呆れた様子を隠そうともしなかった。

「高校教師が教え子の高校生と、なんて大袈裟じゃなく一生を賭けるつもりでもないとできることじゃなかったんだからな。しかも、最初は十六歳だったわけだし。俺の決死の覚悟は、お前には全然伝わってなかったってわけか?」

「違うって! いくら私でもそれくらいわかってるよ、当たり前じゃん」

 その誤解だけは解かないと、と怜那は慌てて手を振りながら言い訳を始めた。

「わかってるけど。なんかやっぱり、私が言い出したから、っていうのがどうしてもさぁ」

「俺はな、根本的には他人に流されるようなタイプじゃないんだよ」

 沖も、怜那が本気で何もわかっていないとは思っていないだろうが、きちんと自分の想いを言葉にする。

「だからこれは、俺が自分で決めたことなんだ。先に言い出したのがどっちかなんてたいした問題じゃないんだよ」

「……うん。そうなのかもしれない、けど」

 怜那にとっては、正直「どちらが言い出したか」はそれなりにたいした問題だったのだが、沖が違うというのに抗議する気などはない。

 彼は自分の考えを話しているだけで、怜那のそういう感情を否定しているわけではないからだ。

「俺はいくら生徒に迫られたって踏み止まる自信はあるけどさ、万が一流されたとしたらここまで我慢なんかできなかったと思うよ。その時点で揺らいでるわけだから」

 沖の話を聞きながら、怜那は高校時代を思い返していた。

 あゆ美に知られたと沖に報告して、二人の今後の方針を確認したあと。

 学校では、沖とは本当に挨拶くらいしかしなくなった。アイコンタクトさえなるべくしないように気をつけていたくらいだ。

 彼はともかく怜那の方は、きっと感情が溢れてしまっただろうから。

 通信アプリで時々メッセージをやり取りして、どうしても声が聞きたくなったときは通話もしていたけれど。

 その気になればいつでもすぐに触れられるくらい近くにいたのに、まるで遠距離恋愛みたいな状態に耐えられたのは、きっと。

 沖は怜那を好きでいてくれる、それだけは何があっても信じられたからだ。

 恋人・・らしいことなど何ひとつできなくても、二人きりにさえなれなくても、彼は常に怜那に対して誠実だった。

 卒業式の後に二人で話したあのとき、最後の最後まで『先生と生徒』の関係を崩そうとしなかったのも、それだけ沖が怜那に対して本気だったから。

 そうだ、確かに。

 沖ならたとえどんなに迫られたって、きっぱり拒むだろう。それは怜那自身が誰よりも知っていることなのだ。

    ◇  ◇  ◇

 あまり遅くならないうちに、と帰るように促されて、怜那は名残惜しい思いで沖の部屋を後にした。

「これからいくらでも来られるだろ」

 彼の言葉はその通りではあるのだけれど、寂しい気持ちはまた別物だから。

「駅までの道はもう覚えたから、一人で大丈夫」

 送ると言われて遠慮した怜那に、沖は笑って首を振る。

「まだ早いし、そんな物騒な界隈じゃないから別に危なくはないけど。単に俺が、ギリギリまでお前と一緒に居たいんだよ」

 沖さえ構わないというのなら強硬に断る必要もないので、結局怜那は彼と二人で連れ立って駅への道を歩いた。

「沖先生」

 駅に着くと立ち止まり、怜那は沖の前に回り込んで顔を見上げる。

「私、先生のこと好きになって、先生に好きになってもらってホントによかった」

 笑顔でそう告げてから。

「凄く、幸せ」

 言うなり怜那は、ぱっと身を翻して改札を通り抜けて行く。

 改札越しに振り向くと、沖も笑って怜那の方を見ていた。

 駅で大声で叫ぶわけにもいかず、怜那は声に出さずにまたね、と言って彼に小さく手を振る。

 沖の口元も同じように動くのを確かめて、怜那は笑みを浮かべたままホームへ向かって歩き出した。

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