卒業式の日に希望した通りに、怜那は四月になってすぐに沖の家に招かれてやって来た。
それから、もう何度かここには遊びに来ている。
初めて来たときは、さすがの彼女も柄にもなく緊張した様子も見受けられたものだったが、やはり怜那はすぐに馴染んで沖の家でもいつもの調子で気楽に過ごすようになった。
沖が頼んだわけでもなく、意外と器用な彼女は食事を作ってくれることもある。まだ、作業自体は手慣れているとまでは言えないものの、味はまったく問題がない。
ついこの間まで高校生だった上にひとり暮らしをしているわけでもないのにと沖は感心していたのだ。
家でお手伝いをするようなタイプにも見えないのに、というのはさすがに怜那に失礼だろうか……。
「ねー、沖先生。これ使っていい?」
今日も何やら二人分の昼食の用意をしてくれている彼女が、キッチンから沖に声を掛けて来た。
「いいよ、そこにあるものはなんでも使って」
作ってくれると言っていたので、沖はそれを見込んで食材は多めに買って来てあるし、何を使おうと一向に構わないのだけれど。
逆に大量に余っても、ひとりでは使いきれなくて困りそうだ。
「……あのさ、有坂」
問題はそんなことではなく。
「その沖先生って、そろそろ止めないか?」
沖は言い難そうに切り出した。
「家の中ではいいけど、外で『先生』って呼ばれるたびに俺は生きた心地がしないんだよ。お前、高校生以下にしか見えないし。──ほんっと、我ながら小せえなとは思うんだけど」
「え? じゃあ、私は何て呼べばいいの?」
躊躇った末の沖のそんな申し出に、怜那は特に文句をつけることはなかった。ただ、沖には想定外の問いが返って来たのだ。
「何、って……、……いや沖さんでいい、普通に」
「ふーん、わかった。でも急には切り替えらんないから、しばらくは間違えるかもしれないけど。頑張って慣れるようにするから」
料理の手を止めないまま、彼女は沖の頼みをあっさり了承した。
「せん、沖さんお待たせ、ごはんできたよ~」
料理を盛った皿を、小さめのダイニングテーブルに並べて、怜那が沖を呼ぶ。
「ホラこれ、見てよ! 結構美味しそうにできてるでしょ? さ、食べよ」
怜那は自分で作ったものを口に運びながら、テーブルを挟んで同じように食べ始めた沖に、手料理の感想を求めて来た。
「ねぇ、どう? 美味しい? 沖、さん」
「……」
怜那の言葉も耳に入らずに、沖は黙ってじっと考えている。
「……やっぱり、家の中では先生でいい。外でだけ止めてくれたら」
「そんなの無理! 私そんな使い分けできないよ、絶対」
実際に呼ばれてみたら何かが違ったのか、そんな勝手なことを言い出した沖に、当然のように彼女が異を唱えた。
「だからどっちかに統一して。どっちでもせん、沖、さん? の好きな方にするから」
怜那のもっともな言い分に、沖もそれ以上強硬に言い募ることはできない。
「……それじゃ、沖さん、でお願いします」
「はーい、OK! わかった~」
考えた末の沖の言葉を、怜那は今度も軽く受け入れた。
「ねー、じゃあさ。私もお願いがあるんだけど」
「何? 遠慮せず言えよ」
「うん。あのさ、私のことも有坂じゃなくて、名前で呼んでくれない?」
彼女がついでのように言うのに、沖も異存などない。
「いいよ、……怜那」
「あ、ありがと。なんかヘンな気もするけど、やっぱ嬉しい」
はにかむように笑う怜那を見つめていた沖に。
「あー沖さん、ほら早く食べてよ。冷めちゃうじゃん!」
怜那に叱られて、止まっていた食事を再開しながら沖は内心思う。
まだ卒業してからそんなに経たないのに、すっかり立場逆転という感じもする。ふたりがこれで上手く行っているわけだからいいのだが。いいのだけれど。
──これじゃどっちが『先生』だかわからないよな。
◇ ◇ ◇
「ねぇ、沖さん。次の週末、ここに泊めてもらってもいい?」
怜那が、帰り際に突然そんなことを言い出した。
「……俺は構わない、けど。おうちの人は? 外泊なんかして大丈夫なのか?」
嬉しいよりもそちらの心配が先に立つのは、やはり沖がまだ怜那に対して教師の意識が強いからだろうか。
彼女はともかく、それは沖にとってはどうしても気になってしまう現実だった。
何しろ、出発点が『教師と生徒』なのだから。
今は違うとはいえ、完全に切り離して考えることはまだできないでいるのだ。
──いやでも相手は十八歳の女の子なんだから、教師とか生徒とか関係無くむしろこれが普通だよな? だっていい大人がずっと年下の、しかも十代の子に対して自分の欲望最優先じゃあんまりだろ……。
沖の内心の葛藤など当然知らぬままに、怜那があっさり答える。
「大学入ってから知り合った中には一人暮らししてる子も多いからね。親の目がなくなって気楽に遊んでる子たちももちろんいるよ。でも、私も意外だったんだけど『寂しいから泊まりに来て欲しい』って子も結構いてさぁ。まぁ、まだ一人暮らしにもこっちにも慣れてないせいもあるとは思うんだけど」
彼女は外泊の言い訳などは前もってちゃんと用意していたらしい。
それはそうだろう。高校出たての女の子、しかも一人娘なのだから、親にしてみたら無条件で外泊などさせるわけもない。
「で、実際に泊まったことも何度もあるから、親には『友達の家に泊まる』って言っとけばOKだよ。あ、もちろん、口実に使う友達には協力してもらうことになってるから。別にそのための根回しじゃないけど、──ホントにないけど! 特に仲良い二人は、家に呼んだりもしてるんだよね。だから親も知ってる子のとこだし、安心してるからさ」
大学の友人は基本『大人』で、プライベートに踏み込み過ぎることも他人行儀過ぎることもなく、高校以前よりとても楽だと怜那が話していたのを思い出す。
……親に嘘を吐かせるのには変わりはないが、それを言い出したら何もできないか。
「そうか、まぁそれなら」
もう怜那も大学生なのだし、これくらいなら許容範囲ではないか?
沖は多少の後ろめたさを感じつつも、自問自答の末に都合のいい方に解釈してなんとか自分を納得させる。
──いつもここへ呼んだ日は、夕食前には帰らせるようにしてるし。……普段そうやって節制してるんだから、特別な日があってもいい、のかな。……いいんだよ、な?
色々と考えを巡らせている間に、怜那はもう帰り支度も済ませて、玄関に立って沖を待っていた。
沖も鍵とスマートフォンだけ確かめて、先にドアを開けて外に出た彼女を追うように靴を履く。
彼女がここへ来た日の帰りは、二人で駅まで歩いて行くのが恒例になっていた。
駅に着くと、怜那はいつもの如く隣に立つ沖を見上げて、「沖さん、またね」と別れを告げて改札を通って行く。
違うのは、今日から呼び方が「沖先生」から「沖さん」になったことだけだ。
ついでに、彼女の希望で「有坂」から「怜那」にも。
正直まだ慣れないが、そのうちこれが二人の日常になるのだろう。
改札の向こう側で小さく手を振る怜那に、沖も同じように手を振り返して声を出さずに「またな」と告げる。それを見て、彼女はホームへ向かった。
恋人の姿が見えなくなるまで見送って、沖もまた今来た道を辿って家に帰る。
来週のことを思うと自然緩みそうになる口元を手で覆い隠して。