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第九章『Overnight』④

「怜那、シャワー浴びに行けるか?」

 枕に顔を埋めるようにして抱き着き、突っ伏してぐったりしている恋人に、沖は声を掛けた。

「……無理、動けない」

 彼女は顔も上げずに呟く。

「抱いて行ってやろうか?」

 揶揄うように訊かれて「……ぜったいやだ」と唸るように返す怜那に笑って、沖はひとりバスルームへ向かった。

 シャワーを済ませて下着姿で戻って来た沖は、濡れタオルでベッドに横たわった怜那の身体を軽く拭いてやる。怯んだ顔は見せたものの、もう抵抗する気力も体力もないようで、彼女は黙って沖にされるがままになっていた。

「シーツ換えるから、ちょっとだけ動ける?」

 ベッドから下ろす程度なら沖が抱いてやってもいいのだが、先程の様子だと嫌がりそうだ。

「あ、うん……」

 沖の問いに、怜那は枕から顔を上げて、なんとか肯定の返事を寄越した。

 しかし、のろのろと上体を起こした拍子に痛みが走ったらしく、彼女は呻きながらベッドの縁に座る。

 その姿勢からすとんと落ちるようにラグに膝をついて横たわり、手足を縮めて丸くなった。

「……まだかなり痛むのか? まあ、初めてだし──」

「だから! そういう、っ」

 沖のあからさまな台詞に、思わず痛みなど忘れて起き上がりかけて、怜那はあえなく身を倒した。

「まだ急に動かない方がいいって」

 新しいシーツを広げながら、沖が怜那に声を掛けた。

「さぁ、できたからもう寝られるけど、自分で戻れる? 大丈夫か?」

 シーツ交換を終えた沖にそう訊かれ、怜那は頷いて這うようにベッドに上がる。

 彼女の身体に沖がタオルケットを掛けて、その上から優しく背中を撫でた。

「……先生は寝ないの?」

「もうすっかり『先生』に戻っちゃったな」

「あ! ゴメン、沖、さん」

 指摘されてやっと気づいたらしく、怜那が慌てて言い直す。

「いいよ、呼び名なんて急には変えられないよな」

 沖は怜那を労わるように声を掛けた。

「もともと俺の我が儘なんだし。別に外でどう呼ばれたって、今は実際に『先生と生徒』じゃないんだから、俺が気にしなけりゃいいだけのことなんだよ。頭ではちゃんとわかってるんだけどさ」

 沖と怜那が『教師と教え子』だったのは紛れもない事実だ。

 そして、それだけはたとえどんなに時が経とうと変わることはないのだから。

 実際、他の卒業生に会って「先生」と呼び掛けられてもなんとも思わない、どころかむしろ「沖さん」と呼ばれる方が違和感はあるだろう。この関係性というのはそのように永久に続くものなのだ。

 だからと言って、相手が「先生」と呼びたくないというのなら沖にそれを咎め立てする気などはないけれども。

「……あーでも。やっぱりベッドで『先生』はちょっと、なんかヘンな気になりそうでヤバいかも──」

「沖さん! 大丈夫。私、これからは注意するから!」

 沖の冗談めかした台詞に食い気味になりながら、怜那はさっきまでとは打って変わってきっぱりと宣言する。

「もし『先生』って呼んじゃったら、次はそこで止める!」

「え? いや、それは……、途中でいきなり止めるってことか?」

「そうだよ。私も頑張って気をつけるから、沖さんも協力して」

 当然だと言わんばかりの彼女に、沖は返す言葉もなかった。

 ──こういうのが自業自得、いや自縄自縛ってやつなんだろうか。

 自分が言い出したことがすべての発端なので、沖には拒否権などは一切ないのだ。

 とりあえず忘れないうちに、と汚れたシーツを持って、洗濯籠の中味と一緒に洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。

 これで朝には乾燥まで終わっているから、怜那が今日着て洗濯に出して来た服は持って帰らせることができる。

 さすがに下着は回収したらしく、籠には入っていなかったが。

 出来たら泊まるときにいちいち荷物を抱えて来なくていいように、いろいろ置かせてやれたらいいとは思う。けれどこの部屋の収納は、然程余裕がないのだ。

 ただでさえ狭い部屋には出したままにしておけない、様々なものを仕舞い込んでいるクローゼット。整理整頓はされているものの、隙間はあまりなかった。

 ──まぁ、それこそパジャマくらいならたいして場所も取らないし、それだけでも置いておくか。あとは怜那が嫌がらなかったら、下着も置いといたほうが楽なんだけどなぁ。ま、明日洗った服渡すときにでも訊いてみよう。

 そんなことを考えながら、沖は部屋に戻る。

 ベッドに上がってからようやく、脱ぎ捨てたままになっていた床の服に気づいた。

 拾わなければと思いつつも面倒で見なかった振りを決め込んで、怜那の隣に横になり微睡んでいる彼女の髪や肩を撫でてやる。

 可愛い恋人に触れていたいというのももちろんあるが、沖の部屋にあるのは当然ながらシングルベッド。

 いくら怜那が小柄で細身だとはいえ、くっついていないと二人が寝るには狭過ぎて自分が落ちてしまいかねないのだ。

「……ベッド、買い替えた方がいいのかなぁ」

 無意識に声に出してしまったけれど、1DKのこの部屋にダブルベッドは無理があるだろう。もちろん、物理的に搬入できないほどではないだろうが。セミダブルなら……、とりあえず置く分には支障はない。

 しかし実際、二人で寝るとなるとセミダブルでも余裕とまでは行かない。

 ベッドは大きい方がいいとはわかっていても、現実的にはやはり制約はあって当然だ。

 ──まぁ一緒に住むわけじゃないし、たまに泊まりに来るくらいなら何とかなるか。少なくとも、シングルよりはずっとマシだろ。

「……ん? ベッド?」

「あぁ、ゴメンな。起こしたか?」

「ううん、まだ起きてたよ」

 怜那の返事に、沖はとりあえずはホッとして説明してやる。

「そう、ベッド。ちょっとこれじゃ、俺たち二人には狭すぎるだろ?」

 それに、単純に二人分の体重を受け止めるにも、シングルでは不安もある。

「ん~、私は沖さんとくっついてられて嬉しいけど。あ、でも寝ちゃったら確かに落ちそうかも」

 彼女はそのことにも、沖に言われて初めて気づいたらしい。

「私はこっちが壁だし、ぶつかってもちょっと痛いくらいだから別にいいけど。沖さんは寝返りしたら、もうそっち側に落ちちゃうよね」

「いっそのこと引っ越してもいいんだけどさ。この部屋二年契約だから、まだ一年近く契約期間残ってるんだよな。就職したときに借りた部屋だから、一回更新してるし」

 とは言え、一か月前に予告さえすれば別に違約金も掛からないのだから、転居はしたければできる。ただこの部屋自体は、それこそユニットバスが少しどうかという以外には特に不満もないのだ。どうするか。

「部屋は特に慌てる必要ないから、一応物件探しながら次の更新で引っ越すことにでもするか。せっかくだから次は、バストイレ別で風呂が広めの部屋がいいよな」

 ──そう、この部屋じゃ、一緒に風呂なんて無理だし。

 沖は怜那との会話の傍ら、頭の中であれこれ計算して行く。

「もし早めにいい部屋が見つかったら、その時に考えるとして、とにかくベッドだけでも先に買い替えるか」

「え、本気で? そんな簡単に決めていいの?」

 彼女は、沖のあまりに早い決断に少し驚いているようだ。

「簡単じゃないって。大事なことだから、これでもよく考えてるよ」

 こうなったら部屋が多少狭くなっても仕方がない。セミダブルのベッドを買おう。せっかくなのでしっかりしたものを。

 沖は怜那に言葉を返しながら、結論を出していた。

 ……多少激しくしても壊れないように。

 彼女に聞かれたら、また機嫌を損ねそうなので、口には出さずにそんなことを考えて。

 ──それにしても、この部屋を借りる時に立地や間取りはもちろん、防音を重視しておいて本当によかった。そのときは単に、他の部屋の騒音に悩まされないようにだったけど。こうなったら、自分の方が音の発生源になってしまうからな……。

 当然こんな未来は予見していなかったものの、沖は当時の自分を褒めたい気分になった。


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