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第九章『Overnight』③

 沖が一人でたまに行く気軽な店で、二人で楽しく食事を終えて、またあれこれと話しながらゆっくりと歩いて沖の家に戻って来た。

 問題はここからだ。

 沖にも大学時代にニ人ほど交際した女性はいたし、ごく当然に身体の関係も持っていた。

 それでも当時は寮生活だったので、彼女を連れ込むことなどできるわけもない。

 一人はマンション暮らしで相手の部屋へ行けばよかったが、もう一人は自宅通学でそういうホテルを使うしかなかったのだ。

 卒業し就職してからは、あらゆる意味で余裕がなくて独り身だった。厳密には、就職して二年目に怜那と想いを通わせるまで。

 そのため、自分の部屋に恋人を泊まらせるのは正真正銘初めてなのだ。ましてや、相手は高校を卒業したばかりという状況に、沖も完全に平常心とは行かなかった。

 もちろん、それを怜那に気取らせるつもりもないが、そもそも今の彼女には自分のこと以外に気を配る余裕などなさそうだ。

 ──俺だけが考えてたってどうしようもないから、とりあえず少し進めて様子を見てみるか。

「怜那、先に風呂入れよ」

 沖の言葉に、彼女はわかりやすく目を泳がせる。

「知っての通りユニットだから狭いんだけど。お前の友達の部屋もたぶんそうだよな?」

「……あー、うん。みんなそうだった。最初はちょっとどうしたらいいのか困った、けど」

「でも、もう使い方はわかるんだろ? シャワーだけでも、お湯張ってもどっちでも好きにしていいよ」

 沖は、怜那のいつもと違う様子になど何も気づかない振りで、タオルを渡して無言で彼女を促した。

「ああ、それと。脱いだ服は、お前さえ気にしないんならあとで俺のと一緒に洗うから。全自動だからボタン一つだし、遠慮せずに籠の中に入れといて」

 頷いてバスルームに向かう怜那の背中に、沖は緊張を読み取って思う。

 別に僅かでも抵抗があるのなら、今日は何もしなくても構わなかった。

 彼女はおそらくそういう心積もりでここに来ているのだろうが、いざとなったら怖気おじけづくというのは十分あり得ることだ。

 直接尋ねたことこそないが、まず間違いなく怜那はまったくの未経験だろう。

 ──先に安心させてやった方がいいのか? いやでもアイツなら、気遣われてるってわかったら逆に我慢しそうだしなぁ。

 なかなか答えの出ない問題を考えているうちに、怜那が風呂から上がって来た。

「風呂浸かったのか?」

「ううん。シャワーだけにした。結構汗かいてたから気持ちよかったよ、ありがとう」

 シンプルなブルーの無地のパジャマ姿で、超のつくロングヘアで背中の生地が濡れてしまわないようにか、バスタオルを肩から掛けている。

「髪、ちゃんと乾かした方がよくないか? ドライヤーあるけど、使う?」

「貸してもらえたら嬉しいかな。自然乾燥でもいいんだけど、なんせ長いからさぁ」

「わかった。ちょっと待ってて」

 洗面所からドライヤーを持って来ると、コードのプラグをコンセントに挿してから彼女に渡す。

「じゃあ俺も入って来るな」

 沖がシャワーを済ませて部屋に戻ると、怜那はドライヤーももう使い終わったらしく、ラグの上に膝を抱える格好で座り込んでいた。

 手持ち無沙汰な様子で、畳んだバスタオルを両手で弄んでいる。

「それ、もう要らないんならあとで洗うから」

 沖がすぐ近くまで来ていたことにも、まったく気づいていなかったらしく、彼女はびくっと目に見えて身を震わせた。

 そしてなんとか取り繕うように、あたふたと沖にタオルを差し出して来る。

 怖がらなくてもいい、等もわざわざ言わない方がいいのか?

 それもまた判断できないままに、沖は表面上は何でもない風を装ってタオルを受け取り、洗濯籠に入れに行ってすぐに戻って来た。

 ──もうこうなったらとりあえずは見切り発車してみるか。コイツの反応見落とさないようにして、その先を考えることにしよう。

 沖は敢えて声も掛けずに怜那の横に腰を下ろして、反応を窺うことなくいきなり彼女の頭を手で抱き寄せる。

 キスはもう、初めて怜那がこの部屋に来たあの日から数え切れないほどしていた。

 さすがに外ではできる筈もないが、その分もここで会う日は必ず。

 最初こそ驚いて固まっていた怜那も、すぐに慣れてぎこちないなりに応えてくるようになった。

 キスを続けながらパジャマの上着の裾から手を忍ばせて、掌を肌の上に滑らせる。怜那が沖の首に回した手に、少し力が入るのがわかった。

 沖が、そんなことは素知らぬ振りをして下着の中に手を入れると、彼女は咄嗟に抱き着いていた手で沖の肩を押してキスを解き身を離す。

「……先生、っ」

 突然、何の前触れもなく『先生』と呼ばれて、沖は思わず手が止まってしまった。

「なんでここで『先生』に戻るんだよ……」

「だって、……。まだ、頭の中で考えてからでないと無理、だから」

 沖が咎める気はなくとも、つい零してしまった言葉に、怜那は真面目に答えようとする。

「いまは、なにもかんがえられない──」

 ちょうどいいタイミングだと気を取り直して、沖はずっと心の中にあった懸念を彼女に告げることにした。

「嫌ならそう言っていいんだし、意思表示しなきゃダメだ。我慢して受け入れる必要なんかない。俺もそんなの嬉しくないからな」

「……いやじゃ、ない、んだけど──」

「怜那」

 戸惑いが隠せない様子で下を向いてしまった彼女に、沖は言い聞かせるようにゆっくり話し始めた。

「嫌がる相手に無理強いする気なんかないんだよ。俺、そういう趣味は全然ないし」

 普段なら、他の相手にならまず口には出さないようなことも、怜那に対してははっきりと聞かせてやった方がいいだろうと沖は言葉を繋いでいく。

「セックスなんて、お互いがちゃんと納得して向き合えなかったら意味ないだろ。一般論は知らないしそんなものはどうでもいいけど、少なくとも俺にとってはそういうものなんだよ。だからさ、俺は相手と一緒に楽しめないんなら一人でやるほうがマシなくらいだ」

 怜那は、まだ沖と目を合わせられないようだったが、耳だけはしっかり恋人に向けているのがわかる。

「第一、俺とお前の付き合いはこれから先長いんだよ。急ぐことなんか何もない、そうじゃないか?」

「……先生、私。やっぱりちょっと怖くて、でも」

 彼女も、何とか沖に本意を伝えようと訥々と話し出した。

「でも嫌じゃないんだよ、ホントに全然。私も先生とえっちしたいと思って、だから今日泊まりに来たんだ、けど」

「それはわかってる」

 俯いたまま、それでも必死で言葉を探している怜那。

 彼女の背中に流れる髪をゆっくり宥めるように撫でながら、沖はさらに続ける。

「だけどセックスしないと愛してることにならないとか、俺はそこまで短絡的じゃない」

 目を見て告げられない分、声に真剣さを込めて。

「実際そう考える奴もいるんだろうし、他人の考えを簡単に否定はできないかもしれないけどさ。相手がその気になれないのに、自分の気持ちとか欲だけ押し付けるのは、あまりにも一方的過ぎないか? 俺はそう思ってるよ。『愛し合う』って、言葉通り二人の問題なんだから」

 身動みじろぎもせずに黙って沖の話に聞き入っていた怜那が、意を決したように顔を上げて、沖の目を見つめて口を開いた。

「先生、やっぱりしよう。私、先生と愛し合いたい。……身体も、全部」

「……もし、どうしても無理だと思ったらちゃんと言えよ、いつでも止めるから。それだけ守れるか?」

 彼女が唇を引き結んでしっかりと頷くのを確認して、沖は先に立ち上がり怜那の両脇に手を差し入れて力を貸しながら引き上げた。

 そしてすぐ横のベッドに座らせ、パジャマの上着の前ボタンを上から一つずつ外して行く。すべて外し終えて脱がせようとする沖に、怜那も両腕の力を抜いて袖を引き抜かれるに任せていた。

 そのまま上体をベッドに倒されて、パジャマのウエストに手を掛けられた時は息を飲む気配がしたが、それでももう覚悟を決めたからか一切抗うことはしない。

 半裸の身体の上に覆い被さって来た、沖の服の端を軽く引っ張る、怜那の不安そうな瞳。

 自分だけ肌を晒しているのが怖いのかと気づき、沖はいったん起き上がって、着ていたものを全部自分で脱いでいった。

 その様子をじっと見ている怜那に、少しでも安心できるように、と笑みを向けて。


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