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115話 渡の凶行


 俺の言葉にこくんと頷く湯井沢の顔からは不安も心配も見えなかった。


 ……ここまでの気持ちになるまでどれだけ苦しんだんだろう。

 けれど、もう湯井沢は一人じゃないのだ。


「だからニヤニヤすんなって!何考えてるんだよ」


「はは、ごめんって」


 呆れた様子の湯井沢を抱き寄せてキスをする。「誤魔化すな」と怒る彼を宥めながらこの幸せがいつまでも続きますようにと祈った。



『湯井沢美恵子逮捕』の文字が踊ったのはそれから間もなくだった。

 リゾート開発の件で有名になったのもあり、どこのテレビ局も大々的に取り上げている。


「段階を踏んで情報を」と言った当麻さんはこれを狙っていたんだろう。大きく扱われることで話題性を高くしておいて簡単には揉み消されないようにと。


「件の議員は手を引きました」


「うわあああっ?!?!」


「…毎回そんなに驚かないで下さい」


そんなことを言う当麻さんはいつもと同じ無表情で何を考えているか分からない。


たまたま休憩室にコーヒーを買いに来ていただけの俺は、叶さ……いや、心臓が口から飛び出そうなくらいにびっくりした。


「驚くなって言う方が無理でしょう」


「そろそろ慣れてくださると助かるんですが」


…これに慣れるなんて多分一生無理だと思う。

そして本当にどうやってこのセキュリティの厳しい会社に忍び込んでるんだろう。



 俺はとりあえず二人分のコーヒーを買って椅子と一緒に彼に勧めた。


「湯井沢様のお父様にも逮捕状が請求されたようです。そろそろかと思います」


「ありがとうございます。でもその話は電話でもよかったんですよ」


 当麻さんはコーヒーを口にしながら首を傾げた。


「来たほうが早いので」


 いやいや、電話より早いはずがないでしょうと言いそうになったが、この人は普通の人じゃなかったと思い直して黙りこむ。


「ごちそうさまでした」


「いえ……こちらこ……そ?」


 もういない。

 一瞬、深々とお辞儀をしていた様子が見えたのに。

 そして熱々のコーヒーだったのに一気飲みかよ。ご丁寧に紙コップも無くなってる。


 当麻さんに対する謎は深まるばかりで、いつか絶対飲みに行くぞと俺は決意を新たにした。




 その日の夜、当麻さんが言った通り湯井沢のお父さんも逮捕された。証拠なら十分揃っていただろうし遅いくらいなんだけど、任意同行の取り調べもすっ飛ばしたところを見ると、湯井沢の本当のお母さんの件もちゃんと調べてくれたのかもしれない。


 ここから芋づる式に湯井沢父の関与も明るみに出るだろう。

 湯井沢弟はどうなんだろう。何らか手を貸していたのか分からないが彼の話は一切出ていない。でも両親が逮捕されたらあのニートは暮らしていけないよな?まあいいや。しっかり働け。


「何してんの?」


「考え事」


「ふーん。僕の作ったご飯を無表情で食べてるから美味しくなかったのかなーって思っちゃった」


「ぐっ……美味しくないわけないだろ。いつも通り、いやそれ以上に最高に美味しいです!」


 俺は慌てて食事に意識を戻した。

 当の湯井沢は見ている限り思ったほどのダメージは受けていない。淡々とした表情でニュースを見終わると、何事もなかったかのように日常生活を営んでいる。

 思うところはあるだろうが、今はひとまずそんなゴタゴタから離れてゆっくりと生活して欲しい。


 そんなことを願いながら食後の洗い物をしていると背中に湯井沢が張り付いてきた。

 なんとなく切なくなって手を拭いてから抱きしめて返す。


「…アイス食べたい」


「ああ、買いに行こうか?」


「うん健斗の奢りでハーゲンダッツの新しい苺のやつ食べたい」


「仕方ないなあ。俺の大きい財布でなんでも買ってやるよ」


「っふふ」


 俺はもう一度、笑う湯井沢をぎゅっと強く抱きしめた。




 宵闇に包まれた街はいつもより静かな気がして、俺はわざと元気な声で話しながら湯井沢の手を握った。所々に設置された街灯は咲きかけの桜の花をぼんやりと照らしている。


「俺は今日はアイスよりチョコの気分かな」


「なんだ突然。真剣な顔してると思ったらそんな事考えてたの」


「いや大事だろ。……よし、全部買おう。湯井沢も何でも買っていいぞ」


「……後悔しない?」


「その最初の間が怖いんだけど!」


 あははと笑い声をあげながら二人で川沿いの道を歩く。人気がないので手を繋いでも誰にも見咎められない、そんな幸せを噛み締めていた。


「……あれ?」


「どうした?」


 湯井沢の足が止まった。彼の視線の先を見ると人影が一つ。フードを目深に被ったそいつは立ち止まってじっとこちらを見ているようだった。


「……渡」


「え?弟?」


「渡、お前何してんの」


 そう言いながら人影に一歩近づく湯井沢。その影もこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。


「浩之……」


 確かに弟だ。

 一人になって困って訪ねてきたんだろうか。


「警察が来ただろ。お前は何にも関与してないよな?」


「……してない」


「警察に聞かれたらちゃんとそう証言しろ。そうすればお前は自由なんだからちゃんと働いて生活するんだぞ」


「……帰ってこいよ」


「え?」


「二人で暮らそう」


「は?何言って…」


 その時風が吹き、渡の被っていたフードがはためいた。揺れる前髪の隙間からチラッと目が見える。それは尋常ではない輝きをまとい、湯井沢だけを凝視していた。


「待て!」


 俺は咄嗟に湯井沢の腕を掴んで引き寄せた。たたらを踏んだ彼は驚いた顔で俺を見上げる。

だがそれどころじゃない。

渡の手にギラリと光る物が見える。それが何なのかは分からなかった。けれどよくない物だと言う事だけは俺の本能が教えてくれた。


「浩之!」


 全体重をかけるように前のめりで突進する渡。


 間に合わない!!


 反射的に湯井沢を抱きしめ、渡に背を向けた途端、横腹にどすんと衝撃が走る。

 ゆっくり振り向くと、渡の手に包丁が見えた。そしてその刃先は俺の体にめり込んでいる。


「け……健斗」


 湯井沢の口から吐息のように俺の名前が溢れ落ちる。そしてその直後、渡が鳴き声のような咆哮を上げた。



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