「あの子は健斗の子よ。ああ、健斗は知らなかったわよね?あなたには何も話してなかったから」
「「はあ?」」
俺と浩之の声が綺麗にハモる。だが、彼女はそれを気にすることもなく、とうとうと語り出した。
「あなたの子がお腹に出来た時、私は親の勧めで別の人と結婚が決まってた。だから黙ってあなたの前から姿を消したの。……怒ってるわよね?あの時はあなたを捨てることになって本当にごめんなさい」
「え?ちょっと待って……」
俺がこの名前も覚えてなかった人に捨てられたの?ヤバい。どれを取っても何一つ身に覚えがない。誰かと勘違いしてるのでは……。
「いいから聞いて。それで私は結婚してあの子を夫の子と偽って産んだの。でも安心して!夫の浮気の証拠を掴んだのよ!だからやっと離婚できるし、あなたと一緒になれるのよ。朱里も全部知ってる。だからあなたをお父さんと呼ぶ真魚ちゃんが憎らしくて意地悪をしてたみたい。ごめんなさいね」
「そうですか……そんなご事情が……」
「先生?!」
信じないで!そんな事情初耳だから!
流石に苛立った俺が声を上げようとすると、浩之がテーブルの下で俺の手を握った。そして先ほどと同じ冷たい声で佐久間さんに問いかける。
「佐久間さん、大変でしたね」
「……あれ?もしかしてあなた湯井沢くん?いつも健斗と一緒にいた湯井沢くんよね?今でも健斗と仲いいんだね。久しぶり」
……久しぶり?こんなに怒りが湧いたのがそれこそ久しぶりだ。浩之も何だよ。大変でしたねじゃないんだよ。
だが、俺の気持ちを分かっているとでも言わんばかりに浩之はテーブルの下で握った手に力を込めた。
「佐久間さん、あなたはいつから健斗と付き合ってたんですか?」
「え?」
「いつ頃の話ですか?朱里ちゃんが出来た頃なら八年くらい前ですか?卒業してからずっと付き合ってたんですか?」
「……どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ、同級生のことだから興味があるだけです」
「そうなのね。じゃあ教えてあげるわ」
それから佐久間さんはペラペラと二人のありもしない思い出について話し始めた。
「卒業してから三年くらいしてから街で偶然会ったの。運命的でしょ?それから食事に行ってお互い好きだったって分かったからすぐに付き合い始めたの。すぐに健斗のアパートで一緒に暮らし始めたのよ」
「健斗のアパートって?どんな所だったんですか?」
「安いアパートだったわよね?健斗。一部屋しかない古くてボロボロのとこ。でも愛があったから何も苦にはならなかったわ」
「……お二人にはそんな過去が……」
なるほどと頷く先生。
いや本当にやめて。確かにボロアパートに住んでたけどずっと一人でしたよ!!
けれど佐久間さんの話にはなんら不自然な所はない。先生が信じてしまうのも仕方ないかもしれない……。全部嘘なのに。
「健斗、すぐ離婚に向けての準備をするわ。もう少しだけ待ってて。今もあのアパートにいるの?」
「いません」
そう答えたのは俺ではなく浩之だ。
「……私は健斗に聞いたのよ?」
「……佐久間さん、話の辻褄が合いませんね」
「え?どういうこと?」
「八年前なら健斗はもう僕と一緒に駅前のマンションに住んでました。確かに健斗は古いアパートに住んでたこともありますが十年以上前の話です。……それにしてもどこで調べたんです?」
「……そんなはずないわ。湯井沢くんが思い違いをしてるのよ。だって私たちずっと一緒に暮らしてたもの」
「それはおかしいです。それに僕は社会人になってからもずっと健斗と一緒にいました。もちろんアパートにも行ってましたけど健斗は一人暮らしでした」
「……何訳のわからないこと言ってるの?おかしいわよね?健斗も言ってあげて。私たちがあの部屋で夫婦みたいに暮らしてたことを」
俺の方を向いた佐久間さんはその話が本当に真実であると信じ切っている表情をしていた。それが余計に恐ろしくて、俺は息を飲んだ。
「健斗?どうして何も言ってくれないの?」
「……佐久間さん」
「あの頃みたいに瑠美って呼んでいいのよ」
「あの、俺にそんな記憶はありません」
「え?なに?……なんで……」
その呟きは俺に、というより自分に向かって問いかけているようで、佐久間さんは頭を押さえて蹲る。
「おかしいわ。確かに健斗と……。でも……」
「……佐久間さん?大丈夫ですか?」
「え?ええ。……本当なんです先生。確かに私と健斗は……」
「……分かりました。今日はもう遅いですからお帰りください。また話は後日にしましょう」
「……そうね、なんだか頭も痛いし」
そう呟くと、佐久間さんはフラフラと部屋を出て行った。
その様子を見て先生も違和感を感じたようだ。
「繰り返しますがさっきの話は全て事実無根です」
「……理解しました。おそらく沢渡さんが正しいのでしょう。けれど佐久間さんも嘘をついているようには見えませんでした。あれは一体……」
「記憶の混乱ですかね。強いストレスがかかるとそんな風になると聞いたことがあります」
「……佐久間さんのご実家は裕福で入婿のご主人はとても良い方だと評判なんです。ストレスなんて……」
「それは本人にしか分かりませんから」
浩之の言葉に、俺は彼の実家を思い出した。金持ちの跡取り息子で羨ましい。……浩之だって学校ではずっとそう言われていたのだから。
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「いや本当に今日は散々だったな」
風呂から上がった俺は、ビール片手にソファに腰を下ろした。隣に座っている浩之はなんとなく浮かない顔をして頷く。
「……どうかしたか?あ、まさか本当に朱里ちゃんを俺の子供だと疑ってる訳じゃないよな?」
「それはないけど」
「……ないけど?」
浩之はそれには答えず、いきなり立ち上がって洗濯物の籠を持ち、ランドリールームに向かった。俺は慌ててその後を追う。
「本当にどうしたんだよ」
「……なんでもないって!」
珍しい浩之の大声に、俺は驚いて眠ったばかりの真魚の部屋の方を見た。
「……ごめん。本当になんでもない。……ただ、もしあの話が本当だとしたらって想像したら嫌な気持ちになっただけだ」
……俺が佐久間さんと?……そんなの俺でも物凄く嫌な気持ちになるよ。
「その気持ち分かるよ。確かに嫌だよな。考えただけで鳥肌が立つわ」
「……ふふっ当事者のくせに分かるってなんだよ」
あ、ちょっと笑ってくれた。
「俺には浩之って最愛のパートナーと真魚っていう可愛い娘がいるから誰が入る隙間もないんだよ。それなのにそこに入ってこようとするなんて嫌な気持ちになって当然だ」
「……そうだよな、本当にごめん。一番の被害者は健斗なのに」
浩之は俺の背中に腕を回し、胸に顔を埋める。結婚式を挙げても養子縁組をしても、『普通』から外れる俺たちには常に不安がつきまとう。
「浩之、キスして良い?」