「……健斗?どうかしたか?体調でも悪い?」
「え?ああ、いやなんでもない」
すっかりそんな過去の思い出に浸っていた俺は、浩之の声で我に返った。そうだ、ぼんやりしてる場合じゃない。
「……月日の経つのは早いもんだなあって思ってたんだよ」
「なに年寄りみたいなこと言ってんの」
髪に少し白いものが混じり始めた浩之が、呆れた顔で笑った。
「いやもう年寄りだよ。昨日食べに行った焼肉がまだ胃の中にいるからな」
「……同じ年だけど僕はそんなことないよ」
「浩之は変わらないよ。いくつになっても可愛いし、どんどん綺麗になってる」
「……やめろ」
耳を赤くしてそっぽを向く癖もずっと同じ。俺は浩之を抱きしめて頬にキスをした。
「ずっと一緒にいてくれてありがとう」
「……死が二人をわかつとも、って誓っちゃったからな。仕方ない」
「ふふっ」
「それよりそろそろ戻らないと間に合わなくなるよ?」
「そうだな、遅れたりしたらお姫様の機嫌を損ねるな」
そうして、俺たちは手を繋ぎ、青く透き通った海を背に思い出深い場所に向かって歩き出した。
「ちょっと!お兄ちゃん、ひろくん!まだこんなとこにいるの?挨拶の練習ちゃんとした?」
「したよ。ばっちり」
俺の適当な返事に空は「本当かしら」と苦笑いで返す。彼女ももう二児の母で、怒った顔がどんどん母に似て来た。
「美鳥と八雲がホール前に着いたって連絡入ったから迎えに行ってくるね。またあとでね」
手を振る空を見送り、俺たちは見覚えのある式場をぐるりと見渡す。
「変わってないね。でもやっぱりちょっと古くなってるかな。所々改装はしてるらしいけど限度があるだろうしね。……それにしても田村さんがまだいたなんて意外」
くすくすと笑う浩之の後ろから頬を膨らませた噂の人が姿を現した。
「酷いですぅ。すぐやめるように見えましたかぁ?これでも山本さんの跡を継いでチーフになったんですよぉ?」
懐かしいその間延びした話し方に、一瞬で時間が三十年前に戻った。……だが、どうやら古びたのは建物だけではなさそうだ。
……人のこと言えないけど。
「いえ、会えて嬉しいです」
「こちらこそぉ。まさかお二人の娘さんがうちで挙式をしてくれるなんてぇ……感無量ですぅ。真魚さん凄く綺麗でしたよぉ」
「それは見に行かないと」
「え?先に見ていいんですか?」
「はぁい。ご家族様の特権ですよぉ。こちらへどうぞぉ」
まだまだ子供だと思っていたが真魚はもう二十五歳だ。
大人しいが意思の強い女性に成長した彼女は、母と同じファッションデザイナーの道を選び、歩んでいる。
イタリアで海の立ち上げたブランド「KEN Go」の事業に携わる一方で、自分のデザインだけでショーの準備をしていると聞いている。
そんな真魚が選んだのは、日本語の上手なイタリア人のシェフだった。
「胃袋を掴まれたの」と笑ってたっけ。
「さぁお二人さんどうぞ中にぃー」
田村さんが開けてくれたドアの先に、真っ白い百合の花のような真魚がいる。自分でデザインし、ひと針ひと針手縫いをして仕上げたドレスを着て。
「パパ!お父さん!」
「真魚!綺麗だなあ!アレッシオは?」
「彼には見せないの。あとのお楽しみよ」
ウェディングドレスを着た真魚はとても綺麗だった。幸せに溢れ、キラキラと輝いている。
「遅かったじゃない健斗、挨拶の練習をしてたの?」
すっかり白髪になり少し腰の曲がった母親が笑う。その隣にはいつも彼女を守って来た父親が、変わらない穏やかな笑顔を見せていた。
「お兄ちゃん、今日はかっこいいとこ見せてよね」
イタリアから帰国した海が偉そうに言うので「普通は親の仕事だろ」と毒づいてやる。もう真魚も保護者を必要としないのだから養子縁組は解消してもいいのに、そのままにしておいて欲しいと本人が言うものだから、結局親の挨拶も俺たちがする事になってしまったのだ。
「でも内輪の席だし緊張なんてしないわよね?笹野のおばさんも東堂先生も来てくれてるし……あ!美馬さんも来てくれたわよ!映画の撮影で忙しいのに……でも友達がファンだったからサイン貰って倒れそうになってたわ」
「美馬もたまには役に立つんだな」
「あはは!ひどい!」
「そうそう!当麻さんからはウエディングケーキが届いたのよ!手作りだって!凄くない?!」
それを聞いて、俺たちは顔を見合わせて笑った。
「さあ皆様ぁ~!そろそろ始めましょうかぁ?」
「はーい」
そうして田村さんののんびりした声を合図に、俺たちは会場に向かった。
寄せては返す波の音が夜の砂浜に静かに響く。俺はガゼボのベンチに座り、ぼんやりと遠くの灯りを見ていた。
「こんなとこにいたの?健斗」
砂を踏み締めながら、浩之が俺を迎えに来た。
「……ちょっと疲れたんだよ」
「分かるよ。挨拶よく頑張ったな。泣かずに出来たら百点だったんだけどな」
「……うるさいよ」
仕方ないだろ。先に泣き出したのは真魚だ。あんなのつられて泣いちゃうに決まってる。
「浩之だって涙声だったけど?」
「……あれは仕方ない。真魚がサプライズで花束なんか用意するから……」
そう、仕方ない。だって親しい列席者はみんな泣いてた。
「……真魚とアレッシオは?」
「そのまま新婚旅行に行ったよ。ベタだけどハワイでのんびりするってさ」
「いいなあ……俺ものんびりしたい」
その言葉に浩之はくすっと笑って、俺にそっと封筒を差し出した。
「……なに?浩之からラブレター?」
「違うよ。真魚から」
「真魚……」
そうだ、今日からうちに帰っても、もうあの子はいないんだな。
イタリアと日本を行ったり来たりだったけど、帰って来るのはいつも俺たち三人が住んでいたあのマンションだったのに。
……帰って空っぽの部屋を見たらまた泣けてくるんだろうな……。
そう思いながら、俺はピンクの可愛い封筒から便箋を取り出して読み進めた。
……そこには父親のいない自分の親代わりをしてくれた事への感謝がびっしり綴られていて、嬉しかったこと、思い出話、そんな宝物みたいな文字が溢れていた。俺は二枚目に辿り着くまでに早くも文字が滲んで読めなくなった。
「俺はちゃんと父親の役目が出来てたかな」
「出来てたよ。僕が見ても羨ましいと思うくらいちゃんとお父さんだったよ。だからあんな優しい子に育ったんだろ」
「そうか……」
こんなに泣いたのはいつぶりだろう。
けれどそれだけあの子に愛情を注げたって事だ。それがとても誇らしい。
「真魚はいい子だよね」
「当たり前だ。俺たちの娘だぞ」
「ふふっそうだね。……三人で九州に旅行したの楽しかったね」
「ああ、欲しかったものが物が売り切れてて真魚がずっとめそめそ泣いてたよな」
「焦ってあの辺りの店全部回ったっけ。もう観光どころじゃなかったけど、最後の店で見つけた時の笑顔でチャラになったなあ」
自己主張の少ない子だった。とても優しく、いつも大人しくて手のかからない子。
俺たちに遠慮する部分も多かったに違いないのに、あんなに立派に育ってくれた。
「寒くなってきたな。そろそろ帰ろうか」
「うん」
「僕、健斗と結婚して良かった」
「偶然だな。俺もだよ」
「ふふっ。昔からは考えられないくらいの大家族の仲間入りが出来たし、実家に行ったらいつも賑やかで楽しくて。それからまさかの子育てまで経験出来た」
「うん、確かに。けどこれからはまた二人だぞ。俺に飽きてない?」
「飽きるわけないだろ」
晴れやかな顔の浩之が可愛くて、俺はそっと手を握る。何だか久しぶりで照れ臭くて、俺の胸がドキドキと音を立てた。
人生は何が起こるか分からない。
だから、明日永遠の別れが来たとしても後悔しないように、毎日精一杯の愛情を持って過ごしたい。
叶さんのおかげで俺は自分の中の恋心に気付く事ができた。感謝しても仕切れない大事な人は今でも俺の胸の中で生きている。
その心臓が奏でる鼓動は、これから更に歳をとってもずっとずっと浩之に向かって鳴り続けるのだろう。