翌朝、俺は身支度を整えて、居宅を出る。居宅の周りの緑が水を吸収し、キラキラと光っている。昨日の夜に降った雨が緑を潤している。これが白百合乙女様の加護なのだろうか。俺には女神の加護のように見えた。
「フェイ。」
そう呼び掛けられて振り返る。そこにはベルナルドが居た。
「ベルナルド、どうした?」
聞くとベルナルドは微笑み、俺に何かを差し出す。
「ん?」
ベルナルドが差し出した物、それはハンカチだ。それを受け取りながら聞く。
「これは?」
聞くとベルナルドが言う。
「リリー様からだ。きちんと洗ってくださったそうだぞ。」
リリアンナ様から?そう思いもう一度、ハンカチを見る。…そういえばリリアンナ様に花をお渡しした時に茎の部分を自身のハンカチで包んだのだった。それをわざわざ洗ってくださったのか。
「そうか、ありがとうございます、と伝えてくれ。」
そう言ってハンカチを見る。自身のイニシャルが刺繍してあるすぐ横に、小さな刺繍を見つける。イニシャルの右端に白百合が刺繍されている。これは…リリアンナ様が自ら…?
「どうした?顔が赤いぞ?」
ベルナルドにそう言われて俺は咳払いする。
「いや、何でも無い。リリアンナ様に大事にすると伝えてくれ。」
ベルナルドはそんな俺に微笑み、歩き去る。俺はそのハンカチを懐にしまう。リリアンナ様はこういったものを贈る事に意味がある事をご存知なんだろうか。
そわそわと部屋の中を歩き回る。
「リリー様、落ち着いてくださいませ。大丈夫です、ウェルシュ卿ならちゃんと届けてくれます。」
ソフィアにそう言われても私は落ち着かなかった。昨日の夜、雨が降り出した事で私は部屋の中に入り、ハンカチに刺繍を続けた。小さな白百合の刺繍。刺し終わった後、それを小さなテーブルに戻し、眠りについた。今朝、起きた時にはソフィアがそれを見つけていて、すぐにでも返そうと言い出した。そしてその時になってソフィアが私に教えてくれた事。
男性にハンカチを贈るのはその方の無事を祈るという事。そしてそれに刺繍をして贈るというのはそこに自身の思いを留まらせ、その方と共にある事を願うという意味合いもあるのだと。
私はそれを聞いて、自分の顔が真っ赤になるのを感じた。すぐにでも刺繍を解こうと思ったくらいだ。ソフィアは微笑んでハンカチを持って、扉の外に居たベルナルドにそれをクラーク卿へ返すように頼んだのだ。ハンカチが私の手から離れてしまったのだから、今更、どうにも出来ないのは分かってはいても、刺繍をして贈るという事がそんな意味合いを含んでいるとは知らなかった。
自身の思いを留まらせ、その方と共にある事を願う
確かに私は刺繍をしながら、彼をどんなものからでも守りたいと思った。そして私が刺繍したこのハンカチを彼が使っているところを想像して、恥ずかしくも思った。
「そもそもハンカチはクラーク卿のもの、リリー様は頂いたお花のお礼に刺繍をしたまでです。」
ソフィアにそう言われれば、ただそれだけのような気もして来る。不意にノックが響き、返事をするとベルナルドが姿を現す。
「リリー様。」
ベルナルドは微笑んで言う。
「クラーク卿へハンカチを返しておきました。」
ソフィアが聞く。
「クラーク卿は何か仰っていましたか?」
ベルナルドは微笑んだまま言う。
「ありがとうございます、と…それから大事にしますと。」
大事にします、そう言われて私はまた顔が赤くなるのを感じる。
お部屋の中のブルースターを眺めながら私は彼が私の刺繍したハンカチを持っていてくれている事を思い出し、頬を染める。その方と共にある事を願う…そんなふうに私が思っても良いのだろうか。そう考えると少し落ち込む。私がそんなふうに思ってはいけない気がする。
「リリー様。」
ソフィアが私にお茶をいれながら言う。
「リリー様のお気持ち、大事にしてくださいね。」
あぁ、そうだ、ソフィアは私の気持ちに気付いているのだった、そう思って苦笑いする。
「でも私がそんなふうに思う事も、今の私の立場では本当ならダメなのよね…」
そう言うと、ソフィアが私にお茶を差し出しながら言う。
「恋とは、そういうものです。」
ソフィアを見る。ソフィアは少し微笑んで言う。
「恋は誰かに言われてするものでもないですし、気付いた時にはもう遅いのです。たとえ結ばれなくとも、その方と共にありたいと願うのは罪ではありません。」
ソフィアは私の隣に来て私の足元に膝を付いて言う。
「頂いた物が何であれ嬉しくて、何時間もそれを眺めていられて、何をするでもその方の事を思い、笑いかけられたりすれば天にも昇る気持ちになる…触れ合った所が熱くなり、胸が高鳴って呼吸さえ出来なくなる…それが恋です。そして恋は決して制御出来るものではないのです。」
ソフィアが私を見上げて悲しそうに微笑む。
「確かに今のリリー様のお立場では、その方に思いをお伝えする事も、ましてや交流を持つ事も許される事では無いでしょう。ですが、リリー様のお心は自由で良いのです。」
ソフィアが私の手を取る。
「これからお辛い事も、お辛くなる事もあるでしょう。そんな時は私、ソフィアに何でもお話ください。話す事でいくらかでもそのお心が紛れる事もあるでしょう。そしてリリー様から伺ったお話は誰にも口外致しませんのでご安心ください。」
明日は婚約式がある。婚約式前日になってぽっかりと予定の空いた私は王立図書館へ向かった。王立図書館の前にはキトリーが待っていた。
「ご苦労。」
そう言うとキトリーが頭を下げて言う。
「お待ちしておりました、こちらへどうぞ。」
キトリーに案内されて歩く。王立図書館の一番奥、そこには図書館にそぐわない憲兵が居る。憲兵は私を見ると頭を下げ、扉の前から退く。
「ご苦労。」
そう言い、中に入る。
「私はここでお待ちしております。」
キトリーがそう言う。
「あぁ、そこで待っていてくれ。」
そう言うと扉が閉まる。ここが王族しか入る事の出来ない蔵書室か。見渡すと古いものから新しいものまで、その数はかなりある。
「さて、どこから見るか…。」
それ程広くは無い蔵書室の中を歩き回る。一周してもう一度見る。不意に私の体から金色の光が放たれ、その光は一つの書物に留まる。
「ハハハ…」
リリーの力がここでも作用するのか、そう思った。その書物を手に取る。古めかしい書物で表紙には何も書かれていない。書物を開く。どうやらこの国の成り立ちなどが書かれているようだった。読み進めるうちに気になる一文を見つける。
かつて国が傾く程の争いが起きた時、その影で暗躍したのは西の森の黒魔術師であり、その黒魔術師を封印したのが白百合乙女である。
西の森の黒魔術師?そしてそれを封印したのが白百合乙女…?
私は書物から目を上げる。ほんの少し考える。数百年前、国が滅亡する程の争いが起こった事は今も御伽噺のように語られている。その原因になったのが双子の王子の誕生だった、と。故に双子はこの国では忌み嫌われ、いつの間にか双子の妹や弟が忌み子と呼ばれるようになったのだ。
そして今、白百合乙女とも呼べるリリーが私の前に現れた。
これは偶然か?それとも必然か?…いや、この世の中に偶然などというものは無いと私は思っている。偶然だと思っている事柄も、運命に引き寄せられているのでは無いか?もし仮にそうだとしたら、私が今、思い当たっている人物が…。
私は書物を持って蔵書室を出る。歩きながら考える。私の考えが万が一にも真実であるならば、リリーが私の目の前に現れた事も…。
「フィリップ殿下。」
そう呼び掛けられて視線を向ける。キトリーが心配そうに私を見ている。
「大丈夫でしょうか、お顔の色が優れませんが。」
私は少し笑って言う。
「あぁ、大丈夫だ。」