「良くいらっしゃいました。」
目の前のエリアンナ嬢が言う。その顔は笑っているけれど、そこはかとなく薄気味悪さがあった。モーリス家の中には初めて入ったが、何と言うか、居心地の悪さを感じる。何なんだ、この空気の淀んだ感じは。奥からモーリス伯爵が出て来る。
「これは、これはクラーク卿。」
にこやかな表情なのに、何故か、背筋がゾクッとする。
「お構いなく、すぐに失礼する。」
すぐにでもここから出たい、出ないといけない気がした。
「お父様、これからフェイ様と街へ行って参ります。明日の衣装の打ち合わせに。」
エリアンナ嬢がそう言う。伯爵家から出る。馬車の前で待つとエリアンナ嬢が俺に手を差し出す。正直なところは触れたくも無いが、仕方なくその手を取る。パチッと手が弾かれる。驚いてエリアンナ嬢を見る。エリアンナ嬢も自身の手を見て驚いている。エリアンナ嬢は俺の手を頼らずに馬車に乗り込む。俺も乗り込む。向かい側に座り、窓の外を見る。弾かれはしたが痛みは無い。そしてソンブラが黒魔術のかかったものに触れた時に手を弾かれたと言っていた事が頭をよぎる。モーリス家全体がおかしいのか?いつからだ?ずっと前からか?リリアンナ様からの祝福が俺を守ったのか?何の意識も無く、懐に入れたハンカチを出し、胸元のポケットに差す。それに触れた事で俺の頭の中がスッキリして来る。
…奴から離れろ
頭の中の声が言う。離れろですって?嫌よ。フェイ様とは一緒に夜会に行くのよ。あんなに規模の大きな夜会にエスコートも無しで行けと言うの?
…だが、弾かれただろう?
確かに私の手とフェイ様の手が触れる寸前、パチッと痛みが走って弾かれた。驚いてそのまま馬車に乗ってしまったけれど。フェイ様を見る。フェイ様は窓の外を見ている。銀色の髪が美しく、その瞳は外の光を反射していて、キラキラと揺れている。美しい造りのお顔、造形美とはこういう事なのだと分かる。端正な顔立ちなのに、体は逞しく、馬車に乗っていても体がそのバランスを崩す事は無い。私は指先の痛みを感じながらも、フェイ様が欲しいと思っていた。私のものにしたい。何とかならないの?そう問い掛ける。頭の中の声は答えない。もう!大事な時にはだんまりなのね。
ブティックの中に入り、一通り衣装を見て回る。フェイ様は何を聞いても自分には分からないとそう言うだけだった。リリーは何を着て来るかしら?演武場で見たリリーは控えめな薄いブルーのドレスを着ていた事を思い出す。そうよ、王宮に居るにも関わらず、あんなに貧相なドレスで現れたのだもの、きっと夜会でも目立たない、貧相な服で来るに違いないわ。その時、目に付いたドレス。赤…いや、深紅と言った方が良いだろう。そのドレスに引き寄せられる。
「ねぇ、フェイ様、これはどうでしょう?」
聞くとフェイ様はそのドレスを見て眉を顰める。
「色が毒々しいですね。」
フェイ様はそう言ったけれど、私はそれを気に入った。華やかな飾りの付いたドレス。このドレスを着て行けば私は夜会の華になれるわ。
「そのドレスにするのでしたら、私は騎士服で良いでしょうね。」
そう言われて私は少し笑う。
「そうですわね。」
黒い騎士服はフェイ様を引き立てている。
「婚約式後の夜会ですもの、騎士服も正装になさるのでしょう?」
そう聞くとフェイ様が言う。
「そうですね。」
まだフェイ様の騎士服の正装は見た事が無い。さぞかし素敵なのだろうと思う。
明日の婚約式に向けて、衣装の最終確認の為に工房に来る。美しい刺繍の入ったドレス。何て綺麗なのだろう。これを私が着るのだ。
「こちらが夜会用のドレスでございます。」
テイラーがそう言って夜会用のドレスを見せてくれた。
「まぁ、何て素敵…」
そのドレスも素晴らしい刺繍が施されている。
「これだけ手の込んだドレスはきっと国中を探しても見つからないでしょうね。」
ソフィアが言う。私もそう思った。
「こちらがフィリップ殿下の正装でございます。」
テイラーがフィリップ様の服も見せてくれた。私のドレスと揃いの服。フィリップ様の気高さ、気品の高さを感じさせる正装だった。
書物を持ち帰り、執務室で読みふける。気になった一文以外はさほど大事に感じるものは無かった。
かつて国が傾く程の争いが起きた時、その影で暗躍したのは西の森の黒魔術師であり、その黒魔術師を封印したのが白百合乙女である。
西の森、か。この書物に書かれた事が事実だと仮定すると、西の森に何かあるのだろう。探らせなければいけない。一番の適任はソンブラだろう。だがしかし、黒魔術が関わっているとなると、慎重に動かなければいけない。一先ず、誰かを派遣して探らせてみよう。ベルを鳴らす。すぐにセバスチャンが部屋に入って来る。
「お呼びでしょうか、殿下。」
私は書物を閉じて言う。
「あぁ、ちょっと探って貰いたい事が出来た。西の森だ。」
言うとセバスチャンが少し驚く。
「西の森、でございますか?」
私はセバスチャンを見る。
「あぁ、そうだ。」
言うとセバスチャンが考え込むような仕草をする。
「何だ、何かあるのか?」
聞くとセバスチャンが言う。
「以前、黒魔術の解呪を行った時に、黒魔術に詳しい者が居ると殿下にも申し上げましたが、その者が住んでいるのが西の森にございます。」
それなら話は早いと思う。
「その者の協力は仰げそうか?」
聞くとセバスチャンが微笑む。
「もちろんでございます。」
すぐにセバスチャンには使者を出すように指示をした。
「黒魔術、か。」
今まで接した事の無いものだ。何があるか、何が起こるかは全く予想も出来ない。とにかく、こちらから使者以外の者を送る事は避けられた。そして考える。この事をリリーに知らせるべきだろうか。今までは何でも、包み隠さずにリリーには話して来た。知らない事でリリーが傷付くよりは、知る事で対処した方が良いと判断したからだ。しかし、これは…今はリリーには荷が重いだろう。白百合乙女が西の森の黒魔術師を封印したとするならば、これからリリーは大きな障壁と向かい合う事になる。今はまだリリーが白百合乙女だという事も確証が無い。私の中では確定事項でも、白百合乙女だとするならばそれを証明するだけのものが必要になる。溜息をついて書物をめくる。何かヒントは無いだろうか。
エリアンナ嬢とは店の前で別れた。運良く騎士団の騎士たちと出会い、その騎士から街の保安に関しての話を、と言われたからだ。エリアンナ嬢は残念そうにしていたが、俺にとっては渡りに船だった。エリアンナ嬢と別れた後、保安に関する事を話し、すぐに解放される。王宮まで歩く事になったが、そんな事はどうでも良かった。街を歩いていると、ふと目に付いたもの。真っ白なハンカチ。その一角に銀色の糸で刺繍がされている。衝動的にその店に入る。
王宮に戻った時にはもう昼下がりだった。昼食をとりながら考える。俺が直接伺っても問題無いだろうか。明日には婚約式があるお方だ。そんな方に俺がこんなものを渡すなんて、そう思っているのに、どうしても諦められなかった。
「何をそんなに考え込んでいるんだ?」
不意に声がして俺は笑う。本当にコイツは神出鬼没だ。
「ソンブラ。お前こそ、どうした?」
俺にそう聞かれたソンブラは俺の隣に座ると、俺の昼食を摘まむ。
「明日の婚約式と夜会に向けて、警戒を強める為だ。」
その為に諜報活動などは一旦、停止している、という事か。
「で、何をそんなに考え込んでいるんだ?」
聞かれて俺は苦笑いする。
「あぁ、昨日の演武で治癒をして貰ったお礼を渡したいんだが、明日は婚約式だからな…」
そこまで言うとソンブラが笑う。
「リリー様へか。確かに少し気が引けるタイミングではあるな。だがお前が治癒をして貰った事はもう王宮中に伝わっているんだ。だからお前が訪ねて行っても問題は無いと思うがな。」
そう、演武の最中に俺が怪我をし、それを癒したのがリリアンナ様だという事は王宮中に知れ渡っていた。それまではリリアンナ様を訝しんでいた連中も、その事で鳴りを潜めた。俺が何も言わないでいるとソンブラが言う。
「…俺に任せろ。」
ソンブラを見る。ソンブラはそっぽを向いたまま言う。
「夕刻、王太子妃宮の薔薇園だ。」
そう言ってソンブラは立ち上がり、行ってしまう。俺は少し笑って食事を続ける。アイツはいつもそうだ。人の役に立とうとする。その事で礼を言われる事を酷く恥ずかしがる。持つべきものは友だと思う。