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第55話

お部屋に戻り、一息つく。美しいドレスを見て、明日にはあれを着るのだと思うと嬉しい反面、心の中がざわざわした。息苦しさを感じてテラスに出る。テラスから見る景色はそれはそれは美しい。手入れされた庭園、眼下には数々の薔薇が咲き乱れている薔薇園がある。


私は今まで自分の意志というものに関して、あまり考えてこなかった。モーリス家の御屋敷に居た時は自分の意志など、意味を持たなかったから。忌み子である私は生かされているだけ幸せなのだとそう言い聞かせられ、自分もそうだと思って生きて来た。私の中にも人を羨む感情は確かにあった。お姉様が可愛いぬいぐるみを私に自慢した時、綺麗な服でキラキラの宝石を付けて歩いているのを見た時、美味しくて温かい料理を食べているのを見た時、お母様やお父様に褒められ、その腕に抱かれているのを見た時…でも私は忌み子なのだから仕方ないと思って来た。


それが東部へ行ってからガラッと変わった。今はこうして王太子妃宮なんてところに居て、侍女が何人も付き、私が移動する時には護衛騎士まで付いている。温かいお料理に温かいお風呂、柔らかいベッドで眠って、美しい服を着て、私の髪を梳く人まで居る。こんなに恵まれた環境に居て、これ以上望むのは罰当たりだ。なのに、私の心の中はざわざわと落ち着かない。


生まれて初めて私は人の事を知りたいと思った。その人の事を考えるとドキドキして、呼吸が苦しい。もっと見ていたいのに視線が合うと恥ずかしくて伏せてしまう。その人から貰った物が宝物になり、その人の言葉が頭の中で何度も繰り返される。触れた箇所がずっとその感覚を忘れず、触れた事を思い出すだけで顔が熱くなって赤くなるのが分かる。


そう、私は恋している。


本来ならばこんな事、許されない事だろう。だって私はフィリップ様の婚約者なのだから。婚約式ももう明日に控えている。それなのに私の気持ちはフィリップ様では無く、他の人の方を向いている。フィリップ様にも同じように、いや、それ以上に優しくして頂いたし、この環境はフィリップ様が整えて下さっているのに。でも心の内は誰にも、どうにも出来ない。私自身でさえ自分の気持ちをコントロールなんて出来ないもの。彼に貰った髪飾りやブレスレット、そしてお花。全てが私の宝物だ。そう思う気持ちは心から湧き上がってくるものだから、もう仕方ない。日が暮れかけたテラスで一人、私は溜息をついた。不意に人の気配がする。


「リリー様。」


背後で声。その声はすぐに誰だか分かった。


「ソンブラ。」


そう言って振り返る。ソンブラは片膝を付いて言う。


「急ぎ、お伝えしたい事がございます。」


ソンブラが顔を上げる。


「夕刻になりましたら、お一人でここ、王太子妃宮の薔薇園へお越しください。」


薔薇園へ一人で…?


「そこでフェイがリリー様を待っています。」


フェイと聞いて少し驚く。


「クラーク卿が?」


聞くとソンブラが笑う。


「演武中の負傷の際、リリー様に治癒をして頂いたと思いますが、そのお礼がしたいそうです。」




夕刻になり、私は薔薇園に向かった。薔薇園に入る前まではソフィアやベルナルドが一緒だったけれど、薔薇園で一人になりたいと言ったら二人とも、私が薔薇園から出て来るまで待っていてくれる事になった。薔薇園の中を進む。王宮からは見えない薔薇園の中央。そこに彼が居た。


「クラーク卿。」


声を掛ける。彼が振り向き、微笑む。彼の所まで行くと彼が頭を下げる。


「リリアンナ様、お呼び立てした事をお許しください。」


礼儀正しくそう言う彼に私は言う。


「呼び立てなんて。この薔薇園はすぐそこですし。」


彼は顔を上げて微笑む。なんて素敵な笑みなのだろう。


「昨日の演武の際の治癒、ありがとうございました。」


彼はそう言って、懐から何かを取り出す。


「今日、街へ行く用事があり、その時にこれを見つけて、リリアンナ様にお渡ししたく…」


差し出されたのは真っ白なハンカチだ。四隅に銀色の糸で刺繍がされている。


「演武の際に負傷した傷を治癒して頂いたお礼でございます。こんなものでお礼になるとは思いませんが。」


差し出されたハンカチを受け取る。手と手が触れる。彼の手の先が私の手をほんの少し撫でる。


「ありがとうございます…」


素敵なハンカチだった。刺繍は…百合だろうか。とても繊細だ。手の先がほんの少し触れ合っただけなのに、恥ずかしくて顔を上げられない。


「これ…」


彼がそう言う。顔を上げて彼を見る。彼が胸元に差してあったハンカチを手に取り、私に見せる。


「素敵な刺繍、ありがとうございました。大切に使わせて頂きます。」


そう言われてまた顔が熱くなって、自分でも顔が赤くなっているのを感じる。


「いえ、私の方こそ、髪飾りやブレスレットなどを頂いたので…」


私の手首のブレスレットが揺れている。彼はふわっと笑って言う。


「気に入って頂けて嬉しいです。私もこのハンカチ、大事にします。」


胸がドキドキして苦しい。彼は礼儀正しく頭を下げ言う。


「お時間、ありがとうございました。失礼致します。」


彼が歩き去る。私はそんな彼の後ろ姿を見送る。彼の姿が薔薇園の中に消える。溜め息が漏れる。キラキラと揺れる銀色の髪、凛々しい黒い騎士姿。それなのにあんなふうに優しく微笑む彼に私の胸は高鳴っていた。




薔薇園を出ると出入り口にソフィアとベルナルドが待っていた。


「リリー様、何か変わった事はありませんでしたか?」


そうソフィアに聞かれて私は首を振る。


「いえ、何もありませんでした。」


部屋に戻りながら私は手の中にあるハンカチを意識する。素敵なハンカチだったな、そう思った時、ハンカチを渡された時に触れ合った手の先を思い出す。ほんの少しだけ触れ合ったそこは温かかった。夕日の中で微笑む彼、銀色の髪が風に微かに揺れて、美しかった。


「リリー様。」


声を掛けられて我に返る。良く見ればもうお部屋に到着していた。お部屋の椅子に座り、息をつく。


「ソフィア、ごめんなさい、一人にして欲しいのだけど。」


言うとソフィアが微笑んで頷く。


「かしこまりました。」


ソフィアが部屋を出て行く。私はお部屋に一人になり、手に持っていたハンカチを広げて見る。ハンカチはシンプルなもので、四隅に刺繍があるだけのもの。それでもその刺繍が素敵だった。繊細な刺繍。これを見つけた時に私を思い出してくれたのだと思うと何だかそれだけで嬉しかった。




書物を読み漁る。リリーが白百合乙女であると確証が持てる何かを探していた。そしてやっとその一文を見つける。


白百合乙女はその他の聖女や神官とは違い、自身の傷を自身で癒すことが出来、更にその神聖力は浄化の作用もあり、悪しきものは触れるどころか、近寄る事も出来ないとされる


自身の傷を自身で治す事が出来る、それが白百合乙女である事の証明なのか。ここ王都に来るまでに病に苦しむ平民を治癒したが、その時にリリーが感じた淀んだ空気…その空気をリリーが浄化したと私は考えた。更に黒魔術に触れた物や触れたソンブラ自身を浄化し、清めた。それ自体がもう今まで居た神官や聖女たちとは違う。今まで私が出会った事のある神官や聖女には不可能な事だ。


背もたれに寄り掛かり考える。中央神殿が、そしてそこに居る大神官が白百合乙女であると認めれば問題は無いだろう。それに異議を唱えられるだけの確証を持った者など、存在し得ない。中央神殿の大神官に会う必要がありそうだが、それもすぐに解決する。明日には婚約式があって、その大神官が立ち会うからだ。話す時間を取らねばならない。




居宅に戻ると、ソンブラが椅子に座ってくつろいでいた。


「戻ったか。」


そう言われて俺は笑う。


「あぁ。」


腰から下げている剣を下ろし、マントを外す。


「渡せたか?」


聞かれて俺は言う。


「あぁ。」


ソンブラは少し笑って言う。


「良かったな。」


そう言われて俺はほんの少しの胸の痛みを感じる。ソンブラはきっと俺の胸の中にある感情には気付いていないだろう。今回のハンカチも昨日の演武の際の治癒のお礼だと思っているだろう。こんな感情を持ってはいけない相手だという事は重々承知しているのに、胸の中のこの感情は膨らむばかりだ。


薔薇園でのリリアンナ様…美しい薔薇に囲まれ、せ返すような薔薇の香りの中で、たった一つ、儚い白百合のように、その存在を輝かせていらっしゃった。ハンカチを渡す時、ほんの一瞬、リリアンナ様の指先に触れ、俺はその指先を自身の指でなぞった。指先同士が触れ合っただけの事…それなのに俺の指先は熱く、そしてその熱は胸を焦がした。ハンカチを受け取ったリリアンナ様はその頬を染められ、俯き…その恥じらう様子も、キラキラと輝かせているお姿も、全てが愛おしく、何もかもを投げうって抱き締めたくなる衝動を何とか抑えたのだ。溜息が漏れる。


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