翌朝、暖かな陽射しが窓から差し込む中、ミーシャは意を決してグレアスに提案を持ちかけた。
「グレアス様、もしよろしければ、今日はクレア様と一緒にお菓子作りをしてみたいのです。」
グレアスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに静かな微笑みを浮かべた。
「お菓子作りか……クレアの記憶が戻るきっかけになるかもしれないな。君に任せるよ」
その言葉に力強い了承を得たミーシャは、軽く頭を下げるとすぐに準備を始めた。
クレアを誘い、キッチンへと案内する。
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「ここが厨房ですか?」
クレアはきょろきょろと興味深そうに辺りを見回し、ミーシャの後をついて歩いた。
どこか新鮮な気持ちで目を輝かせている彼女に、ミーシャは心の中で『クレア様4らしいな』と懐かしさを覚えた。
「今日はクッキーを作りましょう、クレア様。少し難しいかもしれませんが、一緒に作れば大丈夫です。」
「私、不器用かもしれませんけど……頑張ります。」
クレアは少しだけ不安げに眉を寄せながらも、エプロンを手渡されると、なんとか気持ちを奮い立たせるように小さく笑った。
「まずは、バターを柔らかくするところからです。」
ミーシャがそう言って手本を見せると、クレアは真似をしようと一生懸命にバターを混ぜ始めた。
だが、力加減が分からないのか、飛び散る粉やバターに悪戦苦闘する。
「きゃっ!」
小麦粉がクレアの顔に少しだけ付いてしまい、思わず彼女は笑い声を漏らした。
それを見たミーシャもつられて笑ってしまう。
「大丈夫ですよ、クレア様。最初はみんなこんなものです。」
ミーシャはタオルを持ってきて優しく拭き取ると、改めて手際よく混ぜ方を教えた。
その姿にクレアも安心したのか、「私にもできそう」とつぶやきながら、再びボウルと向き合った。
粉をこねるときには、思った以上に力が必要で、クレアは途中で何度も手を止めていた。
それでもミーシャの励ましに支えられ、なんとか生地をまとめることに成功した。
「形を作るのも楽しいですね!」
クッキー型を使いながら、クレアは童心に返ったように楽しげに作業を続けた。
ミーシャが見守る中、彼女はどんどん自分のペースを掴んでいき、焼き上がるころには自信に満ちた笑顔を見せていた。
完成したクッキーを皿に盛りつけると、ミーシャとクレアはそれをグレアスのもとへ運んだ。
「グレアス殿下、できました。」
クレアは緊張した面持ちで皿を差し出した。記憶喪失で自信を失いかけている彼女にとって、これは勇気のいる行動だった。
グレアスはそっとクッキーを手に取り、一口食べた。
「……美味い」
短い言葉だが、その声には本物の温かさが宿っていた。
グレアスは柔らかな笑みを浮かべ、クレアをまっすぐに見つめる。
「ありがとう、クレア。君とミーシャのおかげだな。」
その言葉にクレアは顔を赤らめたが、どこか嬉しそうに微笑んだ。
ミーシャもその様子を見て、心の中で「良かった」と安堵した。
その夜、クレアは部屋に戻るとそっとクッキーのレシピを眺めた。
「また作りたい」という思いが心の中に芽生えていた。
それが何なのかは分からないが、少しずつ、彼女の心に温かさが広がっているのを感じていた。
グレアスとミーシャにとっても、この小さな出来事は希望の光となった。
クレアの記憶を取り戻す道のりはまだ始まったばかりだったが、彼女が笑顔を見せるたびに、失われた時間を少しずつ取り戻せる気がした。
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戦争の喧騒が静まり、屋敷にようやく日常が戻りつつあったある日のこと、グレアスのもとに一通の手紙が届いた。
差出人は父王であるジュベルキン帝国の国王だった。
グレアスは緊張を抱えながら封を切り、その内容を読んだ。
『クレアと会って話がしたい。戦後の状況や彼女の身の上を直接聞きたいと思う。可能なら、近いうちに宮廷まで連れてきてほしい。』
グレアスは手紙を握りしめ、眉間にしわを寄せた。
クレアの身を案じる父王の意図は理解できたものの、彼女はまだ記憶を失ったままである。
それに、王との面会はクレアにとって負担になりはしないだろうか──その思いが頭をよぎる。
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その夜、グレアスは食事を終えたクレアを部屋に招き入れた。
机の上には父王からの手紙が置かれている。
「クレア、少し話したいことがあるんだ。」
クレアは不思議そうな顔をしながら、椅子に腰を下ろした。
その顔には相変わらずの穏やかな表情が浮かんでいる。
「何でしょうか、グレアス殿下?」
彼女の優しい声に、一瞬、躊躇するように口を閉じたが、意を決して切り出した。
「父上から手紙が来たんだ。クレアと直接会って話がしたいとおっしゃっている。」
クレアは目を丸くした。その場の空気が少しだけ重くなる。
「えっと……その、国王様とお会いするんですか?」
グレアスは軽く頷くと、できるだけ優しく言葉を続けた。
「無理をする必要はない。記憶が戻らないまま会うことに抵抗があるなら、断っても構わないんだ。だけど、君が前向きに受け入れるなら、父上はきっと喜ばれると思う。」
クレアはしばらく沈黙した。
自分を失ってしまった状態で国王に会うことの重圧は、どれほどのものか。
グレアスはそれを気にしているのだろう。
やがてクレアは、ふっと微笑みを浮かべた。
「大丈夫です。会ってみます。私がここでお世話になっているのも、グレアス殿下や皆さんのおかげです。国王様にも、そのことをきちんとお伝えしたいですから。」
彼女の言葉に、グレアスは驚きと感嘆を覚えた。
記憶を失っているにもかかわらず、彼女は目の前の現実を受け入れ、自分なりに前を向いて進もうとしている。
その健気さに胸が締め付けられる思いだった。
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翌日、ミーシャに宮廷行きの話を伝えると、彼女もまた心配そうな顔をした。
「クレア様にとって、少し重荷にならないでしょうか……」
グレアスはその言葉に頷いたが、すぐにクレアの笑顔を思い浮かべた。
「大丈夫だ。クレアは自分で承諾してくれた。むしろ、何か新しい記憶が戻るきっかけになるかもしれない。」
ミーシャもそれを聞いて少しだけ安心したようだった。そしてクレアのために上品で華やかなドレスを選び、宮廷へ向かう準備を進めていった。
準備を整えたクレアは、豪華な馬車に乗り込む前に屋敷の庭を振り返った。
どこか懐かしいような、切ないような表情を浮かべながら、小さく息をつく。
「ここが私にとって大事な場所なんだろうな……」
その呟きに気づいたグレアスはそっと彼女の隣に立った。
「クレア、どんな時でも君の味方だから。無理をする必要はない。」
クレアは頷き、小さく微笑んだ。その表情には、わずかだが不安を乗り越えようとする強い意志が感じられた。
こうして、彼女たちは宮廷へ向かう旅路へと足を踏み出した。
グレアスとクレアを乗せた馬車は、やがて荘厳なジュベルキン帝国の王城へと到着した。
城の前では、王宮の侍従や護衛たちがきちんと整列し、彼らを迎える準備を整えている。
クレアはその光景を目にし、少し緊張した様子でグレアスを見上げた。
「大丈夫だ、何も恐れることはないよ。父上も母上も君を心から歓迎してくれる。」
グレアスの言葉に、クレアは小さく頷く。
彼の優しい声が、不安をわずかに和らげてくれるようだった。
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城内へと案内された二人は、広々とした謁見の間へ通された。
高い天井、きらめくシャンデリア、そして左右に並ぶ重厚な柱。
その奥には、堂々たる姿で座する王と、優雅な佇まいの女王がいた。
グレアスが膝をつき、クレアもそれに倣う。
王はすぐにその場を和らげるように手を軽く振り、彼らに立ち上がるよう促した。
「グレアス、よく来た。そして……クレア嬢。君も、よくここまで来てくれた。」
王の声は落ち着いており、どこか父親らしい温かみがあった。
クレアは緊張した面持ちで一礼すると、口を開いた。
「お招きいただきありがとうございます。ですが……私は……記憶を失ってしまっていて、本来の私を思い出せないまま、こうしてお会いすることになってしまいました。本当に申し訳ありません。」
クレアは視線を伏せながら、頭を深く下げた。
その姿はどこかか細く、痛ましいものがあった。
すると、王は少し眉を下げ、柔らかい口調で言った。
「謝る必要はない。君が無事でいる、それだけで十分だ。我々にとって一番大事なのは、君がこれからどう過ごすかということだ。」
王の言葉に続けて、女王が優しく微笑みながら言葉を添えた。
「そうよ、クレア。辛いことがたくさんあったでしょうけれど、今こうしてここにいるということは、それだけで大きな一歩なの。あなたが記憶を失っても、私たちは何も変わらないわ。あなたを大事に思っているの。」
その言葉に、クレアの瞳が揺れた。そして、目を伏せながら小さく頷いた。
「ありがとうございます……。記憶がない私にまで、こんなに優しくしてくださるなんて……本当に感謝しています。」
王と女王は、クレアの負担にならないよう、話題を変えつつ、彼女と会話を続けた。
「グレアスが君を大事にしている様子は、手紙や報告でよく伝わっているよ。」
王がそう言うと、クレアは思わずグレアスの方に視線を向けた。グレアスはわずかに赤くなった顔をそらし、軽く咳払いをした。
「グレアス殿下には、本当に良くしていただいています。私は……まだ何もできていないのに。」
「そんなことはない。」
女王がすかさず言葉を挟んだ。
「あなたがそばにいてくれることが、グレアスにとってどれだけの力になっているか、本人が言わなくても分かるのよ。私たち親としても、それが一番嬉しいことなの。」
その言葉に、クレアの顔は少し赤くなったが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……。私、少しずつでも、思い出せるように頑張ります。そして、皆さんに恩返しができるようになりたいです。」
王と女王は、その言葉を喜ぶように頷いた。
その後も少しの間、和やかな会話が続いた。
記憶を失っているクレアを気遣いながらも、彼女の気を和らげるようにと、王と女王はあえて明るい話題を選んで話を進めていった。
最初は緊張していたクレアだったが、彼らの優しい言葉に少しずつ心を開き、最後には自然な笑顔を見せるまでになっていた。
こうして、クレアにとって初めての王との面会は、穏やかな空気の中で幕を閉じた。
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クレアはその夜も、深い眠りに落ちることができなかった。
疲れていたはずなのに、再び目を閉じるとすぐに恐怖が彼女を襲った。
それは前回とは異なる悪夢だった。
今度は、見知らぬ場所で、誰かが彼女を追い詰めているような感覚があった。
足元には闇が広がり、周囲にはまばらに高くそびえる黒い岩が立っている。
冷たい風が頬を撫でると、その風はまるで何かの声のように聞こえ、耳元でささやく。
「逃げろ……逃げろ……」
クレアは息を荒げ、背後を振り返ったが、そこにはただ空虚な闇が広がるばかりだった。
その闇の中から、ぼんやりとした影がこちらに向かって伸びてくる。影は形を失い、ただ無機質に動き続け、どんどん迫ってくる。
その影がどこから来るのか分からない。
感じるのはただ、無情で冷徹な恐怖だった。
逃げようと足を動かすが、足が地面に絡みつき、動けなくなる。
まるで体が動かないかのように感じる。
「お願い、誰か助けて……」
クレアは絶望的な声を上げた。
けれど、どこにも誰もいない。
恐怖に震えながら、必死にその影から逃げようとするが、徐々にその距離が縮まり、影の中から見えたものは、クレアを見据える冷たい目だった。
その目がどんどん近づいてくる。
その目の中に、無数の後悔や怨念が見える気がした。
クレアはその目の中に自分の姿を見たような気がして、ぞっとした。
「やめて……」
クレアは叫んだ。
が、声はかすかにしか響かず、すぐに消えてしまう。
その瞬間、影が一気に迫り、目の前に黒い手が伸びてきた。
その手がクレアの肩を掴んだ瞬間、彼女は身体中に激しい痛みを感じ、息ができなくなった。
胸が締め付けられ、心臓が引き裂かれるような感覚に包まれた。
「お願い……」
クレアは再び助けを求めて声をあげたが、その声もすぐに消え失せた。
最後には、意識が遠のき、目の前が真っ暗になった。
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クレアはハッと目を覚ました。
目を開けると、周囲は暗く、薄明かりだけが部屋を照らしていた。
心臓が激しく鼓動している。呼吸も荒く、冷や汗が背中を伝う。
「また、あの夢……」
彼女は苦しげに息を吐き、額を押さえた。
夢の中で感じた恐怖が、まだ現実のように胸に残っていた。
手のひらが震え、身体が強張る。
背後から聞こえる風の音すらも、夢の続きに感じてしまう。
彼女はふと、ベッドの側にある小さなランプに手を伸ばし、明かりを灯す。
柔らかな光が部屋を包み、ようやく心を落ち着けることができた。
「……もう一度、あんな夢を見たくない。」
そう呟いて、クレアは布団をしっかりと掴み、深く息を吸い込んだ。
まだあの恐怖が残っている。
目を閉じても、頭の中で影が迫ってくるような気がしてならなかった。
少しの間、身体を横たえたまま、クレアは目を閉じた。
そのまま再び眠りにつくことができるかどうか、わからないまま。