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第40話 国王面会


翌朝、暖かな陽射しが窓から差し込む中、ミーシャは意を決してグレアスに提案を持ちかけた。


「グレアス様、もしよろしければ、今日はクレア様と一緒にお菓子作りをしてみたいのです。」


グレアスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに静かな微笑みを浮かべた。


「お菓子作りか……クレアの記憶が戻るきっかけになるかもしれないな。君に任せるよ」


その言葉に力強い了承を得たミーシャは、軽く頭を下げるとすぐに準備を始めた。

クレアを誘い、キッチンへと案内する。

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「ここが厨房ですか?」


クレアはきょろきょろと興味深そうに辺りを見回し、ミーシャの後をついて歩いた。

どこか新鮮な気持ちで目を輝かせている彼女に、ミーシャは心の中で『クレア様4らしいな』と懐かしさを覚えた。


「今日はクッキーを作りましょう、クレア様。少し難しいかもしれませんが、一緒に作れば大丈夫です。」


「私、不器用かもしれませんけど……頑張ります。」


クレアは少しだけ不安げに眉を寄せながらも、エプロンを手渡されると、なんとか気持ちを奮い立たせるように小さく笑った。


「まずは、バターを柔らかくするところからです。」


ミーシャがそう言って手本を見せると、クレアは真似をしようと一生懸命にバターを混ぜ始めた。

だが、力加減が分からないのか、飛び散る粉やバターに悪戦苦闘する。


「きゃっ!」


小麦粉がクレアの顔に少しだけ付いてしまい、思わず彼女は笑い声を漏らした。

それを見たミーシャもつられて笑ってしまう。


「大丈夫ですよ、クレア様。最初はみんなこんなものです。」


ミーシャはタオルを持ってきて優しく拭き取ると、改めて手際よく混ぜ方を教えた。

その姿にクレアも安心したのか、「私にもできそう」とつぶやきながら、再びボウルと向き合った。

粉をこねるときには、思った以上に力が必要で、クレアは途中で何度も手を止めていた。

それでもミーシャの励ましに支えられ、なんとか生地をまとめることに成功した。


「形を作るのも楽しいですね!」


クッキー型を使いながら、クレアは童心に返ったように楽しげに作業を続けた。

ミーシャが見守る中、彼女はどんどん自分のペースを掴んでいき、焼き上がるころには自信に満ちた笑顔を見せていた。

完成したクッキーを皿に盛りつけると、ミーシャとクレアはそれをグレアスのもとへ運んだ。


「グレアス殿下、できました。」


クレアは緊張した面持ちで皿を差し出した。記憶喪失で自信を失いかけている彼女にとって、これは勇気のいる行動だった。

グレアスはそっとクッキーを手に取り、一口食べた。


「……美味い」


短い言葉だが、その声には本物の温かさが宿っていた。

グレアスは柔らかな笑みを浮かべ、クレアをまっすぐに見つめる。


「ありがとう、クレア。君とミーシャのおかげだな。」


その言葉にクレアは顔を赤らめたが、どこか嬉しそうに微笑んだ。

ミーシャもその様子を見て、心の中で「良かった」と安堵した。

その夜、クレアは部屋に戻るとそっとクッキーのレシピを眺めた。

「また作りたい」という思いが心の中に芽生えていた。

それが何なのかは分からないが、少しずつ、彼女の心に温かさが広がっているのを感じていた。

グレアスとミーシャにとっても、この小さな出来事は希望の光となった。

クレアの記憶を取り戻す道のりはまだ始まったばかりだったが、彼女が笑顔を見せるたびに、失われた時間を少しずつ取り戻せる気がした。


────────────────────────


戦争の喧騒が静まり、屋敷にようやく日常が戻りつつあったある日のこと、グレアスのもとに一通の手紙が届いた。

差出人は父王であるジュベルキン帝国の国王だった。

グレアスは緊張を抱えながら封を切り、その内容を読んだ。

『クレアと会って話がしたい。戦後の状況や彼女の身の上を直接聞きたいと思う。可能なら、近いうちに宮廷まで連れてきてほしい。』

グレアスは手紙を握りしめ、眉間にしわを寄せた。

クレアの身を案じる父王の意図は理解できたものの、彼女はまだ記憶を失ったままである。

それに、王との面会はクレアにとって負担になりはしないだろうか──その思いが頭をよぎる。


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その夜、グレアスは食事を終えたクレアを部屋に招き入れた。

机の上には父王からの手紙が置かれている。


「クレア、少し話したいことがあるんだ。」


クレアは不思議そうな顔をしながら、椅子に腰を下ろした。

その顔には相変わらずの穏やかな表情が浮かんでいる。


「何でしょうか、グレアス殿下?」


彼女の優しい声に、一瞬、躊躇するように口を閉じたが、意を決して切り出した。


「父上から手紙が来たんだ。クレアと直接会って話がしたいとおっしゃっている。」


クレアは目を丸くした。その場の空気が少しだけ重くなる。


「えっと……その、国王様とお会いするんですか?」


グレアスは軽く頷くと、できるだけ優しく言葉を続けた。


「無理をする必要はない。記憶が戻らないまま会うことに抵抗があるなら、断っても構わないんだ。だけど、君が前向きに受け入れるなら、父上はきっと喜ばれると思う。」


クレアはしばらく沈黙した。

自分を失ってしまった状態で国王に会うことの重圧は、どれほどのものか。

グレアスはそれを気にしているのだろう。

やがてクレアは、ふっと微笑みを浮かべた。



「大丈夫です。会ってみます。私がここでお世話になっているのも、グレアス殿下や皆さんのおかげです。国王様にも、そのことをきちんとお伝えしたいですから。」


彼女の言葉に、グレアスは驚きと感嘆を覚えた。

記憶を失っているにもかかわらず、彼女は目の前の現実を受け入れ、自分なりに前を向いて進もうとしている。

その健気さに胸が締め付けられる思いだった。


────────────────────────


翌日、ミーシャに宮廷行きの話を伝えると、彼女もまた心配そうな顔をした。


「クレア様にとって、少し重荷にならないでしょうか……」


グレアスはその言葉に頷いたが、すぐにクレアの笑顔を思い浮かべた。


「大丈夫だ。クレアは自分で承諾してくれた。むしろ、何か新しい記憶が戻るきっかけになるかもしれない。」


ミーシャもそれを聞いて少しだけ安心したようだった。そしてクレアのために上品で華やかなドレスを選び、宮廷へ向かう準備を進めていった。

準備を整えたクレアは、豪華な馬車に乗り込む前に屋敷の庭を振り返った。

どこか懐かしいような、切ないような表情を浮かべながら、小さく息をつく。


「ここが私にとって大事な場所なんだろうな……」


その呟きに気づいたグレアスはそっと彼女の隣に立った。


「クレア、どんな時でも君の味方だから。無理をする必要はない。」


クレアは頷き、小さく微笑んだ。その表情には、わずかだが不安を乗り越えようとする強い意志が感じられた。

こうして、彼女たちは宮廷へ向かう旅路へと足を踏み出した。

グレアスとクレアを乗せた馬車は、やがて荘厳なジュベルキン帝国の王城へと到着した。

城の前では、王宮の侍従や護衛たちがきちんと整列し、彼らを迎える準備を整えている。

クレアはその光景を目にし、少し緊張した様子でグレアスを見上げた。


「大丈夫だ、何も恐れることはないよ。父上も母上も君を心から歓迎してくれる。」


グレアスの言葉に、クレアは小さく頷く。

彼の優しい声が、不安をわずかに和らげてくれるようだった。


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城内へと案内された二人は、広々とした謁見の間へ通された。

高い天井、きらめくシャンデリア、そして左右に並ぶ重厚な柱。

その奥には、堂々たる姿で座する王と、優雅な佇まいの女王がいた。

グレアスが膝をつき、クレアもそれに倣う。

王はすぐにその場を和らげるように手を軽く振り、彼らに立ち上がるよう促した。


「グレアス、よく来た。そして……クレア嬢。君も、よくここまで来てくれた。」


王の声は落ち着いており、どこか父親らしい温かみがあった。

クレアは緊張した面持ちで一礼すると、口を開いた。


「お招きいただきありがとうございます。ですが……私は……記憶を失ってしまっていて、本来の私を思い出せないまま、こうしてお会いすることになってしまいました。本当に申し訳ありません。」


クレアは視線を伏せながら、頭を深く下げた。

その姿はどこかか細く、痛ましいものがあった。

すると、王は少し眉を下げ、柔らかい口調で言った。


「謝る必要はない。君が無事でいる、それだけで十分だ。我々にとって一番大事なのは、君がこれからどう過ごすかということだ。」


王の言葉に続けて、女王が優しく微笑みながら言葉を添えた。


「そうよ、クレア。辛いことがたくさんあったでしょうけれど、今こうしてここにいるということは、それだけで大きな一歩なの。あなたが記憶を失っても、私たちは何も変わらないわ。あなたを大事に思っているの。」


その言葉に、クレアの瞳が揺れた。そして、目を伏せながら小さく頷いた。


「ありがとうございます……。記憶がない私にまで、こんなに優しくしてくださるなんて……本当に感謝しています。」


王と女王は、クレアの負担にならないよう、話題を変えつつ、彼女と会話を続けた。


「グレアスが君を大事にしている様子は、手紙や報告でよく伝わっているよ。」


王がそう言うと、クレアは思わずグレアスの方に視線を向けた。グレアスはわずかに赤くなった顔をそらし、軽く咳払いをした。


「グレアス殿下には、本当に良くしていただいています。私は……まだ何もできていないのに。」

「そんなことはない。」


女王がすかさず言葉を挟んだ。


「あなたがそばにいてくれることが、グレアスにとってどれだけの力になっているか、本人が言わなくても分かるのよ。私たち親としても、それが一番嬉しいことなの。」


その言葉に、クレアの顔は少し赤くなったが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます……。私、少しずつでも、思い出せるように頑張ります。そして、皆さんに恩返しができるようになりたいです。」


王と女王は、その言葉を喜ぶように頷いた。

その後も少しの間、和やかな会話が続いた。

記憶を失っているクレアを気遣いながらも、彼女の気を和らげるようにと、王と女王はあえて明るい話題を選んで話を進めていった。

最初は緊張していたクレアだったが、彼らの優しい言葉に少しずつ心を開き、最後には自然な笑顔を見せるまでになっていた。

こうして、クレアにとって初めての王との面会は、穏やかな空気の中で幕を閉じた。


────────────────────────


クレアはその夜も、深い眠りに落ちることができなかった。

疲れていたはずなのに、再び目を閉じるとすぐに恐怖が彼女を襲った。

それは前回とは異なる悪夢だった。

今度は、見知らぬ場所で、誰かが彼女を追い詰めているような感覚があった。

足元には闇が広がり、周囲にはまばらに高くそびえる黒い岩が立っている。

冷たい風が頬を撫でると、その風はまるで何かの声のように聞こえ、耳元でささやく。


「逃げろ……逃げろ……」


クレアは息を荒げ、背後を振り返ったが、そこにはただ空虚な闇が広がるばかりだった。

その闇の中から、ぼんやりとした影がこちらに向かって伸びてくる。影は形を失い、ただ無機質に動き続け、どんどん迫ってくる。

その影がどこから来るのか分からない。

感じるのはただ、無情で冷徹な恐怖だった。

逃げようと足を動かすが、足が地面に絡みつき、動けなくなる。

まるで体が動かないかのように感じる。


「お願い、誰か助けて……」


クレアは絶望的な声を上げた。

けれど、どこにも誰もいない。

恐怖に震えながら、必死にその影から逃げようとするが、徐々にその距離が縮まり、影の中から見えたものは、クレアを見据える冷たい目だった。

その目がどんどん近づいてくる。

その目の中に、無数の後悔や怨念が見える気がした。

クレアはその目の中に自分の姿を見たような気がして、ぞっとした。


「やめて……」


クレアは叫んだ。

が、声はかすかにしか響かず、すぐに消えてしまう。

その瞬間、影が一気に迫り、目の前に黒い手が伸びてきた。

その手がクレアの肩を掴んだ瞬間、彼女は身体中に激しい痛みを感じ、息ができなくなった。

胸が締め付けられ、心臓が引き裂かれるような感覚に包まれた。


「お願い……」


クレアは再び助けを求めて声をあげたが、その声もすぐに消え失せた。

最後には、意識が遠のき、目の前が真っ暗になった。

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クレアはハッと目を覚ました。

目を開けると、周囲は暗く、薄明かりだけが部屋を照らしていた。

心臓が激しく鼓動している。呼吸も荒く、冷や汗が背中を伝う。


「また、あの夢……」


彼女は苦しげに息を吐き、額を押さえた。

夢の中で感じた恐怖が、まだ現実のように胸に残っていた。

手のひらが震え、身体が強張る。

背後から聞こえる風の音すらも、夢の続きに感じてしまう。

彼女はふと、ベッドの側にある小さなランプに手を伸ばし、明かりを灯す。

柔らかな光が部屋を包み、ようやく心を落ち着けることができた。


「……もう一度、あんな夢を見たくない。」


そう呟いて、クレアは布団をしっかりと掴み、深く息を吸い込んだ。

まだあの恐怖が残っている。

目を閉じても、頭の中で影が迫ってくるような気がしてならなかった。


少しの間、身体を横たえたまま、クレアは目を閉じた。

そのまま再び眠りにつくことができるかどうか、わからないまま。

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