グレアスは執務室で書類に目を通しながら考え込んでいた。
クレアが記憶を失っている中で、自分にできることは何か──ずっと悩んでいたが、ある考えが頭をよぎった。
「クレアにとって良い刺激になるかもしれない。」
医師からの助言もあった。
『気分転換や新しい経験が記憶回復の手助けになることもある』と言われていたのだ。
そこでグレアスは、クレアを街へ連れ出すことを決めた。
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翌朝、グレアスはクレアの部屋を訪ねた。
窓辺に座るクレアは外を見つめており、その姿はどこか寂しげだった。
「クレア。」
グレアスの声に、クレアは振り返った。
彼女の表情にはまだ緊張の色が浮かんでいたが、グレアスを見てほっとしたような笑顔を見せた。
「何か用事ですか?」
「少し外に出てみないかと思ってね。今日は街に出掛けよう。」
クレアは驚いたように目を丸くした。
「街に……ですか?」
「ずっと部屋に閉じこもっているのは良くない。新しい景色を見るのは気分転換になるし、君にとっても良いと思うんだ。」
クレアは少し迷った様子だったが、最終的に小さく頷いた。
「わかりました。でも、わたし……街のことも何も覚えていないし、迷惑をかけないでしょうか?」
グレアスは優しく微笑んだ。
「君が迷惑なんて思ったことは一度もないよ。それに、私が一緒だ。安心してくれ。」
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グレアスとクレアは城を出て馬車に乗り、街の中心地へと向かった。
馬車の中でクレアは窓から外の景色を眺めていたが、やはり少し緊張している様子だった。
「ずいぶん賑やかですね。」
クレアは少し控えめに呟いた。
「そうだな。今日は市場の日だから、特に人が多いんだ。」
馬車が止まり、街の中心地に降り立つと、そこには露店が軒を連ね、多くの人々で賑わっていた。
果物や花、布地など、色とりどりの品物が並び、活気あふれる声が飛び交っていた。
クレアはその光景に目を奪われ、周りをきょろきょろと見回していた。
「こんなにたくさんの人……すごいですね。」
「君が気になるものがあれば、何でも言ってくれ。ゆっくり見て回ろう。」
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グレアスと共に歩きながら、クレアは露店の品々を眺めた。
最初は遠慮がちだったが、グレアスが何気ない会話で場を和ませるにつれ、彼女の表情は少しずつ柔らかくなっていった。
「これ、すごくきれいですね。」
クレアが立ち止まったのは、小さなガラス細工を売る店だった。
そこには繊細な花の形をしたガラスのアクセサリーが並んでいた。
「気に入ったかい?」
グレアスが尋ねると、クレアは少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。でも、見るだけで……」
グレアスは軽く笑い、店主に声を掛けた。
「これを一つ、包んでくれ。」
クレアは驚いた顔でグレアスを見た。
「そんな……いいんですか?」
「君が気に入ったものだからね。今日は君のための日だ。」
渡された小さな包みを握りしめ、クレアは微笑んだ。
「ありがとうございます。……とてもきれいです。」
その笑顔を見た瞬間、グレアスの胸に温かいものが広がった。
だが、同時に胸の奥に痛みも感じた。
「(今の彼女は、僕を覚えていない──)」
心の中でそう呟き、グレアスは一瞬だけ目を伏せた。
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露店を回り終えた後、グレアスはクレアを小さなカフェに連れて行った。
通り沿いのテーブルに座り、二人でお茶を飲みながら話をするうちに、クレアはさらに打ち解けた様子を見せた。
「殿下って、不思議な方ですね。」
クレアがふと漏らしたその言葉に、グレアスは少し驚いたように眉を上げた。
「どうしてだ?」
「いつも落ち着いていて、私が何をしても怒らないし……それに、こんなに親切にしてくださるのが、なんだか申し訳なくて。」
グレアスは静かに笑った。
「私はただ、君が笑顔でいてくれるのが嬉しいんだ。」
クレアは少し照れたようにうつむいたが、その頬がほんのりと赤く染まっているのが見えた。
その後、グレアスが何気なく店員と交わした冗談に、クレアがつい吹き出して笑う瞬間があった。
その声を聞いたグレアスは、心の底から嬉しくなった。
「(クレアがこうして笑ってくれるだけで、俺は幸せだ)」
彼はそう思いながらも、記憶を取り戻した時のことを想像し、再び胸が締め付けられるような気持ちを覚えた。
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馬車に乗って城に戻る途中、クレアは少し疲れた様子でグレアスに寄りかかってきた。
驚きつつも、グレアスはそっと彼女の肩を支えた。
「今日は楽しかったです。こんな風に外に出たのは初めての気がします。」
「それなら良かった。君が楽しめたなら、それで十分だ。」
クレアは眠たそうな目をしながら小さく微笑んだ。
その無防備な姿に、グレアスは彼女をしっかりと守りたいという思いを強くするのだった。
クレアの記憶が戻る日はまだ遠い。
しかし、彼女とのこうした時間が、二人にとって新たな絆を築く一歩となるのかもしれない。
グレアスはそう信じ、これからも彼女を支え続けることを心に誓った。
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翌日、グレアスは執務室で書類を片付けていたが、庭師のジョンが控えめに部屋を訪れた。
「グレアスの旦那、お嬢様に庭をお見せしたいんだが……いいか?」
ジョンの提案にグレアスは一瞬驚いたものの、すぐに微笑んで頷いた。
クレアが記憶を失った今でも、庭の景色が彼女に良い影響を与えるかもしれないと考えたのだ。
「分かった。クレアにも伝えておく。きっといい時間になるだろう。」
ジョンは深く頭を下げると、足早に庭へと戻っていった。
その後、グレアスはクレアの部屋を訪れた。
窓辺に座り、静かに本を読んでいたクレアが彼に気付いて顔を上げた。
「グレアス殿下。」
まだ少し堅さが残る彼女の声に胸が締め付けられつつも、グレアスは柔らかな表情を保った。
「クレア、今日は庭に行かないか。庭師のジョンが君に見せたいものがあると言っていてね。」
クレアは一瞬戸惑ったようだったが、やがて頷いた。
「庭……いいですね。行ってみたいです。」
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クレアとグレアスが庭に出ると、そこにはジョンが待っていた。彼は土のついた手袋を外し、にこやかに二人を迎えた。
「クレア嬢、こちらにどうぞ。見覚えがないかもしれんが、この庭は以前、クレア嬢が熱心に手入れしていた場所だ」
ジョンに促され、クレアは花や草木が鮮やかに生い茂る庭を見渡した。
その景色に目を奪われながら、彼女はゆっくりと歩みを進めた。
「これ、わたしが……?」
クレアの声には戸惑いと興味が入り混じっていた。
ジョンは嬉しそうに頷くと、一角の小さな畑に彼女を案内した。
「ここでは、とうもろこしを育てていたよ。クレア嬢が種を植え、水をやり、手塩にかけて育てたんだ」
ジョンはそう言いながら、畑の空いた場所を指差した。
「収穫の時期には、お嬢様と一緒にとうもろこしを収穫して、殿下たちにお渡ししたなぁ。あのときの楽しそうなクレア嬢の顔が、今でも目に浮かぶぞ」
クレアは驚いたように目を丸くした。
「そんなことを……わたしが……?」
「ああ、本当に楽しそうだった。そして、クレア嬢は次に何を植えるか、いつも相談してくれたんだ」
ジョンの言葉に、クレアは小さな畑を見つめながら、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「次に何を植えるか……」
クレアは呟いた。
「ああ。クレア嬢は次にハーブを植えてみたいと言ってたな。香りが良くて、料理にも使えるものを選ぼうと考えていたみたいだ」
ジョンがそう話すと、クレアは少し考え込んだ後、小さく微笑んだ。
「わたし……また何か植えたいです。覚えていないのに変ですけど、この庭にいると、何かしたいって気持ちになるんです。」
その言葉を聞いたジョンの顔がさらに明るくなった。
「それならぜひ一緒に計画を立てましょう。お嬢様が新しく作る庭、きっと素敵なものになりますよ。」
グレアスはそのやり取りを少し離れた場所から見守っていた。
クレアが心を開き始めている様子に安堵すると同時に、彼女が記憶を取り戻さなくても、新しい幸せを見つけられるのではないかと思った。
「(クレアのペースに合わせて進んでいけばいい)」
心の中でそう決意しながら、グレアスは優しい眼差しでクレアとジョンを見つめ続けた。
その日、庭で過ごした時間が、クレアにとって新たな一歩となったのは間違いなかった。彼女は記憶がなくても、自分自身の中に何かを見つけようとしていた。
そして、その小さな変化に気付いたグレアスもまた、彼女を支える決意を新たにするのだった。
庭の静かな時間は、二人にとってかけがえのないひとときとなった。
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その夜、クレアの意識は眠りの中で沈み、いつしか彼女は漆黒の世界にいた。
薄暗い森、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。
月明かりは弱々しく、木々の間を縫うように照らすが、光は心許なく、何か恐ろしいものがその奥に潜んでいると直感的に感じられた。
足元には鋭い小枝や濡れた葉が散らばり、靴底を冷たく濡らしていく。
そこにいるだけで息苦しく、どこか見えない圧力が彼女を押しつぶそうとしていた。
何かが近づいてくる気配音もなく、形もなく、それでもはっきりと背後に存在する恐怖が、肌をざわつかせた。
急に、森の奥から低い唸り声が響いた。その音は鋭く、耳元に突き刺さるような不快さを伴いながら広がる。まるで警告のようだ。
「誰か……いるの?」
震える声でそう呟いたが、返事はない。
代わりに、背後から枯れ枝が折れるような音が聞こえた。
カサッ、カサッ……
一定の間隔で近づいてくるその足音に、クレアの胸は恐怖で締め付けられる。
振り返りたい気持ちと、見てはいけないという理性の狭間で、足が動かない。
しかし、すぐ近くに迫る足音に背中を押されるようにして、クレアは走り出した。
最初は一歩一歩が重く、まるで体が鉛のようだった。
けれど、背後の音が速さを増すにつれ、クレアの足も勝手に動き始めた。
木の根に足を取られそうになりながらも、暗闇を切り裂くように前へと進む。
しかし、何度走っても景色は変わらない。
木々が同じ形で現れ、森が無限に続いているように思えた。
息が荒くなり、肺が焼けるように痛む。
それでも、止まるわけにはいかない。振り返ることもできない。
ただ、背後に確かにいる『それ』が牙を剥く寸前の感覚が、彼女を突き動かしていた。
そして突然、音が消えた。
足を止めると、今度は深い静寂が襲いかかる。
風も止まり、木々さえも動かない。
息を整えようとするが、心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように鳴り響き、静寂を壊していた。
そのとき──
ドン!
背後から何か重いものが地面に落ちた音がした。
体が凍りつき、振り返ることすらできない。
肌に冷たい何かの息が触れる感覚に、恐怖が頂点に達した。
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「──っ!」
クレアは叫び声を上げながら、ベッドから跳ね起きた。
部屋の中は暗く、夢の中の森の延長のように感じられる。
手足は冷たく震え、体中から汗が噴き出していた。
胸に手を当てると、心臓が今にも破れそうな勢いで鼓動している。
荒い呼吸を整えようとするが、頭の中はまだ夢の中の恐怖でいっぱいだった。
「……夢だったの?」
呟いた声は震え、部屋の中でかすかに反響する。
だが、あの追い詰められる感覚、冷たい何かが触れる感触はあまりにも現実的だった。
手元にあった水のグラスを持ち、震える手で一口飲む。
冷たい水が喉を通る感覚で少しだけ現実に引き戻されたが、心の中にはまだ夢の影がこびりついていた。
再びベッドに戻り、毛布を引き寄せて目を閉じる。
しかし、瞼を閉じるたび、闇の中で背後に迫る『それ」の影が浮かび上がってくる。
深夜の静寂の中、クレアの部屋は静まり返っていた。
しかし、その静けさは、彼女を包む不安を余計に際立たせるものだった。
夢の中での恐怖が現実と夢の境界を曖昧にし、彼女は浅い眠りに落ちたり、はっと目覚めたりを繰り返した。
夜はやけに長く感じられ、いつの間にか窓の外には薄い青い光が差し始めていた。
それでも、クレアの胸のざわつきは消えることなく、どこかで自分を待っている『それ」の存在が、彼女の心に爪痕を残していたのだった。