自室の扉を閉じた瞬間、グレアスは深く息を吐いた。
扉の向こう側、クレアが眠る部屋にいるときは、平静を装っていた。
いや、装わなければならなかった。
彼女の目に映る自分が弱々しく見えてはならないと、必死に表情を保っていた。
だが、その張り詰めた仮面は、扉が閉まった瞬間に崩れ去る。
「……なんてことだ……」
かすれた声が、自分の口から漏れた。
部屋の中央まで歩みを進めたが、足元が重い。
ソファに腰を落とすと、頭を両手で抱え込む。
クレアが、自分を忘れている──その現実が胸をえぐるように痛い。
「あれほど守ると誓ったのに……」
震える声で呟く。記憶を失ったクレアの困惑した瞳が何度も脳裏に浮かぶ。
自分を見て、『誰?』と尋ねる声が、耳から離れない。
彼女の表情には恐怖も混じっていた。それが何よりも堪えた。
自分のことを忘れたばかりか、クレアの中で『グレアス』という存在は、どこか警戒すべきものにすら見えた。
あの大切な時間をともに過ごしてきた相手が、自分を“他人”として見る──その事実が、胸に鋭い刃を突き立てたかのように痛かった。
「俺がもっと早く気づいていれば……」
グレアスはソファから立ち上がり、机に拳を叩きつけた。
「俺のせいだ……俺の不甲斐なさのせいで!」
その拳に力が入りすぎて、鈍い痛みがじわりと広がる。
しかし、その痛みですら彼の苛立ちと自責の念を和らげることはできない。
守ると誓ったのに、彼女を失わせてしまった。
この苦しさをどう表現していいのか、彼には分からなかった。
視線を机の上に向けると、そこにはクレアが好きだった花が生けられた花瓶が置いてあった。
何気なく選んだはずの装飾品が、今は彼の心にさらなる追い打ちをかける。
クレアが笑顔でこの花を眺めていた姿が、瞼の裏に浮かぶ。
「どうして……」
再び呟き、グレアスは拳を握りしめた。
彼女の記憶が戻らなかったらどうなるのだろう──その恐ろしい考えが頭をもたげる。
あの明るい笑顔を、もう一度見ることができないのかもしれないという絶望感が、彼を深い闇へと引きずり込んでいく。
「戻るさ……絶対に戻る……!」
グレアスは自分に言い聞かせるように声を上げた。
しかし、その言葉がどこか空虚に響くのも分かっていた。
記憶を取り戻す方法がわからない以上、それはただの願望でしかない。
そのとき、静かな足音が聞こえた。グレアスが顔を上げると、扉がわずかに開き、灰色の毛並みを持つフェルが部屋に入ってきた。
フェルはまるでグレアスの苦しみを察しているかのように、ゆっくりと近づいてきた。
「……フェル、お前も心配なんだな……」
グレアスは膝をついてフェルの頭を撫でた。
フェルの瞳には不安が宿っているが、同時にグレアスを励ますような優しさも含まれていた。
まるで、『あなたは一人ではない』と語りかけているようだった。
「ありがとう。だけど……俺には、まだどうしていいのか分からない。」
グレアスは静かに呟き、フェルの毛並みに手を滑らせる。
フェルはそっとグレアスに顔を擦り付け、その温もりを分け与えようとするかのようだった。
グレアスは目を閉じ、深呼吸をした。そして、心に誓う。
「必ず、彼女を元に戻してみせる……どんな手を使っても……」
その言葉には、これまでのような迷いや後悔はなかった。
フェルの存在が、グレアスの心に微かな灯をともしたのだ。
そして彼は立ち上がる。
まだ戦いは終わっていない。
クレアの記憶を取り戻すために、そして再び彼女の笑顔を取り戻すために、グレアスは新たな決意を胸に秘めていた。
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ミーシャはクレアが目覚めたと聞いた時、胸の奥が熱くなり、急いで部屋に向かっていた。
「クレア様が目覚めた……!本当によかった……」
足取りは自然と軽くなり、クレアの部屋の扉の前に立つと深呼吸を一つした。
クレア様に会える──その喜びが彼女の顔に柔らかな笑みを浮かべさせていた。
ノックをしてから部屋に入ると、ベッドの上で目を覚ましたクレアが、窓の外に視線を向けているのが見えた。
その姿に胸がいっぱいになり、思わず声が漏れる。
「クレア様……本当に……よかったです!」
しかし、クレアの顔は不安げに曇っていた。
そして、ミーシャに視線を向けると、予想もしなかった言葉が投げかけられた。
「……あなたは誰?」
ミーシャの心が凍りついた。
まるで、地面が崩れ落ちるような感覚。
喜びが一瞬で霧散し、彼女の顔から笑みが消えた。
「ク、クレア様……」
震える声で名を呼ぶが、クレアの表情には戸惑いしか浮かんでいない。
「ごめんなさい……わたし、本当に覚えていないの……」
ミーシャは泣きたい気持ちを懸命に押し殺し、頭を下げた。声が震えないように、慎重に言葉を紡ぐ。
「私はミーシャです。クレア様の専属のメイドで、ずっとお仕えしてまいりました……お嬢様が眠られている間も、ずっとそばにおりました。」
クレアはしばらく黙ってミーシャを見つめていたが、やがて申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい……何も思い出せないの……でも、ミーシャさん……なんだか優しい人だって思うわ。」
その言葉に、ミーシャは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
たとえ記憶が失われていても、クレアの本質的な優しさは変わっていないのだと分かったからだ。
「ありがとうございます、クレア様。記憶が戻るまで、私がお世話させていただきますので、どうかご安心ください。」
そう言い切ると、ミーシャは軽く微笑みを浮かべ、そっとクレアの手を握った。
ミーシャは気を取り直し、クレアのためにリンゴを剥くことにした。
クレアの好きな果物を一つ一つ丁寧に剥き、小さな皿に盛り付ける。
その間も、言葉を選びながら話しかけた。
「クレア様、お加減はいかがですか? もし何かお飲み物が欲しければお持ちいたします。」
「ありがとう……でも、そんなに気を遣わなくていいのよ。」
記憶を失っているクレアは、以前のように彼女を頼るような態度ではなく、どこか他人行儀な受け答えだった。
その違和感が、ミーシャの心に針のように刺さる。
「いえ、私にとって、お嬢様のお世話をするのが一番の喜びです。」
ミーシャはそう言って微笑むが、その笑顔は少しぎこちなかった。
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お皿を片付け終わり、ミーシャはそっと部屋を後にした。
廊下に出ると、目頭が熱くなるのを感じる。
何とか耐えようとしたが、無理だった。
「……どうして……どうしてクレア様が、こんな目に遭わなければならないの……」
ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちる。
声を上げることはできなかったが、その場に立ち尽くしたまま泣き続けた。
「私がもっと……クレア様を守れていれば……」
自分を責める気持ちが止まらなかった。
専属メイドとして仕えてきた自分が、クレアの記憶喪失を止められなかった──そう考えると、胸が締め付けられる。
それでも、ミーシャは袖で涙を拭い、顔を上げた。
お嬢様が目覚めた以上、自分が泣いてばかりではいけない。
彼女の支えになるためには、強くならなければならない。
「大丈夫。きっと、記憶は戻るはず……私が側にいる限り……!」
心の中でそう誓いながら、ミーシャは再び仕事に戻るため歩き出した。
その背中には、専属メイドとしての決意が込められていた。
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数日が経過し、クレアは少しずつ身体の回復を見せ、自ら動けるようになっていた。
しかし、彼女の記憶は依然として戻らず、自分自身や過去の出来事を思い出す様子はなかった。
「ミーシャさん、ありがとう。なんだかいつもお世話になってばかりで……申し訳ないわ。」
クレアは申し訳なさそうに頭を下げたが、その姿には以前のような気品がありつつも、どこか遠慮がちだった。
ミーシャは笑顔で首を振った。
「そんなことはありません、クレア様。これが私の務めですから。それに、こうしてお嬢様が少しずつお元気になられる姿を見られるのが、何よりの喜びです。」
「そう……本当にありがとう。」
クレアはぎこちない笑みを浮かべたが、心の底からの感謝を伝えようとしているのは明らかだった。
そんな平穏な日常が戻りつつある中、グレアスの元に一通の手紙が届けられた。
差出人は、クレアの実家であるシークエンス家──かつて彼女を捨てた冷酷な家族だった。
グレアスは執務室でその手紙を受け取った。
封を開けると、そこにはシークエンス家の紋章が押されている文面が目に入った。
内容を読み進めるにつれ、彼の表情が徐々に険しくなっていった。
手紙にはこう記されていた。
『グレアス殿下へ。クレアが記憶を失ったとの報告を耳にいたしました。 この状況は私たちにとっても由々しき事態であり、ぜひともクレアを一度、実家にお戻しいただきたいと考えております。シークエンス家としても、彼女の体調と記憶の回復を見守り、最善を尽くす覚悟でございます。貴殿におかれましては、この提案を熟考いただき、早急にお返事をいただければ幸いです。』
手紙を読み終わったグレアスは、拳を強く握りしめた。
シークエンス家の書きぶりには一見誠意が込められているように見えるが、グレアスにはその裏に潜む偽善的な意図が容易に想像できた。
「今さら……何を……!」
グレアスは深いため息をつき、手紙をデスクの上に投げ出した。
彼の脳裏には、かつてクレアがシークエンス家でどのような扱いを受けていたかの話が蘇る。
冷遇され、家族としての愛情を受けられなかった日々──その苦痛を彼女が語っていたことが、何度も思い出された。
「彼女を捨てた連中が……今さら何を言うつもりだ」
手紙に記された『彼女の体調と記憶の回復を見守る』という文言が、グレアスにはまるで空々しい建前にしか感じられなかった。
「彼女が記憶を失ったからといって、都合よく自分たちの元に戻そうとするのか……そんなこと、させるわけにはいかない」
グレアスは強い決意を胸に、返事をどうするか考え始めた。
その夜、ミーシャがグレアスの元を訪ねてきた。
クレアの近況を報告するためだったが、彼女はデスクに広げられた手紙に目を止めた。
「殿下、これは……?」
グレアスは手紙を渡し、短く説明した。
「シークエンス家からだ。クレアを一度実家に戻せと言ってきている。」
ミーシャの顔が強張った。
「それは……クレア様をあれほど冷遇しておきながら……どうして今さら?」
「記憶を失ったからだろうな。」
グレアスは静かに言ったが、その声には怒りが滲んでいた。
「記憶が戻らないうちに、自分たちの都合の良い形でクレアを引き取って利用しようとしているに違いない」
ミーシャは唇を噛み締めた。
かつてのシークエンス家での暮らしが、どれほどクレアにとって辛いものだったかを知っているからこそ、同じ思いをさせたくないという気持ちが湧き上がる。
「殿下……どうか、断ってください。クレア様がまた傷つくようなことは、絶対にさせたくありません。」
グレアスはミーシャの言葉に頷いた。
「もちろんだ。クレアはもう、シークエンス家には戻さない。」
その言葉にミーシャは安堵したように見えたが、同時に不安そうな表情も浮かべていた。
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その後、グレアスはクレアの部屋を訪れた。
彼女は窓辺で外を眺めており、その横にはフェルが寄り添っている。
「クレア、少し話がしたい。」
彼女は振り返り、小さく頷いた。
記憶を失ったクレアにとって、グレアスはただの親切な人でしかないが、彼の落ち着いた声と優しい表情に安心感を覚えているようだった。
「どうしたの?」
「シークエンス家──君の実家から手紙が来た。君を一度迎え入れたいと言ってきている。」
クレアは首を傾げた。
「わたしの……実家?」
その言葉に違和感を覚えたのか、彼女の眉が少しだけ動いた。
記憶の断片がかすかに浮かび上がったのかもしれないが、それが何であるかを彼女自身は理解できていなかった。
「でも、今の君を彼らの元に戻すつもりはない。」
グレアスの言葉に、クレアは不安そうな顔をしたが、彼が自分のことを守ろうとしているのだということは伝わったのか、小さく微笑んだ。
「ありがとう……?」
その一言に、グレアスの胸は痛んだ。
クレアが記憶を失っていることに改めて無力感を覚えつつも、彼は彼女を守るためにどんな手段も取ると心に誓った。