グレアスは、クレアの寝顔をじっと見つめていた。
長い間目を覚まさなかった彼女は、今も静かにベッドに横たわったままだ。
何も変わらないかのように、呼吸も穏やかで、ただその姿が美しくて、無力であるかのように感じられた。
彼女が目を覚ますのを待つ時間がどれほど長かったのか、グレアスには分からなかった。
戦争の後始末、政務の仕事、そして自らの体調すらも気にかける余裕がない日々。
そのすべてを投げ出しても、今はただクレアを見守り続けるしかなかった。
「クレア…」
と、思わず声をかける。
だが、何の反応もない。
心の中で何度も彼女に呼びかけ、願った。
どうか目を覚ませ、と。
グレアスはその手をそっとクレアの手の上に置いた。
冷たい手に触れると、胸が痛む。
あの強さと決意を持っていたクレアが、今はこんなにも無力だと思うと、ただただ辛い気持ちが込み上げてきた。
「君がいなくて、どうしていいのか分からない。」
その言葉は、誰に言うでもなく、ただの独り言だった。
息を吐くと、グレアスは目を閉じ、クレアの手を握りしめた。
信じている。
きっと目を覚ます日が来ると信じている。
だが、その日がいつになるのか分からない。
その時、ふとベッドの横に座っているフェルの気配を感じた。
小さな体を丸めて、グレアスとクレアのそばでじっとしている。
フェルは無言でその視線をクレアに向けているだけだが、グレアスにはその目が何かを訴えているように感じた。
「フェルも心配か?」
グレアスは小さく呟き、フェルの頭を撫でる。
フェルは耳をぴんと立てて、その手に体を預けた。
その小さな体温を感じると、心が少しだけ軽くなったような気がする。
「君も、あの時のクレアを見ていたんだろう?」
フェルは何も言わずにただグレアスを見つめ、尾をゆっくりと振った。
その振動に、グレアスは頷いた。
どんなに小さくても、フェルがここにいてくれることが、どれほど心強いことか。
あのとき、クレアが助けてくれたように、今度は自分が彼女を守らなくてはならないのだ。
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クレアの眠りが深く、長いものであることは、グレアスにとって避けられない現実だった。
彼女の無事を信じ、目を覚ます日を待ち続けること。
それが彼にとって最も重要なことであり、心の中で決してその希望を失わないようにしようと誓った。
しかし、現実は時にその希望を試すものだ。
グレアスはしばらくクレアの手を握り、穏やかな呼吸を感じていた。
フェルもじっと横で見守っており、空気は静かなものであった。
だが、次第にグレアスは他のことを考え始める。
戦争の後始末、残された義務、そして、数多くの未解決の問題が頭をよぎる。
「何から始めればいいのか…」
グレアスは自問するように呟いた。
その問いに答えることができる者は、今ここにはいない。
ただ彼一人がそのすべての重荷を背負い、前に進むしかない。
「クレアが目を覚ましたら、すぐにでも君を迎えに行けるように準備をしなければならない。」
その言葉は、心からの誓いだった。
しかし、それと同時にグレアスは、クレアが目を覚ますことがどれほどの希望であり、同時に恐怖でもあるのかを実感していた。
もし、クレアが目を覚まさなければどうするのか。
もし、彼女が目を覚ました時、全てが元通りではない現実に直面することになったら、どうすればいいのか。
その思いがグレアスの心に重くのしかかる。
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一方、ミーシャもまたクレアの容態を心配していた。
彼女はグレアスのそばで何度も何度もクレアの顔を覗き込んでは、無事を祈るように呟いていた。彼女の視線が不安げに揺れる。
「クレア様…どうして、こんなにも長く目を覚まさないのでしょうか。」
ミーシャは小さな声で呟き、クレアの横で座り込んでいた。
その心には、深い不安と切なさが広がっていた。
彼女は、クレアが目を覚まさないことが、すべての始まりだったことを痛感していた。
クレアが目を覚まさなければ、戦争も終わらないし、あの時のように穏やかな日々を取り戻すこともない。
「もし、私がもっと…もっとしっかりクレア様を守っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない…」
ミーシャの心にはそんな後悔が渦巻いていた。
彼女がクレアを守れなかったこと、そして自分の力の無さに対する無力感。
クレアが倒れるその瞬間、ミーシャはただ見守ることしかできなかった。
それがどれほど悔しく、苦しかったか。
クレアにとって、彼女がどれほど大切な存在なのかを、もっと理解していれば…。
「ごめんなさい、クレア様…」
ミーシャは小さく呟き、涙をこらえるように顔を背けた。
心の中で自分を責め、クレアが目を覚ますことを願いながら、ただ待つしかなかった。
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その時、フェルが静かにグレアスの側に寄ってきた。
小さな頭をグレアスの足元に擦り寄せると、ぐるりと顔を上げてじっと彼の目を見つめた。
その目には、どこか心配そうな感情が込められている。
「フェル…」
グレアスは、その小さな存在に少し微笑みかける。
普段は冷静で強さを持つグレアスも、この時ばかりは心の中で彼を頼りにしていた。
フェルは無言でグレアスに寄り添い、その温かな体温を分けてくれるように感じた。
グレアスはフェルの頭を優しく撫でながら、少しだけ心を落ち着かせる。
「君も、クレアを心配しているんだな。」
フェルはじっと静かにグレアスの顔を見つめた後、うなずいた。
彼の尾がゆっくりと振られ、その一瞬のしぐさがグレアスにはとても愛おしく感じられた。
「私は、きっとクレアを守らないといけないんだ。」
その言葉は、グレアスの決意そのものだった。
どんなに辛くても、どんなに長くても、彼はクレアを守り続けると誓っていた。
彼にとって、クレアが目を覚ますことが最も重要な使命であり、そのためにはどんな困難にも立ち向かう覚悟を決めていた。
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グレアスは深く息を吸い込み、クレアの手を握りしめた。
彼の心の中で、戦争の後始末、家族や国の責任といった重荷が次々に浮かんできたが、それらすべてが今は遠く感じられる。
今はただクレアを見守り、彼女の回復を信じることしかできなかった。
「クレア、目を覚ましてくれ。」
その言葉が、彼の胸から自然に漏れた。
心の奥底から湧き上がる焦燥感を、なんとか抑え込んでいるものの、どうしてもクレアの無事を願わずにはいられなかった。
彼女が目を覚まさなければ、これまでの戦いが無駄になってしまうような気がしていた。
それほど、クレアはグレアスにとってかけがえのない存在だった。
「君が目を覚ますその時が、僕にとっての希望なんだ。」
グレアスは心の中でクレアに誓いながら、再び彼女の手を握りしめた。
そうすることで、少しでも自分を落ち着かせることができると感じていた。
そして、フェルがまた静かにその場に寄り添っているのを感じると、少しだけ力が抜ける。
彼の温かい存在が、グレアスにとって今は支えだった。
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その日、ミーシャは少しだけ外に出ることにした。
普段はクレアのそばを離れることがなかったが、今日は少しだけでも他のことに気を向ける必要があると感じていた。
彼女は自分が抱える重圧と後悔を、少しでも解消するために歩みを進めた。
「私はクレア様を守るべき存在。彼女が元気を取り戻すその日まで、ずっと支えていかなければ…」
ミーシャはその言葉を胸に抱きながら、グレアスのもとへと歩を進めた。
クレアが目を覚ましたら、まずは彼女に笑顔を見せられるようにしなければならない。
彼女はそれがどれほど大切なことかを感じていた。
その途中、ふと立ち止まると、目の前にフェルが現れた。
彼はミーシャの顔をじっと見つめ、尾をふるふると振った。
そのしぐさがどこか安心させるようで、ミーシャは少しだけ微笑んだ。
「フェル、クレア様が目を覚ますまで、私も頑張ります。」
ミーシャはフェルに向かってそう言うと、彼は静かにうなずいた。
そして、二人はしばらくそのまま歩き続けた。
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その夜、クレアの体温に微妙な変化が現れた。
長い間、意識を失っていたクレアの体に、ようやく反応が返ってきた。
グレアスはそのわずかな変化を感じ取り、急いでクレアの顔を覗き込んだ。
「クレア…?」
グレアスは息を呑んでその顔を見つめた。
目の前の彼女がゆっくりとまぶたを動かし、長い眠りから目を覚まそうとしているのが分かった。
クレアの体が微かに動き、次第にその意識が現実に引き寄せられていく。
「クレア、目を覚ませ…!」
グレアスは震える声でそう叫んだ。
彼の心の中で何かが弾けるような感覚が広がる。
クレアが目を覚まし、再び彼のもとに帰ってくる。その瞬間を待ち望んでいた。
クレアの目が徐々に開き、彼女の意識が完全に戻る。それはまるで長いトンネルを抜けたような、明るい光が差し込んでくるような瞬間だった。
「ここは…?」
クレアの声がかすかに聞こえた。
それは、長い間眠り続けたクレアの最初の言葉だった。
グレアスはその声に涙を浮かべながら、彼女の手をしっかりと握り返した。
「クレア、よかった…本当に良かった。」
グレアスの声は震えていたが、それでもその中には深い安堵と喜びが込められていた。
クレアが無事でいること、そして彼女が目を覚ましたことに、心から感謝していた。
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目を覚ましたとき、クレアは何も思い出せなかった。
視界がぼんやりとしており、周囲の景色がまるで遠くから見ているように感じた。
自分がどこにいるのかも分からず、ただ静かな空間に身を横たえているだけだった。
身体に痛みはあるが、重いという感覚もなく、ただその存在感がぼんやりとあるだけで、何も理解できない。
目を開けても、体を動かしても、何も思い出せなかった。
ふと、手のひらに温もりを感じて目を向けると、見知らぬ人物がそこにいた。
誰か、そしてその人は自分に優しく声をかけている。
だが、その言葉が何一つとして心に響いてこない。
「クレア、君は大丈夫だ。僕がついている。」
その声は、優しさと安心感を含んでいたが、クレアはその声にまったく反応できなかった。
目の前にいる人物が、どこか見覚えがあるようで、でも全く思い出せない。名前も、何も。
その人の顔も、彼の瞳の色も、すべてがぼんやりとした霧のようなもので包まれている。心の中で『この人が誰か』という問いが浮かんでも、答えは出てこなかった。
「…あなたは、誰?」
声が震えて、息を吐くとともに疑問が口に出た。
しかし、その人は驚くことなく、ただ静かに微笑んだ。
「私はグレアス。君が覚えているはずの人だよ。」
その名前を耳にしても、何も響かない。
記憶の中に『グレアス』という人物は存在しない。
どこかに顔を思い浮かべようとしても、その輪郭すら浮かばない。
「私は…本当に、覚えていないの?」
クレアは自分の中に空白が広がっているのを感じていた。
あまりにも何も思い出せない自分が、少し恐ろしいと感じる。
その空白が、心に重く圧し掛かってくるのがわかる。
大切な何かを失った感覚。しかし、それが何かもわからない。
「君は、僕の大切な人だ。君を守るために、ずっと側にいる。」
その言葉に、クレアはさらに混乱する。
大切な人?
それが自分だというのはわかるが、その『大切な人』の意味が分からない。
どうして自分が『大切な人』になれるのか、そして何が大切なのか、それすらも分からなかった。
その人の目を見つめても、どこか心が冷たく、ひどく遠く感じられる。
その後、部屋の隅にいる一匹の犬が、クレアの足元に寄ってきた。
犬は無言でじっとクレアを見つめ、しっぽを振った。
その存在が、どこか懐かしく感じられる一方で、なぜ懐かしいのか、その理由は全く分からなかった。
「犬…?」
その言葉に反応はない。
ただ、その犬がクレアを見つめている。
彼女の言葉に犬は反応せず、静かに座り込んで、またじっと彼女を見上げている。
その姿が、心のどこかで胸を打つが、それがどんな感情から来ているのかはわからなかった。
まるで何かを感じるべきなのに、感情が鈍くて、心の奥で何かが切ないような空しさに変わる。
「君が私を思い出すまで、ずっと待つ。」
その言葉に、クレアはただ首をかしげるばかりだった。
自分にとってその言葉が何を意味するのか分からず、ただぼんやりと見つめ返すだけ。
どこかで、無理に記憶を取り戻さなければならないような気がしていたが、その必死さもまた、何かがわからない空虚感の一部でしかないように思えた。
どれだけ試みても、心の中には答えが見つからず、その空白だけが広がっていくばかりだった。
「(一体、私は誰だったのだろう)」