広大な草原を覆う朝霧がゆっくりと晴れ始める頃、ジュベルキン帝国の軍勢が前線に向けて進軍していた。
軍を率いるのは若き皇太子グレアス。
彼の眼差しには迷いがなく、鋭い光を宿していた。
「すぐに終わらせる。無駄な血を流させるな。」
彼は前線に立つ将軍たちにそう言葉を投げかけた。
相手はロレアス王国軍。
だが、既に先の戦闘で壊滅的な損失を受けた彼らが、十分な兵力や士気を持っているとは到底思えなかった。
戦場に到着すると、ロレアス王国の軍勢が遠くに見えた。
だが、その規模は明らかに劣っていた。
グレアスの軍と比較して半数にも満たず、陣形にも統率の欠如が見て取れた。
グレアスは馬を止め、双眼鏡を覗いた。
遠くで旗を振り、指示を出している将官らしき人物が見える。
「彼らも戦わざるを得ないのだな……」
口調は冷静だったが、その胸中には複雑な感情が渦巻いていた。
戦争は常に人の命を奪う。
それを理解していながらも、彼には止めることができなかった。
軍旗が振られ、突撃の命令が下された。
ジュベルキン帝国の兵士たちは訓練された動きで前進し、矢が雨のように敵陣に降り注ぐ。
ロレアス軍はそれを受けて混乱し、各々が散り散りになりながら応戦するも、士気が低い彼らに統一された動きはなかった。
「敵の防御は思った以上に弱いな。」
グレアスの側に控えていた参謀が呟いた。
その言葉通り、帝国軍はほとんど損害を受けることなくロレアス軍の防衛線を突破していく。
「(やはり、もう戦える余力は残っていないのか)」
グレアスは心中で呟きながらも、さらに命令を下した。
数時間の戦闘の末、ロレアス軍は完全に壊滅した。
降伏の白旗が掲げられ、戦場は一瞬にして静まり返った。
負傷した兵士たちが地面に座り込み、帝国軍の兵士たちは彼らの武装を解除していく。
グレアスは戦場を見下ろしながら呟いた。
「これが無意味でないことを祈る。」
戦闘が終わった今、彼がすべきことは次の手を打つことだった。
ロレアス王国に対し、改めて降伏を求める手紙を送る。それが彼の最優先事項となった。
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翌朝、グレアスはロレアス王国に向けた手紙を書き始めた。
グレアスが送った手紙には、簡潔でありながら容赦のない言葉が並んでいた。
『ロレアス王国宛
貴国の軍は既に壊滅した。
これ以上の抵抗は無益であり、さらなる犠牲を増やすだけだ。
貴国が即刻降伏し、賠償金を支払う意思を示すならば、我々はそれ以上の追及を行わない。
だが、もしこの要求を拒むのであれば、帝国軍はその国土すべてを制圧するだろう。
署名:ジュベルキン帝国皇太子 グレアス・ジュベルキン』
グレアスはこの手紙を封蝋し、信頼できる使者に託した。
その表情には一切の迷いがなく、徹底的に現実的な判断を下す者の冷静さが滲んでいた。
「この手紙が相手に届けば、彼らもようやく現実を理解するだろう。これ以上の戦争は無意味だ。」
彼はそう呟きながら、目の前の戦場跡を見下ろしていた。
負傷兵たちが運び出され、帝国軍の陣営では次の指示を待つ兵士たちが緊張した面持ちで控えている。
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一方、ロレアス王国の首都では、グレアスからの手紙を受け取った王室関係者たちが激しい議論を繰り広げていた。
ロレアス王国の元国王であるリューベルは顔を蒼白にしながら、重臣たちに視線を巡らせた。
「降伏するしかない……もはやこれ以上戦う余力は残っていないのだ。」
彼の声は震えていた。
すでに敗北の報せは国内中に広がり、民衆の不安は限界に達していた。
食糧不足に加え、軍の補給線も完全に断たれ、国中が絶望感に包まれていた。
だが、現国王ジュエルドは納得がいかない様子で机を叩いた。
「まだだ! まだ戦える方法があるはずだ! 降伏するなんて恥辱だ!それに今の国王は俺だ!」
彼の言葉は熱意を持って響いたが、その内容は現実を無視していた。
ジュエルドの激情により、重臣たちの間にはさらなる混乱が生じていた。
「陛下、もし降伏が遅れるようなことになれば、帝国軍はさらに厳しい条件を突きつけてくるでしょう。」
「その通りだ。今ならまだ条件は穏当だろう……。」
だが、ジュエルドはその言葉に耳を貸そうとはしなかった。
「俺が直接軍を立て直し、敵を叩き潰す! そうすれば帝国も簡単に攻め込むことはできないだろう!」
王室の混乱は長引いたが、結局のところ、現状を打開する具体的な方法がない以上、降伏を選ぶ以外の選択肢はなかった。
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数日後、ロレアス王国から返答の手紙が帝国陣営に届いた。
その内容は、グレアスの予想通り、降伏を受け入れるというものだった。
『ジュベルキン帝国皇太子 グレアス殿下へ
貴殿の要求を受け入れる準備が整いました。
これ以上の戦争は我が国の存亡に関わるため、無益な抵抗を控える決意をいたしました。』
手紙の末尾には、王国の元国王リューベルの署名が記されていた。
グレアスは手紙を静かに握り締めた。彼は少しの間目を閉じ、深く息を吐いた。
「ようやく終わった……。だが、元国王の名前がある……ジュエルドは納得していないのか……?」
だが、その声には安堵というよりも虚しさが漂っていた。
戦争の結末は勝利だったが、それによって失われた多くの命を思うと、心が晴れることはなかった。
帝国軍はロレアス王国に進軍し、降伏文書を調印するための場が設けられた。
ロレアス王国の王リューベルはやつれた表情を浮かべながら、その場に現れた。
戦争終結のための話し合いは、ロレアス王国の首都近郊にある古びた城館で行われた。
その場所はかつての貴族の所有物であり、今はリューベルが臨時で使用しているという。
広間の中央には長い木製のテーブルが置かれ、ロレアス王国の王リューベルとその数名の側近が座っていた。
グレアスは重厚な帝国軍の甲冑を身にまといながら現れた。
その背後には数名の帝国兵が控えており、彼の威厳をさらに際立たせている。
一方、リューベル王の顔は蒼白で、目の下には濃い影ができていた。
彼の隣にいる重臣たちも疲弊した様子を隠せず、テーブル上に広げられた地図を見つめる目には焦りが浮かんでいた。
「ジュベルキン皇太子殿下、お越しいただき感謝いたします。」
リューベル王が震える声でそう口にすると、グレアスは小さく頷いた。
「感謝は不要だ。必要なのは現実を直視し、これ以上の犠牲を回避することだ。」
グレアスの言葉は冷徹だった。
その声には戦争を終結させる意志が宿っていたが、同時に容赦のない鋭さがあった。
グレアスはロレアス王国が降伏を受け入れる場合の条件を淡々と述べ始めた。
「まず、貴国はジュベルキン帝国に対して相応の賠償金を支払うこと。それに加え、一部の領土を我が帝国に割譲する。これは戦争で失われた我が帝国の資源と人命に対する償いだ。」
リューベル王は顔を引きつらせた。
賠償金の支払いだけでも、現在のロレアス王国には大きな負担だ。
それに加えて領土を失うとなれば、民衆のさらなる不満を招くことは間違いない。
「殿下、それでは我が国は立ち直ることができません……賠償金については、可能な限りの金額をお支払いする覚悟ですが、領土割譲はご容赦いただけませんか。」
リューベル王は声を震わせながら懇願する。
「そうする理由がどこにある?」
グレアスは冷たく切り返した。
「貴国がこの戦争を引き起こしたのだ。そちらの現国王が愚かな野心を抱き、我が国に剣を向けた結果だ。この責任は貴国が全面的に負うべきだろう。」
「しかし……!」
リューベル王は何とか反論しようとしたが、言葉を詰まらせた。
その瞬間、グレアスは少しだけ声を落とした。
「貴国の民を思うならば、これ以上の被害を避けるべきだ。今は屈辱に耐え、再建を目指すほかない。」
話し合いが続く中、突然扉が開かれた。
そこにはジュエルドが現れた。彼は一目で怒りに燃えていることがわかる表情を浮かべていた。
「グレアス!俺たちが降伏すると思っているのか!」
彼はテーブルを叩き、グレアスに向かって叫んだ。
「ジュエルド!」
リューベル王は彼を制止しようとしたが、ジュエルドは聞く耳を持たなかった。
「俺たちロレアス王国は誇り高き国家だ! 賠償金だの領土割譲だの、お前の言う条件を飲むくらいなら、俺がこの手でお前を倒してやる!」
その挑発的な言葉に、広間は一瞬静まり返った。
帝国の兵士たちは剣の柄に手をかけ、緊張が高まる。
グレアスは立ち上がり、冷たい目でジュエルドを見つめた。
「そうか。では試してみるがいい。だが、その結果、貴国が完全に滅びることを理解しているのか?」
その瞬間、リューベル王が大声を上げた。
「やめろ、ジュエルド!」
王は席から立ち上がり、息子の肩を掴んだ。
その手は震えており、声にも明らかな焦りが混じっていた。
「これ以上国を破滅させるような真似はするな! お前は戦場で既に敗北しているのだ。今ここで暴れたところで、何も変わらない!」
ジュエルドは父の言葉に反発するように振り返ったが、結局何も言い返せなかった。
その場に居合わせた誰もが、ロレアス王国の敗北を認める以外の道がないことを理解していたのだ。
リューベル王は深く頭を下げ、グレアスに向かって言った。
「グレアス皇太子殿下、どうかお許しください。降伏を受け入れます。」
降伏文書の調印は粛々と進められた。
ロレアス王国が支払う賠償金の額、割譲する領土の範囲、そして今後の条約内容がすべて文書に記載され、双方が署名した。
調印を終えたリューベル王は完全に力尽きたように椅子に崩れ落ちた。
ジュエルドも悔しげに拳を握り締めていたが、何もできなかった。
グレアスは冷静に対応し、賠償金の額や条件について淡々と話し合いを進めた。
降伏の文書が調印されると、戦争は正式に終結を迎えた。
だが、グレアスの胸中には複雑な感情が残っていた。
クレアの身に起きたこと、戦争によって傷ついた多くの人々。
すべてを背負う覚悟をしていた彼にとって、それらは決して軽いものではなかった。
「これからは……この帝国を守るために、さらに努力をしなければならない。」
グレアスはそう自分に言い聞かせ、国へ帰還するために馬を進めた。